ニアタ書:第三節

 山の賢人、マイアとシトーリュカは区画の入り口で戦いを続けていた。幾度となく病の霧が立ち込め、火雷と吹雪が荒れ狂えど二人は倒れなかった。山の賢人は魔術を受けるたびに癒しの術を使い、シトーリュカは病に冒されるたびにそれを夢として忘れ去ったのだった。

 二人は互いに言葉もなく己が術を放ち続け、その戦いには終わりがないかと思われた。だが、ある時、恐ろしい響きとともに大地が裂け、怒りとともに声がしたのを二人は聞いた。これに気を取られたので、二人は互いに術を受け、あと一撃を受ければ倒れる有様となった。

 その声はまさしくガイアラキが上げた、エルシエルの記憶を取り戻したセラへの怒りの言葉であった。山の賢人はこの声を聞き、思わずセラを助けようとし、シトーリュカから目を逸らした。その隙を見て、シトーリュカは火雷を放ったので、山の賢人はこれを受けて、癒しの術を使うことすら出来なくなった。

 動かぬ山の賢人に、シトーリュカは言った。

「あなたが地に堕ちる原因を作った者を助けようとするなど、とんだお人好しだ」

 シトーリュカは魔術で山の賢人を浮かせると、区画の壁に叩きつけ、さらに幾重もの壁が貫かれるほどの凄まじさで魔術を放った。山の賢人の体は動かぬまま、トールディンのいるところまで吹き飛ばされた。

 山の賢人の五体は四散し、胸からは珠が露わになっていた。彼は息も絶え絶えにトールディンに言った。

を持ってお前は行け。この身が砕けようと、私がお前の助けになろう」

 トールディンはこれを聞き入れ、山の賢人の胸から珠を取り出した。彼はシトーリュカの火雷を受けたが、それで倒れることはなかった。

「忌々しい、裏切り者! そんな塵のような姿になってまで、そんなやつを救うというのか!」

 シトーリュカが吼えるのと共に、トールディンは分身を放った。それは瞬く間に増えて区画中に現れ、シトーリュカがいくら魔術を放っても少しも数が減ることなく、トールディンはやがて、ニアタの居場所を見つけ出してしまった。

 記述械と編纂械がひしめく部屋の中、ニアタは一人で笑っていた。その身の丈はセラほどで、エルシエルが人に勝るべく作ったために、光る美貌はあったものの、かけた眼鏡の奥にある瞳には、陰気さが篭る女の姿であった。だが、その陰気さも、今あげている笑いの前では、欠片ほどにしか見えないものになっていた。

 トールディンはこれに怒り、ニアタが何かを言おうとしたのも構わず、彼女を攫ってしまった。

 区画を走るトールディンに、ニアタは言った。

「ガイアラキの、神の力でもってつながれた、あの女を助けようなど無意味なことよ」

「黙れ。お前はただ、索引械を動かせばそれでいい」

 トールディンがニアタに刺した刃を捻ったので、ニアタは悲鳴を上げた。

「神の縛りは絶対だ。死の国に行って戻った者などいない」

「それは、今まで誰もやろうとしなかっただけのことだろう」

「トールディン、お前はなぜ自身を信じられるの」

「おれは、あらゆる戦いに勝つ天使、カリギリに打ち勝った男だからだ」

「正面から向き合わず、巻き添えにして殺しただけだろうに」

その時、空にあるカリギリの星が強く瞬いた。

「要は頭の使い方一つだろう。情報の天使たるお前に、おれが新しいことを教えてやろう」

 そして、トールディンは残っていた索引械を見つけ出すと、ニアタの指と瞳によって、セラを救うための方法と、シトーリュカを倒すための方法を引き出した。

 セラを救うための方法は、以下のものであった。


 かつて空から星が落ちた時、大半のものは燃え尽きた。

 だが、ただ一人、地を貫いた者がいた。

 その時に出来た穴を通じ、ガイアラキの国ーー死の国へ向かい、セラを楔から解き放てば自由になる。


 トールディンは穴の位置を確かめると、すぐさま駆けた。彼は穴が途方もなく深いことを知っていたので、助けを得るためにハドメルの区画に残った、イヴリスを訪ねることに決めた。

 シトーリュカがすぐに彼の後を追ったが、トールディンがニアタの命でもって脅すと、シトーリュカはそれ以上追いかけることはなかった。


 トールディンはハルミラ号で三日三晩を休むことなく堕天使の都を飛び続け、ハドメルの区画へ辿り着いた。

 すると、船が飛んできたのを見て、区画中の人々が押しかけてきた。リーズを連れたイヴリスは言った。

「トールディン。なぜあなたがただ一人で船を駆り、このように戻ってきたのか。セラと、山の賢人はいったいどうした」

 イヴリスの問いにトールディンは山の賢人であった珠を見せ、言った。

「セラはこの女の天使によって、ガイアラキの支配する死の国に囚われた」

トールディンは、セラがエルシエルであることを思い出したが故に、死の国へ囚われた経緯を語って聞かせた。イヴリスは大きく身震いし、人々は呻きをあげた。

「それでは、堕天使の都を滅ぼすことはもはや叶わないということか」

「おれがこの身に代えてもセラを助け出す」

トールディンの言葉にニアタは笑った。人々も同様に鼻白んだので、イヴリスは言った。

「私はあなたを信じよう、セラが信じ、彼女を救おうとする男を、私が信じないわけがない」

 リーズは言葉もなく、トールディンの服の裾を掴み、じっと目を見つめた。

 トールディンはセラを助けるための方法と、それに必要なの図面をイヴリスに寄越した。イヴリスは人々を引き連れ、トールディンが伝えた通りの代物を作って寄越した。

 それはハルミラ号が地を砕くようにするためのものであり、トールディンは船が引き渡されるや否や、船を駆って行ってしまった。この時、トールディンはニアタをイヴリスに引き渡し、黒い羽の天使が現れた時にニアタの命でもって取引をしろと言い含めた。

 別れの前、イヴリスは言った。

「セラに会ったら言ってくれ。前にこのイヴリスとリーズに言ってくれたことを思い出せ、と」

 トールディンはこの言葉を持って、地を砕く力を得たハルミラ号と共にガイアラキの死の国へ向かったのだった。

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