星伐記:フリエステ書

フリエステ書:第一節

 ハルミラ号はカリギリの区画を出て、次なる区画へ向かっていた。セラが次の区画について問うので、山の賢人は答えた。

「次はフリエステの区画だ。彼女の区画に入るときは心しておけ。不用意なことを考えると足をすくわれる」

「それは、フリエステが区画の人の心を見抜き、罰を与えると言う意味でしょうか」

「いいや、考えたことがうつつになりうるのだ。あの区画には天も地も、火も水も風もない。意思が即ち光であり、眠りが闇をもたらすのだ。疲れを知らぬ者は眠りを忘れ、楽があると思う者には苦がない。あの区画にあるのはただ、『それはこれである』という認識だけなのだ」

「師よ、聞けば生きていくには不便かと思いますが。そんな区画に人はいるのでしょうか」

「ごく少数だが。五百年前の話にはなるが、フリエステに仕える侍女、僧は皆、己を律し世界を思うがままにすることに長けた者ばかりだった」

「ならば、今がどうなっているかは分かりませんね。ハルミラ、ハドメル、カリギリ、そして師の区画のいずれも五百年前とは様変わりしているようでしたので」

「彼女こそ、我ら始まりの七人の中で最も意思の堅い天使であったが。確かに、私はハルミラに陽気さを、ハドメルに理知を、カリギリに勇壮さを手前勝手に託していた」

 不意に、トールディンは言った。

「いつもなら、区画を囲む壁が見えるはずだが。あるのは荒野ばかりだ」

「彼女の区画に、物としての壁はない。近づいていることは間違いないが、荒野の風景も、彼女の魔術によるものだ」

「フリエステは、どのような魔術を使うんだ?」

「およそ、考えうる全ての魔術を使うことが出来る。都において、魔術で敵う者はいまい」

「それは、不敗のカリギリよりも厄介そうだ」

「さぁ、そろそろ心構えをしておけ。あの区画で生き延びるのに必要なたった一つのことは、己のことを強く思うことなのだ」

 山の賢人がそう言ってしばらくすると、セラとトールディンは不意に、己の考えが定かでないような感覚にとらわれた。山の賢人は言った。

「セラ、頭のてっぺんからつま先まで強く意識しろ。今のお前の体は陽炎のように揺らいでいる。トールディン、お前の足が溶けかかっている。分身を生み出すときのように、強く己の姿を思い起こすのだ」

 事実、山の賢人の体は少しも揺らいではいなかった。ハルミラ号はと言えば、帆はねじ曲がり、美しい虹の羽もささくれ立っている様子であった。

 それに、船の外の景色と言えば、山の賢人が言った通り、天も地もなく、大いなる水面は天に波紋を浮かべ、花の蜜は上へ落ちるといった有様だった。咲き誇る花々は微睡みのような色をして、花弁が渦のようにうねっては風に蠢いていた。炎が燃えれば木々はみずみずしさを取り戻し、水にぬれた鳥はしおれだして断末魔の叫びをあげた。草花や虫、鳥の他に動くもの、とりわけ人間などはめったに見られるものではなかったが、長い時間を探せば、時折、見つかるようであった。だが、その誰もが意思の一欠片も感じさせない顔で、うわごとを繰り返すのみであった。

 山の賢人は言った。

「これはどうしたことだ。以前は子供ですら目に光を宿し、世界を意のままにしていたというのに」

 三人は人を見つけては何があったのかを問うたが、その質問に答えられる者は一人としていなかった。そうしているうちに太陽と月がそれぞれ西と東から昇り、荒布のように黒々とした星が宙に浮かぶと、咲き乱れていたの花はさらに狂い咲き、鳥と人は輪唱を始めた。


 おおフリエステ あわれな乙女

 薔薇のしとねは 無残に散った

 黒き羽に触れられ 息は切れ切れ

 百合の体は黒く染められ その心はいずこ


 三人はさめざめと泣く女の声を聴き、やがて侍女を見つけ出した。セラは問うた。

「ここでいったい何があったというの」

「ここはフリエステ様の治める区画でした。ですが、黒い翼を持った、肌の爛れた天使が現れ、この区画を犯したのです」

 セラは顔をこわばらせ、さらにその天使の名を問うた。すると、侍女はわっ、と泣いた。

「あの天使は高らかに名乗りました。シトーリュカ。あの者によって、我らが敬愛するフリエステ様は倒され、区画にいた人間たちも見ての通りの有様です。私の正気もいつまでもつか」

 侍女は涙をこらえ、事の顛末を語りだした。

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