フリエステ書:第三節

 侍女から事の顛末を聞いたセラは、今すぐにでもシトーリュカを倒すべきだと意気込んだ。だが、山の賢人とトールディンが乗り気でないのを見て、彼女は二人に詰め寄った。

「あの邪悪な天使は私の故郷を蹂躙し、師よ、あなたの思いを踏みにじっただけでなく、この区画の人々を狂気に落としました。あまつさえ、この世のすべてを狂気と夢に落とすと言う者を、どうして放っておけるでしょうか」 

 山の賢人は言った。

「では聞くが、お前は夢も現も意のままにしようとする、あの邪悪な天使に為す術を持っているのか。奴のもたらす眠りの前では、お前の弓の光も霞むやも知れぬ」

「この弓が放つ光は太陽のものゆえ、あらゆる星の光を塗りつぶすのです。天使が星として生まれた以上、この定めからは逃れられません」

「あの天使は底が知れない。他の天使の力を取り込むなど、考えたこともなかった。それはおそらく、はじめの七人の誰もがそうだ。そして、考えたところで星が星を食らうことなど、私には不可能なことのように思える。だが、奴は現にフリエステを食らい、その身体と力を奪い取ったのだ」

「師よ、あなたが奴を恐れていることはよく分かりました。それでも私は一人でも行きますので、どうか止めませんよう」

 すると、トールディンが二人の間に割って入って言った。

「セラ、お前は前の区画でおれに言ったことを忘れたのか。勝っていることよりも、生きていることに価値があるのだと、そう言ってくれたのはお前ではなかったか」

「そうでも言わないと、あなたは本当に死んでしまうように思われたからです」

「同じことだ。おれは確かにあらゆる戦いに勝つという天使、カリギリと戦い、結果として破ることが出来た。それは、カリギリが戦士であったからだ。おれの考えうる世界の存在だったからだ」

「何が言いたいの」

「奴は人の考えるところにはないものだ。これまでの天使達には皆、人と違えど理解できる心根があった。だが、シトーリュカは違う」

「どう違おうと、倒すことに変わりはないわ」

「奴の破壊には目的がない。天使が人より優れているから支配する。狂わせたいから狂わせる。苦しめたいから苦しめる。それではただの災害だ。狂っているとしか言いようがない」

「だからこそ、その狂気を鎮めなければならないのでしょう」

「だが、奴は今、フリエステの身体と力を手に入れた。そうなれば、奴は狂ったまま、無意味なことはすまい」

「では、どうするのです」

 セラは苛立ち、山の賢人の手からハルミラ号を奪い取ると、船を大きくして乗り込んだ。すると、山の賢人は言った。

「ニアタの区画へ行こう。彼女は情報の天使である故、全てを知っているはずだ。今のシトーリュカの、倒し方も」

「そんなことをしている間にも、奴はこの狂気をさらに押し広げるだけなのでは?」

 セラがハルミラ号を駆ろうとすると、どこからともなく若い女の声が聞こえてきた。

「そうだ、セラ。そんな男の話など聞く耳を持つ価値もない。どうせその者は天使でありながら天使を裏切り、挙句、人の王国も救うことのできなかった半端者だ」

 シトーリュカはフリエステの姿を現し、漆黒の翼を広げて哄笑した。セラがすかさず「矢のない弓」で光を放つと、シトーリュカは翼を広げた。すると、光の矢は漆黒に飲まれ、それっきり、何も起こることがなかった。セラは続けざまに矢を放ったが、そのいずれも翼に飲まれて消えてしまった。

 シトーリュカは言った。

「声も出ないか? セラ・フレイオルタ。見ての通り、お前の光の矢など、僕には何の意味もないんだよ。マイアの区画での君は、実に期待外れだった。親を自らの手で葬るように仕向けられた怒りから、僕に矢を放ってくれると思っていたのに。お前は泣くばかりで、そこの天使が出しゃばってくるのだもの」

「星から生まれた天使は、陽の光には勝てやしない。それは、天使が人に勝つのと同じくらい確かなことなのに」

「頼みの綱である光の矢が僕に通じないと分かった時のお前の顔はとても良かった。出来ればあの時に見たかったものだが、楽しみは後に取っておくとも言えるからね」

 山の賢人とトールディンがハルミラ号に飛び乗った。そして山の賢人がセラを退かせて舵を取ると、ハルミラ号は滑るように区画を進みだした。

「逃げよう。あの天使にはなぜかお前の『矢のない弓』が効かない。それだけが確かな事実なのだ。かくなる上はやはりニアタの区画へ向かい、奴を倒すための方法を知るしかあるまい」

 セラは今一度、光の矢を放ち、それが同じようにシトーリュカになんの効き目もないことを確かめると、唇を噛んで頷いた。すると、シトーリュカは翼を広げ、ハルミラ号に追いすがった。シトーリュカが次々と放つ魔術にセラとトールディンは立ち向かったが、船と天使の距離が離れることはなかった。

 シトーリュカは言った。

「これまでは僕が逃げるばかりだった。だが、誰かを追うというのは案外楽しいものだ。それも、為す術もなく惨めに逃げる相手であればなおさら!」

 山の賢人が病魔の霧を放つと、シトーリュカは風の魔術でそれを振り払い、トールディンの分身もまた、火と水の魔術でことごとく破壊された。セラはただ、月の鏡の盾を使い、シトーリュカの魔術を弾くばかりだった。

 とうとうシトーリュカがハルミラ号へ手をかけようとしたその時、天使の手が不意に止まった。セラが光の矢を放つと、天使の手は焼かれ、見る間にハルミラ号から遠ざかった。

 シトーリュカは言った。

「死にぞこないめ、まだこの僕から意識を奪うほどの力があったとは」

 フリエステが言った。

「私を誰だと思っているの。意思の天使、フリエステが出来ると思ったことは必ず果たされる」

「なら、この僕から意識を奪いきってみせろ」

「残念ながら、そんなことはどうでもいいの」

「なんだと?」

 戸惑うシトーリュカにかまわず、フリエステはセラに語りかけた。

「セラ。時間がないから手短に話すわ。シトーリュカは、空で生まれた天使ではない。この意味を、よく考えて」

「シトーリュカは、この都で生まれた? なら、矢が効かないのもそれが」

「あなたとは、じっくり話してみたかった。堅物のマイアとだって仲良くなったのだもの、きっと、私も」

「フリエステ、あなたは」

「ずっと悩んできた。だから、これから使う魔術は私の償い。灯よ、乙女の行く先を照らし、夢を晴らせ」

 フリエステの手から仄かな灯がセラの手に渡ると、一面の、悪夢のような狂気の景色が掻き消えた。セラは灯を握りしめ、その灯が消えないものであることを知り、シトーリュカを倒すための意思が湧き出るのを感じた。

 ハルミラ号は風を受けて空を駆け、ほどなくしてフリエステの区画を抜け出た。その背には、シトーリュカの姿はなく、ただ、彼の声だけが満ちていた。

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