3.さらに三年後

 ジゼルに師匠の病状を知らせたのはレオンだった。相当危険な状態らしい。

「今なら間に合うんだ。会いに行こう」

「それならニコラも一緒に」

「いや、無理だ」

 レオンは首を振った。

「すまない、馬が一頭しか用意できなかったんだ。俺とジゼルでせいいっぱいだ」

 魔法の流派のせいで、レオンもジゼルも空を飛ぶのは得意ではなかった。普通に陸路を行く方が労力がかからない。

「それなら……」

 断ろうとしたジゼルを制したのはニコラだった。

「ママ、行ってきて。私のことは心配しないで」

「そうだ、ジャンもいる」

 レオンはいまだに犬のままのジャンに目をやる。ジャンに会ってからレオンは頻繁に訪れるようになった。ジャンが満月の夜ごとに人に戻れるようになってからは、剣の稽古をつけていた。元々運動神経が良かったのか、短い稽古時間でもそれなりに扱えてきているらしい。

 護衛としては安心でも、別の意味の不安もあった。

 ジャンの呪いが解けてきているのをジゼルはしばらく気づかなかった。人に戻れるのは夜に限っていたからだ。それを知ったとき、ジゼルはジャンの寝床をニコラの部屋から客間に移した。

 人に戻って何をしていたのか問い詰めたところ、「ニコラを見ていた」とジャンは答えた。

 ――二人きりにして平気だろうか。

 一方でニコラは、ジャンの寝床を移すと聞いて「一緒でも大丈夫なのに」とこぼした。そのとき、ジゼルはニコラの評価を少し変えたのだ。

 結局、レオンとニコラに説得される形で、ジゼルは家を後にした。

 ニコラに見つからないようにジャンを呼び寄せ、「引きちぎられたくなかったら、わかるわね?」と脅すことは忘れなかった。


 ジゼルが出かけて数日。

 ニコラが庭で魔法の練習をするのを、ジャンは遠くから眺めていた。魔法を使うときは危ないから離れているように、最初のころから言いつけられていた。

 十八歳になって一気に女らしくなったニコラを、ジャンはときどき直視できない。眩しすぎる。笑顔でも向けられたら、それだけで倒れそうになる。

 ニコラの杖の先でぽっと火が灯った。彼女は一人で練習しているときはあまり失敗しないのに、ジゼルの前では緊張するのかよく失敗していた。そのため、まだ見習いを卒業できていなかった。

 ふとニコラが顔を上げ、森の小道に目をやった。

 誰か来たのだ。

 ジャンも気づいて、ニコラの隣に駆け寄る。こういうときにジャンが初めから前に出ると、ニコラは必ず下がらせた。それを理解して、ジャンは危険かどうかはっきりするまで隣に控えることにしていた。

 小枝を踏む音を気にせずに現れたのは、青年二人だった。おそらくジャンより少し年上だ。

「誰?」

 ニコラが尋ねた。鈴を鳴らしたような声が硬くこわばっている。

「村の者だよ」

「ジゼルさんが出かけて行ったから、心配でやってきたんだ」

 にこやかな笑顔で二人は答えた。

 ジャンが犬になってから村に帰ったのは、ジゼルに連れられての一度きりだった。幼いころに遊んだこともあるかもしれないが、もう八年も前だ。正直誰だかわからない。

 母親は、村の掟を破ったなんて話せないから、ジャンは遠くの親戚に預けたことにすると言っていた。だから、今ここにいる犬が村長の息子のジャンだと、二人は知らないだろう。

「ジゼル様が頼んだんですか?」

 ニコラはいつもとは違う呼び方でジゼルを呼んだ。

「いいや、違うけど」

「娘さんがいるのは知ってたんだ」

「君がそうだよね?」

「私はジゼル様の弟子です」

 ニコラは否定も肯定もせず、それだけ言った。嘘ではない。娘でもあり弟子でもある。

 ニコラが左足を半歩引くのを合図に、ジャンは彼女の前に出た。

 唸り声をあげて二人を睨む。

「私は大丈夫ですので、どうぞお引き取り下さい」

 無表情のニコラに、さらに何か言い募ろうとした二人は、ジャンがじりじりと近づくと後ずさる。ダメ押しに少し追いかけて吠えてやると、ついには回れ右をして走って逃げて行った。

