ニアタ書:第四節
ニアタの区画で見た、かつて天使が地を貫いて出来たという穴は、ハドメルの区画から船で三日三晩かかる場所にあった。その地は大きく窪んでいたが、穴は塞がってしまっていたので、トールディンはハルミラ号で地を砕くことにした。これにさらに三日を要した。
トールディンが降り立った死の国は、明かりがなく、音もなく、乾いており、寒々としていた。広々とした地の一面に死者たちは寝転がり、その背からは木の根が地上にまで伸びているかに思われた。
この木は地底樹と呼ばれ、死者の背から時を吸い出しては地に満たし、やがて地上の生者が新たに時を生きるための糧とするためのものである。このようにして死者は糧として、地上に新たな命として芽吹くのであった。死者から吸い出された糧はまず、種として実り、芽吹き、草木となり、それが地の生き物の糧となり、その生き物も別なものの糧となり、やがて死に、朽ちて死者の国へ落ちると言われている。そして同じことを繰り返すのである。
トールディンはイヴリスから借り受けた明かりをもって死の国を進んだ。すると、それまで無明に目をふさがれていた死者たちが目覚め、縫い合わされているかのようだった口は開き、死の国には開闢以来初めて光と声が現れた。
ほどなくしてトールディンのもとに、一人の男が現れた。その男は、みすぼらしい恰好をしたほかの死者たちとは異なり、大層整った体を持っていたので、トールディンにはニアタの知識に頼らずとも、その男がガイアラキであることに気が付いたのだった。
ガイアラキは言った。
「男よ、生者にして死の国に降りた者、人にして天使の血が流れる忌み子よ。お前にこの地はまだ早い。その後ろにおいてきた船でもって、この地を即刻立ち去るがいい」
「それを言うなら、お前が引きずり下ろした女はどうなる。生者にして死の国に降りた者であり、人にして神の魂を持つ清らかな乙女だ。この寒々として乾いた地には大層似合うまい。おれが責任を持って船で早々に立ち去らせよう」
「セラ・フレイオルタと、我が妹のことを言っているのなら、それは大した勘違いだ。あの女はわがままで、自らの犯した過ちのために他者に災いが降りかかろうともあざ笑うような者であるぞ」
「そのくだりなら、おれもニアタの区画で読んだ。人が堕天使に支配されているのも、堕天使が都を作ったのも、天使が空から落ちることを決めたのも、天使を生み出したのも、全ては自ら作った星を動かすことに飽き、自分の代わりに星を動かすことを命じて思い思いに作った天使にも飽きた、エルシエルのせいだと」
「その通りだ」
トールディンはガイアラキを殴りつけ、死の国を進んだ。ガイアラキは怒り狂い、シトーリュカ以上のすさまじさで力をトールディンに振るったが、分身と山の賢人の珠の力によって、彼は倒れることがなかった。トールディンはやがて地底樹の幹にまでたどり着くと、そこにつながれているセラの姿を見つけた。
セラは打ちひしがれ、乾ききった死の国に涙を全て吸い込まれたかのような有様であった。美しさには影が差し、目はうつろで、トールディンが前に立っても気がつかない程であった。
トールディンは言った。
「セラ、こんなところにいたのか。ずいぶんと探したぞ。邪魔な根は切ってやろう。この金の弓と鏡の盾はお前の者だ。重くて持てないならおれが持っていてやろう。立てないならばおれが負っていこう」
セラは言った。
「ありがとう、トールディン。死んでまで私を助けに来てくれたことに感謝します。そして、そんな素晴らしいあなたを死なせてしまった私は、やはりここで罪を贖うしかありません」
すると、ガイアラキは言った。
「この男は、生きながらにしてこの死の国に降りてきたのだ! エルシエル! お前だけでなく、お前の仲間もこの私を冒涜するのか!」
ガイアラキの声を聞くと、うつむいたセラの顔からわずかに影が引いた。さらにトールディンは言った。
「セラ、お前をこのようにして助けられたのはイヴリスの力あってこそだ。そして、彼女に伝言を頼まれた。『かつて私に言ったことを思い出せ』と」
