マイア書:第三節

3.

 区画に、屍人の呻きとシトーリュカの哄笑が響いた。セラはただ、クシュの亡骸をその手に集め、大粒の涙を流していた。

 シトーリュカは言った。

「さぁ、セラ・フレイオルタ。お前の次の一手を見せてみろ。そのご自慢の『矢のない弓』で、この身をよく狙い澄ますがいい」

 山の賢人は言った。

「お前に光など勿体ない。セラが手を下す価値もない。死が望みなら、この私がくれてやる」

 彼はそう言うと、セラ達がこれまで見たこともない程の量と色で瘴気を発した。シトーリュカが風に舞う蝶のように瘴気をかわすので、山の賢人は風の魔術を使った。瘴気は嵐となり、その風にまかれたあらゆるものは崩れ落ちた。

 シトーリュカは言った。

「あぁ、そうだ。マイアさん、あなたには礼を言っておかないと。以前に遺してくれた技術のおかげで、ギメルとクシュの延命が出来ました。まぁ、あなたがたが全て台無しにしましたがね」

「我が技はそんなことのために与えたのではない。命を弄ぶ者よ、報いを受けろ」

「ニアタに聞きました。あなたが堕天した理由。地上の生き物に病をもたらす自分の運命を呪ったんだと」

 シトーリュカが笑ったので、山の賢人が問うた。

「何がおかしい。苦しみを取り除いてやりたいと思うことの何がいけない」

「天使は人より優れて在れと生み出された。それなのに、喜びを分かち合いたい、苦しみを取り除きたい、その強さを見たい、輝きを感じたいなどと、可笑しくて涙が出る」

「黙れ、ハルミラを侮辱するな!」

 山の賢人は指を鳴らし、火の魔術を起こした。火は瘴気に触れ、紫の炎はシトーリュカを焼いた。それでもなお、シトーリュカは哄笑した。

 山の賢人は言った。

「お前が我らの望みを嘲笑うなら、問おう。お前はなぜ堕天した?」

 シトーリュカは漆黒の翼を広げ、言った。

「あらゆる地上のものを僕の夢に狂わせ、絶望の涙で大地を濡らし、戦いの血で海を汚し、叫喚で空を満たす。それが、僕の夢」

「そんな夢は認めない」

「夢を見るのに、誰の許可がいるというのです?」

 山の賢人は呪いと共にシトーリュカの名を三度口くちにし、彼に飛び掛かった。シトーリュカは瘴気に肺を灼かれていたので、蝶のように舞うことは出来なかった。山の賢人は、夢の天使を幾度となく殴りつけた。

「ハドメルとカリギリはなぜお前を受け入れた! フリエステはお前の本性を見抜けなかったのか! ニアタは何をしている! アルゼラは狂ったか! 許せない、お前のなにもかもが!」

「狂ったんだよ、何もかもが。五百年前のあの戦いの中で、この都の全てが狂ったんだ。狂気の中にあって、誰も彼も正気なふりをしている。狂っているんだ、それこそ。だから、僕が全てを狂気に落とし、正しくあるべき姿にするのさ」

「黙れ! これは、この区画の人々の分!」

 山の賢人の拳が、シトーリュカの頬を殴打した。

「これは、フレイオルタの人々の分!」

 拳が、シトーリュカの唇を切った。

「これはギメル王の分。これは、クシュの分!」

 拳が、シトーリュカの歯を飛ばした。

「そして、これはセラの流した涙の分だ。報いを受けろ、シトーリュカ!」

 シトーリュカは血を吐きながら笑って言った。

「いいのかな、そんなに熱くなって」

 拳が頬を打ってなお、シトーリュカは続けた。

「天使たるこの僕に血を吐かせるほどの瘴気を撒き散らして、果たして君のお仲間は立っていられるのかな?」

 山の賢人は怒りで我を忘れていたことに気づき、ふと、二人の方を見た。すると、同じように血を吐き、ひざまずくセラとトールディンの姿があった。

 トールディンは言った。

「やれ、賢人よ。カリギリの子孫たるこの俺と、神の遣わした子であるセラが、こんなところで死ぬものか!」

 彼はそう言うと、多くの血を吐いて倒れてしまった。

 山の賢人は、セラとトールディンを癒しに向かった。トールディンは固辞したが、山の賢人は聞かなかった。

「私は、人を病から遠ざけ、癒すために堕天した者である。だから、お前がこうも死んでしまっては意味がないのだ。お前は生きるべきだ、トールディン。自らの運命からも、仲間からも逃げたこの私と違って」

 山の賢人がセラとトールディンを癒していると、シトーリュカの声が響いた。見ると、彼は漆黒の翼を大いに広げ、区画から逃げようとしていた。

「僕のことをゆめ忘れるな、セラ・フレイオルタ! また、僕を楽しませてくれ!」


 その後、山の賢人は一週間かけてセラとトールディンを癒した。そして、立てるようになると、区画を歩く屍達と、ギメル、そしてクシュを弔い、墓標を立てた。一行は一週間を喪に服すと、ハルミラ号に乗って次の区画を目指した。


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