ニアタ書:第五節

 シトーリュカは書物を何度も読み返し、やがて悟った。

「僕がなぜ夢として生まれたのか。なぜ星を持たないのか。なぜ狂おしいほどに、セラ・フレイオルタを苦しめたいと願うのか。全てが分かった。僕の思いは僕のものでなかった。それは全て、ニアタのものだった」

 シトーリュカは笑い出した。

「全ては夢! 狂った男に魅せられた女の願望そのもの! この身は憎悪によって黒く塗りつぶされた、星すら持たぬ無明の天使!」

 闇色の翼を広げ、シトーリュカは空を舞った。その視界には、輝く命の光がいくつも見えた。彼はその全てを手に入れることを欲した。

「我が身は天使にあらず! もとより司るべき天はなく! 夢と狂気、憎悪によって生まれし、神に仇なす者! セラ・フレイオルタ、お前が天使を全てあの空に返すというのなら、僕はその夜空を引き裂こう。お前が空を青く澄ますというなら、僕は赤く染めてやろう。全ての命と天使を、夢に還そう!」

 シトーリュカは人差し指を天に向け、闇色の翼をさらにニアタの区画を覆うほどに広げると、至る所に雷を降らせた。あまりにも激しく雷が降るので、眠っていた人々は皆起き、恐る恐る外を覗いた。さらに空を舞う天使の姿を一目見ようと外に出た者を雷が容赦なく打った。このようにして雷が生き物を打つので、地は肉の焦げる臭いに満ち、海の魚たちまでもが様子を見るために水面へ上がった。

 次にシトーリュカが降らせたのは雨だった。水があまりにも激しく地を打つので、大地の多くのものは流され、雷と合わせて都に住む多くの人々が死の国へつめかけた。

 都がシトーリュカのもたらす災いに苛まれている中、ハドメルの区画ではイヴリスの、カリギリの区画ではタナウスの知恵により、人々はその命を失うことがなかった。シトーリュカはこれを不快とし、はじめにニアタを預けられたハドメルの区画へ向かうこととした。

 次にシトーリュカが降らせたのは炎であった。ハドメルの区画は雷と水を避けるため閉じ切っていたので、人々を、なによりニアタを蒸し焼きにしようとしてのことだった。イヴリスはそれまで区画を覆っていた水でもって火を防ごうとしたが、それでも多くの人が死に絶えた。区画を覆っていたとばりが開かれると、シトーリュカは舞い降りて言った。

「なんだ、まだ殺していなかったのか」

 ニアタはイヴリスのこさえさせた牢につながれ、広場で見世物にされていた。しかしてその身体に傷がなかったのは、区画の誰も不当に彼女を傷つけることのないよう、イヴリスが兵を連れて見張っていたからである。トールディンがここへニアタを預けてからというもの、三人の男がニアタを姦通しようとし、いずれも見つかり鞭打たれた。

 イヴリスは言った。

「お前こそ分かっているのか。ここにいるのはお前の仲間にして都を収める天使、ニアタだぞ」

「今の僕はすでに天使ではない。神に仇なす者、空を引き裂く者、星を闇に飲み込む者。いずれその女は殺すつもりだった。だからお前たちが殺そうと何の不都合もない。けれど、やはり不愉快だ」

「お前は狂っている。お前のその行いは酔っ払いが辺り構わず暴れるのと同じだ。手も付けられず、酔いと開き直るから救いがない」

「誰が僕を救えと言った」

 シトーリュカはイヴリスを平手で打った。倒れたイヴリスをかばうように、リーズが立ちふさがった。

「おや、そんな小さな体で、この僕からその女を守るというのか」

 イヴリスは言った。

「やめろ、その子に手を出すな」

「お前の子か」

「その子は血はつながっていないがこの区画の、そして何より私の妹だ。絶対に手出しはさせない」

「それでも、手を出したらどうなる?」

「呪ってやる。お前の天下など三日ももつまい」

「聞かせてやりたいよ。そこの、牢につながれた呆けた女に。情報の神とは影も形もない」

 ニアタは牢の中で虚ろな目をして座っていた。イヴリスがニアタに拷問を加えようとしないことに人々が腹を立て、彼女はやむなく食事と睡眠をろくに与えないことにしたのだった。ニアタはことあるごとにアルゼラの名を狂おしそうに呟くので、それが区画の男たちを燃え上がらせた。

