フリエステ書:第二節

 侍女の語るところによれば、フリエステの区画で起きたことは次のようなことだった。

 ある時、フリエステが瞑想をしていると、区画に黒い翼を持つ、肌の爛れた天使が現れた。彼女にはそれがシトーリュカであることが分かったので、いい顔をしないながらも同じ天使であるよしみで、その傷を癒してやった。

 シトーリュカが眠っている間、フリエステはシトーリュカの記憶を読んだ。すると、彼女はシトーリュカがマイアから引き継いだ区画で、悪夢のような所業をしていたことを知った。

 フリエステはこれにひどく怒りを覚え、シトーリュカが目覚めると共に何の故あってマイアの区画での所業を行ったのかと詰問した。すると、シトーリュカが言った。

「フリエステ様、あなたはなぜ堕天されたのでしょうか。それは、あなたが意思の天使である故、同じように意思を持つ存在たるヒトと、関わることを望んだのではありませんか?」

「その通り。私は人と交わり、その意思を高めあうために天から落ちた星。でも、それがどうかして?」

「天使はみな、どうあれ自らの権能に忠実だという話ですよ。ハルミラ様は人に享楽を与えるために。ハドメル様は自ら生み出したによって人々を導くことを望み、カリギリ様もまた同様に人に戦いの術を伝えた」

「あなたの言葉が正しければ、マイアが落ちた理由は説明できないわ。彼は人々を病ませる自らの巡りを恨み、天使であることをやめて、薬学を一から修めたのだから」 

 すると、シトーリュカは哄笑した。

「人のため、か。馬鹿々々しい。おかしくて涙が出る。これは、本人にも言ったことですがね」

「なら、あなたはなぜ堕天したというの」

「夢を、うつつのものとしたいからです。僕のもたらす夢によって人々の楽も苦しみも思いのままとする。弄んでやりたいんだ。それが僕の夢です」

「そんなものは悪夢と同じよ。私は絶対に認めない」

「全く同じ台詞を、マイア様にも言われましたよ。なぜでしょうね、天使は人よりもはるかに優れているというのに。優れたる天使が地を支配することに、なんの問題があるというのでしょう。ともあれ、感謝いたします。フリエステ様。あなたのおかげで、あの忌々しい義人気取りの裏切り者に負わされた病は癒され……」

 シトーリュカは悪意と野卑と嘲りを込め、漆黒の翼を広げながら笑って続けた。

「あなたの権能をいただくことが出来るのですから!」

「あなたの思い通りにはさせない。ここは私の区画だ! 世界よ、我が意のままとなれ、火は盛り、水は猛り、風は唸り、地は震える。我、無明の闇に眩き光を見出さん。生者は寝入り骸となり、日の出と共に起き上がる。表は裏にして、裏は表。無は有にして有もまた無。世界よ、誠の姿を見せよ!」

 フリエステの詠唱と共に、火、水、風、鋼で出来た無数の槍がシトーリュカへ殺到した。

「ならば僕も、やらせてもらうとしましょう。あの区画では少し遊びすぎました。夢幻浸食、あらゆる理よ、狂い、乱れ、千々となれ。この世は全て夢か幻なれば、目にする全てに意味はあらじ」

 フリエステの放った火槍はシトーリュカを一切焦がさず、水剣もまた、彼を押しとどめるには少しも役に立たなかった。鋼鉄も裂く風の爪はシトーリュカの背中をなでるだけに終わり、鋼の槌は指一本触れただけで無残にも崩れ去った。その後、フリエステは続けざまに魔術を放ったが、そのどれもがシトーリュカを傷つけることが出来なかった。

「なぜ、という表情。見ていてとても気持ちがいいのでお教えしましょう。私の持つ夢の権能は、相手の認知に介入し、それを歪めるものです。あなたは僕を焼き焦がそうと火を放ったようですが、この通り、ただつま先を濡らすだけのものでしかなくなってしまいます。いかに硬く頑丈と定義した鉄の槌も、こうしてもろく砕け散るというわけです」

 フリエステはシトーリュカの夢の権能から逃れるため、距離を取ろうとした。だが、離れても離れても、振り返ればシトーリュカがいるので、彼女は次第に震えを感じた。

「フリエステ様、もはや無駄な追いかけっこです。あなたの認知は歪められ、離れようとしても離れることが出来なくなっている」

「ええ、そんなことだろうと思った。それに、私は今、恐怖を覚えている。けれど、恐怖はただの感情。心構え次第で吹き飛ばせる。そして、夢はいつか覚めるもの。私は意思の天使、フリエステ。この意思をもって、あなたを裁いてみせる、シトーリュカ!」

 すると、フリエステにまとわりついていた霧が晴れ、放った魔術は続けざまにシトーリュカを打った。彼は苦悶の呻きを上げ、この区画に現れた時よりもひどい有様となった。フリエステは言った。

「これまでの所業を悔い、人と都の発展に力を尽くすか、このまま死ぬか、どちらかを選びなさい」

「僕の思う選択肢は、その二つのどちらでもない。あなたは、夢から覚めたこの有様を、本当に現だと思ったのですか?」

「まさか、夢の中にさらなる夢を?」

 すると、フリエステの見ていた景色は再び歪みだし、シトーリュカは言った。

「僕は今、何も権能を使っていない。あなたが、見えている光景が『夢かもしれない』と認識したんだ。もはや、夢の入れ子と認識した意思は、夢を破る力を持ちえない」

 フリエステはもはや、話すことも出来なくなっていた。シトーリュカはそんな彼女の頭を漆黒の翼で包み込んだ。

「僕は他人を夢に引きずり込むことは出来ますが、現への対抗手段をまるで持たない。本当に、夢に生きるだけの天使でした。ですが、世界を意のままに操る魔術を修めたあなたの力があれば、僕は完全な存在となれる」

 こうして、シトーリュカはフリエステの身体を奪い、古き身体を捨て去ると、手始めに区画を悪夢そのものと変じ、人々を狂わせ始めたのだった。

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