5.おわりに

5.おわりに


 本稿では、ぼくたちの抱える「空虚感」「満たされない気持ち」「何かが欠落したような感覚」を出発点として、ゆらゆら帝国というバンド、そして彼らの《空洞》の物語について、歌詞批評という立場から論じた。

 彼らの音楽の出発点にもやはり、「生という実感の欠如」があった。彼らの表現する語り手はそういったしがらみに対して「徹底的に無自覚な存在」になること、すなわち自身のうちに《空洞》をつくりだすことを歌った。しかし、そんな「空虚な存在」に成り果てた自分に、不安を抱いてしまう。《空洞》となった自分という存在にまたもや懐疑的になり、葛藤に苛まれるのだ。だが、そんな葛藤に苦悩するうちに、語り手はあるひとつの思考に到達する。それは「外部」あるいは「他者」というものが全て意味をなさない、無用の存在であり、「自己」もまたそうであるということだ。そうして「自己の不必要性」に気づいた語り手は思い悩むことをやめ、11th『空洞です』の楽曲に見られるように、自身の《空洞》、すなわち「無自覚な存在」「意味のない存在」であることを受け入れ、肯定するに至る。これが、ゆらゆら帝国というバンドがたどった《空洞》の物語である。

 

 話を冒頭に戻そう。

 繰り返しになるが、ぼくたちには「満たされない気持ち」「何かが欠落したような感覚」といったものが、いつも心のどこかに存在している。そしてその原因も正体もさっぱり分からないから、何かを買って手に入れたり、他者から何らかの承認を得たり、自分という存在に役割を与えたりすることで、とりあえず一時的に満たされようとする。この闇雲ともいえる手探り状態の穴埋め行為には、こうして色々と試していればそのうち「空虚感」の正体がつかめるのではないか、という無意識の目論見がある。すなわちこれらの穴埋め行為は、その「空虚感」というよくわからない感覚に「意味」を与えようとするものなのだ。ぼくたちはこれを無意識のうちに、自分でも気づかないうちに、常に行っている。要するにぼくたちは、「無意味」な感覚、ひいては「無意味な自分」というものを、極度に怖れているのである。

 ゆらゆら帝国は、本稿で見たような《空洞》の物語を通じて、そのような「意味のない自分」を肯定すること、さらに言えば、そのような内省的なしがらみすら感じない「無自覚な存在」となることを提案してくれた。「空洞です」に見た「意味を求めて無意味なものがない」というのは、自分の存在に「意味」を与えようとするばかりに思い悩み、暗中模索的な穴埋め行為を繰り返してしまうぼくたちへの、皮肉と警告の言葉ではないだろうか。そんな「意味という病」に侵されたぼくたちを見て「無意味なものがない」と、嘆いているのである。ただ「在る」だけではダメなのか、そこに「意味」がないとダメなのか、と。


 もちろん、ゆらゆら帝国の表現した「空虚感」への態度は、実に消極的で後ろ向きなものである。場合によっては逃避行動であるとも言えるかもしれない。そして、そこに「意味」を求めることは決して悪いことではない。選択肢はぼくたちそれぞれにある。

 

 ただ、ぼくは思うのである。「意味という病」に侵されたぼくたちにとって、「あえて積極的に無自覚になる」こと、「あえて抵抗しない」こと――これこそが、唯一の対抗手段なのかもしれないと。


 「意味」を手に入れるための闘争に駆り出されなくてよいこと、そういった安らぎがあってもいいのかもしれない。

                                (おわり)

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「意味という病」から「無意味という救い」へ ──── @bnbn_magus

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