「私は、『誰によって、何のために生まれようとも、それでも生きていこう』と、彼女にそう言いました。この言葉をイヴリスからもらうことはとても嬉しい、けれど私には罪があるのです」
「ニアタに嵌められてエルシエルの記憶を取り戻したことか?」
「いいえ。エルシエルであった頃に犯した罪の数々は、私のものです。まず、地に生きる者に死をばら撒きました」
「地の生き物はすでにそれを当たり前としている」
「星を動かすことに飽き、天使を生み出しました」
「天使の所業を恨む者があっても、天使が生まれたことを憎むのは筋違いだ」
「天使にも飽き、彼らを悲しませました」
「永遠に自らの生み出した者を気にかけることなど出来るだろうか」
「天使たちが地に堕ちて悪業を重ねる間、私は眠っていました」
「眠っている間のことなど、誰が責任を持てるだろうか」
ガイアラキが現れて言った。
「その女は天使に手を焼く我らを見て嘲笑ったのだぞ」
トールディンがすかさず言った。
「地の神よ、己が罪を棚に上げ、妹君の罪のみをあげつらうとは。エルシエルが思うがままを通すようになったのは、元はと言えばお前が約束を破って鳥を生み出し、それをエルシエルに譲らなかったからであろうが」
ガイアラキが否定するので、トールディンはニアタの区画で得たものの写しを見せた。
「見よ、この世界の、生き物の始まりを記した書物を。ここにはエルシエルが慎みを持ってお前に順を譲ったとあるが、お前はそれをいいことに空の生き物を作る権利を掠め取ったのだ」
「いいだろう、その愚妹の罪が我に故ありとして、しかしてお前がこの死の国からその女を取り上げる理由にはならん」
「エルシエルが神の盟約により地に落とされたのも、のちに記憶を取り戻したのも、全てお前の罪によるのであれば、セラはお前の犯した罪によって不当に繋がれたということになるな」
「呪われよ! 我が父の課した取り決めは絶対だ! それを人の言葉によって翻すことは許されぬ!」
「ところで、お前がこの死の国に死者たちをこのように繋いでいるのは、果たして何かの取り決めなのか?」
「エルシエルによって地に死が溢れた時、父がそのように大地に、つまり私に命じたのだ」
「では、一人でも死者がこの国からいなくなればどうなる?」
「そんなことはあり得ない」
「ならば思い知らせよう。おれはかつてあらゆる戦いに勝つ天使を倒した男。ここでは死者すら起こしてみせよう」
トールディンはそう言うと、分身して山の賢人の珠を死者たちにかざした。すると死者たちは一様に癒され、地底樹から逃れ出した。トールディンはこれを続け、死の国には生者が溢れるようになった。
彼は言った。
「さて、死者がこの国から逃げるとどうなる? おれならば、あの蘇ったものどもを再びお前の手に戻すことが出来る」
ガイアラキはこれに折れ、トールディンが蘇った者を再び神の手に戻すことと引き換えに、セラを地上へ連れ戻すことを許した。
セラは言った。
「私の罪は、許されてよいのでしょうか。私には、それを背負い切ると思えません」
「ならばおれが隣で支えてやろう。幸い、おれにはいくつも体がある」
「なら、私はこの身を、いくつあなたに捧げても足りませんわね」
「おれはそんなつもりでお前を助けたのではない。ただ、そうしたいから、そうしたのだ」
セラは笑って言った。
「愛しい人、トールディン。そんなあなただからこそ、私はこの身を捧げられる」
その後、トールディンは蘇った者どもを死に返し、セラと共に地上へ戻った。この時、トールディンから逃れた一人が船の中に隠れてそのまま、地上に戻ってしまった。これによりガイアラキは罰を受け、死の国に縛られることになった。それ故に、死の国には今も、トールディンへの恨みの叫びがこだますると言われている。
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