「聞いたか? うわごとで男の名を呼んでいるぞ。寝込みを狙ってまたがっただけで、それで全てを手に入れたつもりなのだ」

「この女を殺したところで、シトーリュカ、お前が何かを得ることはないだろう」

「元より還るところはなく、その女はその有様だ。イヴリス、お前のようであったならば僕の中で何かが変わったのかもしれないが、もはや千五百年遅いのだ」

「私も、もはやお前に同情などしない。お前が星を持たない無明なのだとしたら、セラの手によってもやはり、お前は塵のように死ぬのだ」

 シトーリュカは指を天にかざし、雷を打とうとした。その時、はるか彼方より鏡が飛んできて、降った雷を跳ね返した。

 見れば空の彼方より、豆粒ほどの船が見る間に大きくなるのが見えた。

「来たか、セラ・フレイオルタ」

「国と、母と父、そして師の借りを返しに来たわ」

「その弓でいったいどうするつもりだ?」

「お前と私の一番の違いを教えてあげましょうか。それは、一人ではないということよ」

 その言葉と共に、船からトールディンの分身達が降り立った。

「雑種ごときが! 群れたところで何をする!」

 シトーリュカは火雷を放ったが、山の賢人の力を受けたトールディンは倒れもしなかった。トールディンは言った。

「お前は傷を負わない訳ではない。それをただ忘れているだけだ。闇の羽を全てむしり取り、鶏のようにセラの陽で炙ってやろう」

 かくしてシトーリュカとの戦いが始まった。彼があまりにもニアタをしつこく狙うので、セラは鏡の盾で魔術を跳ね返した。そのうち、シトーリュカはセラへの当てつけとして、闇の羽を弓の形に織ると、セラとの打ち合いに興じた。

「お前が光り輝く陽を浮かべるなら、僕は世を闇に沈めよう」

「お前のような悪夢を私は認めない」

「夢を見ることにお前の許可などいるものか!」

 シトーリュカが哄笑し、セラは叫び、光と闇が幾たびも打ち合った。その間に昼と夜とは幾度も入れ替わったようになり、人々は大いに目を回した。

 シトーリュカの隙を見てはトールディンが闇の羽を毟ろうとしたが、幾度触れても羽が減ることはなかった。

 こうして戦いが半日続いた頃、シトーリュカは戦いに飽き、ハドメルの区画の全てを夢のように消し去ることを決めた。そのことを宣言すると人々は大いに恐れおののいたが、トールディンだけがそうしなかったので、シトーリュカは不思議に思った。

「なぜお前はそのようにして笑っているのだ。隣のセラまでもが顔を歪めているというのに」

 セラも、愛しい者がおかしくなったと見て縋った。すると、トールディンは高く笑い、シトーリュカに言った。

「不思議に思うなら、この身を存分に貫いてみるといい。この場にいるおれの分身を、余さず塵とするがいい」

 シトーリュカが訝しんだので、トールディンはセラに言った。

「ならばセラ、この弓でおれを残らず塵とするがいい」

「私はもう二度と愛する者をこの手にかけたくありません」

 トールディンが迷わず死なないことを誓ったので、セラはトールディンの姿を余さず射抜いた。すると、彼の姿が跡形もなく消えてしまったので、セラは声も出なくなった。シトーリュカは笑った。

「愚かな男だ。自ら消える道を選ぶとは。セラ・フレイオルタ、母娘おやこ揃って男の趣味が悪いようじゃないか」

 セラは呪いとともにシトーリュカの名を呼び、光の矢を放った。すると、これまで矢を吸うばかりであった黒き翼が用を為さず、シトーリュカの胸を射抜いた。

「馬鹿な。夢の身である僕が、こんな傷を受けるはずがない。何をした、セラ、いや、トールディン!」

 その頃、アルゼラの区画にて、一人の男が忍び込んでいた。かの区画は脇道もないただ広い一本の道であり、回廊を抜けると、そこには大きな広間があった。広間には寝台が置かれ、その大きさに似つかわしくない、人並みの背丈の者が寝かされていた。

 トールディンにはこれがアルゼラと分かったので、胸の内にしまっていた、山の賢人、つまりマイアの珠を取り出した。

「堕天使の首領よ、煌めく翼を持つ者よ、非道に耐えられず狂った者よ、今こそ狂気を癒し夢から覚める時だ」

 珠が輝き、アルゼラを包み込むと、遠く離れたシトーリュカは声にならぬ叫びを上げた。闇の羽は解け、天に散り散りに舞い上がった。

「死の国へ行く前に、分身をアルゼラの区画へやっていたのか! あぁ、消えてしまう。水面の泡のように、朝の夢のように。これは何かの間違いだ、狂っている、何もかもが、こんなものは悪夢だ!」

 シトーリュカがあまりに悲壮に叫ぶので、矢を放っていたセラはその手を止め、以前からその身に燻っていた憎しみと、たった今湧き上がった憐れみとで、シトーリュカに思わず歩み寄った。

 その時、セラは後ろから声を聞いた。見ればニアタが牢を出て、やはりシトーリュカに歩み寄ろうとしていたのだった。ニアタはセラに一瞥もくれず、シトーリュカの髪を撫でると、涙を一粒零した。そして、セラから庇うように覆い被さると、そのまま動かなくなってしまった。

 シトーリュカは泣いて叫んだ。

「離せ、僕が何者かも分からないくせに。あの男を愛する自分を愛しているだけのくせに」

 セラは弓を引き絞ると、今は亡き国や父母のことを思い、そして放った。天の陽より光の矢は放たれ、ニアタとシトーリュカは塵となり、後には珠が二つ残された。それぞれ、フリエステとニアタのものであり、シトーリュカのものはどこにもなかった。

 ニアタの珠を見ると、その中が透け、光を持たぬ無明が現れた。セラは珠に触れると、それらを原動天に送った。


 かくして、意思と情報を司る二つの星が天に瞬くようになったのだった。これ以来、ニアタの星が瞬くたび、人は愛する者を手に入れるために知恵を回すと言われている。

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