「ジャン、もういいよ」

 ニコラはほっと息を吐いて、肩の力を抜いた。倒れるんじゃないかと心配になって、ジャンは駆け戻ってニコラのスカートの裾を咥えて引き、家の中に向かわせようとする。

「大丈夫よ」

 ニコラは微笑んでその場に座ると、ジャンの頭を撫でた。

「ありがとう。偉かったわね」

 ニコラに褒められると天にも昇る心地がした。

 幸せをかみしめていたジャンは、そのあと家に戻らずにニコラが庭で何かしていたのをよく見ていなかった。


 その夜。

 就寝時間になると、ニコラはジャンを呼んだ。

「今夜は一緒にいてね」

 幸い満月ではない。

 ――幸い、だ。人に戻ってしまったら、忍耐を強いられることは確実だった。

 ニコラの部屋に入ったジャンは、どこで寝たらいいのかとニコラを見上げる。すると、彼女はベッドに乗って壁に寄りかかると、自分の隣をぽんっと叩いた。

 動揺していて見落としていたけれど、ニコラは着替えていなかった。眠れないのか、寝るつもりがないのか。昼間のことが不安なんだろうか。

 ジャンはニコラの隣に行儀よく座った。ニコラを窺うと、彼女はふっと笑った。それは今まで見たことがない、皮肉めいた笑顔だった。

 驚くジャンに、ニコラは更なる爆弾を落とした。

「人間に戻らないの?」

「ヴァッホォ!」

 変な鳴き声が出た。

 ジャンは焦って、ぶるぶると首を振る。

「自分じゃ戻れないの?」

 犬じゃないことを疑ってもいない様子のニコラに、ジャンは力なくうなずいた。

 ついにこの時が来た。こうして一緒にいられるのも最後かもしれない。

「不便なのね」

 ニコラは何の気負いもなく杖を振ると、いとも簡単にジャンに魔法を使った。ぽわんと煙が上がるとジャンは人に戻っていた。

「え、こんなに大きかったの?」

 いつのまに、と驚くニコラに、ジャンは恐る恐る尋ねる。

「いつから知ってたんだ?」

「そんなの、最初からに決まってるでしょ?」

「ええっ!?」

 そういえば確かに、ニコラは八年前から、着替えるときはジャンを部屋の外に追い出していたし、普通の犬のように舐めたり飛びついたりは絶対に許さなかった。

「そんなに驚くこと? 私だって魔女なんだから」

「だったら何で、ずっと……。俺のこと、犬扱いだったのは何でだ?」

「人間を飼いたいなんて言えないもの」

 人間だと知っていながら飼いたかった? それを深読みすると、自分と一緒にいたかったということだろうか。ジャンがニコラに対して思っていたように?

 ジャンはニコラの両手を握りしめた。身を乗り出して叫ぶ。

「俺と結婚してくれ!」

 ニコラはにっこり笑うと、

「離しなさい」

 かわいらしい声はずいぶん冷たく響いた。これまた聞いたことがない声音だった。

 ジャンは反射的にニコラに従う。八年の犬生活は伊達ではなかった。

 犬の姿ならお座りで待機したところだけれど、人の姿では正座だ。縮こまるジャンを、ニコラは膝立ちになって見下ろす。

 ニコラに対してと自分に対して、ジゼルの態度が全く違うのを思い出す。親子でそっくりだ。

「家来が欲しかったの。そう言ったでしょ? 覚えてないの?」

「覚えてる……」

 レオンの黒豹みたいな家来。

「ニコラはレオンが好きなのか?」

「は? レオンおじさん?」

 話の流れがわからないんだけど、と言いつつも、ニコラは答えてくれた。

「別におじさんのことは好きじゃないわよ。むしろ嫌いだわ」

「ええっ? あんなにいつもつきまとってるのに?」

「馬鹿ね。ママから引き離すために決まってるじゃない」

 ぽかんと見上げるとニコラはうっとりと微笑んだ。

「ママって素敵でしょ。綺麗でかっこよくて、魔法も強力だし。それなのに優しいし」

 いつもの何倍も甘い笑顔だ。

「レオンおじさんはママを狙ってるのよ。私はそれを邪魔してるの」

 ジゼルだって満更ではなさそうだとジャンは思っていたけれど、それを口にするのは憚られた。

「私、ママが大好きなの」

 ジゼルもニコラが大好きだから、相思相愛だ。

「見習いを卒業したらここから出て行かなきゃならないから、試験は失敗するようにしてるし、ジャンのことだって気づいていないふりをしてたのよ」

 それから、ニコラはジャンに上から視線を合わせると、刃のような声を出す。

「ママに言ったら承知しないからね」

 ジャンはうなずくことしかできなかった。

「ママの前では、かわいい無邪気な娘でいたいの。だから、よろしくね?」

 小首を傾げて、いつもようにふんわりと笑うニコラに、ジャンはため息を飲み込んだ。本性を知ったあとでも、彼女が大好きなことは変わらなかった。それに、あの態度を自分にだけ見せてくれたのだとしたら、それはそれでうれしい。

 ちょうど話が終わったタイミングで、ぽわんと煙が上がり、ジャンは犬に戻った。

 犬の耳はすぐさま外の物音を拾う。

「大丈夫。しばらく静かにしててね」

 ニコラを見上げると、彼女はかわいらしく片目をつぶった。

「昼間の二人、絶対に来ると思って、庭に罠を仕掛けておいたの」

 大きな叫び声が聞こえるのはそれからすぐ後のことだった。

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(元)小さな魔女の(元)小さな家来 葉原あきよ @oakiyo

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