ハルミラ書:第三節
山の賢人は言った。
「ハルミラ、少し話そうじゃないか。君の
ハルミラは山の賢人から瓶を受け取り、それを一息にあおってしまった。そして言った。
「マイア、これは酒じゃあないか」
「病と薬の天使の名において、これは君につける薬の一つだと保証しよう」
「お前はそういうやつだったのか。千年も時を共にしたのに知らないこともあるのだな」
「異なる場所で時を過ごせばそうもなるだろう」
「君の話を、聞かせてくれ」
山の賢人は、その願いを聞き受けた。
「この都を去ってから、ただひたすらに遠ざかるため旅を続けた。会う人々を癒し、多くの人々と関わってきた。
富める者、貧しい者、優しい者、陰険な者、強き者、弱き者、貴いとされる者、卑しいとされる者。千年もの間、私は都で人と共にあったが、これほどに向き合ったことはなかった。
そのうち、堕天使と言われるようになり、人から遠ざかったが、当然のことだから恨んではいない。私は地の果てにある山に潜んだ。時折やってくる者に施しを与えるうち、私は山の賢人と呼ばれるようになった」
そして、セラの母が訪れてからのことも語って聞かせた。すると、ハルミラは大きく笑った。
「酔って気を失うとは。理知に富んだ君がそんなことをする様を、見てみたかったものだ」
山の賢人はもう一つの瓶を差し出し、ハルミラはそれを受け取った。酒の精はハルミラの口を軽くした。そうして、彼は思い出を語り出した。
ハルミラは千四百年もの間、心から笑ったことがなかった。享楽の都にあって、彼にはただ、思い出のもたらす憂愁と後悔ばかりが巣食っていた。
百年ほど前には、享楽の都へやってくる人間を自ら歓待したが、それも今ではやめてしまった。人形が出迎えるようになったのは、セラの一行が見た通りである。
日が昇り、ハルミラは目覚めた。最初の百年は良かったと懐かしむ。
日が沈み、ハルミラは涙する。百年が経った頃に自身が犯した過ちをひどく悔いる。
月が天に昇り、ハルミラは全てを忘れようと眠りにつく。
眠りのために瞼を閉じると、その裏にはかつて犯した罪業が現れた。老いと病と死と別れに嘆く人間が皆、ハルミラの施しによって歩く屍と化すのを見た。
耳をすませば、よれた糸のごとき甲高い声がそよ風に乗ってくる。
息をすれば、快楽の生臭いものが鼻をついた。
天使たちは口々にハルミラを慰めた。
アルゼラは前を向くことを勧めた。
ニアタは合理だと断じた。
フリエステは人間の幸せを信じた。
カリギリは何も言わずに話を聞いてやった。
マイアは人々を正気に返すよう努力するから、気にすることはないと言った。
だが、ハルミラが欲していたのは罰であった。そのことをハドメルだけが理解し、ハルミラを罵った。彼はそれをよしとした。
陸と海の神々が生み出した怪物達との戦いで、ハルミラは過去の罪業を垣間見た。彼の心をかき乱したのは、
「どうか、あの哀れな人々を助けられないのか」
「死者が蘇らないように、壊れ切ったものは元に戻らない」
ハルミラは、これまでマイアに懇願して生かし続けていた、施しを受けた者たちの命を絶つことに決めた。こうして、ハルミラの九百年の望みは絶たれた。
ハルミラは星の巡りに従い、人間のために享楽の都を管理し続けた。しかし、人間はハルミラの前から姿を消した。もはや、彼には自らの星の巡りが分からなくなった。それが百年前の事である。
それからというもの、彼は都にありし人々の墓標として「映画館」を建てさせ、回顧と共に弔うことを決めた。
ハルミラは言った。
「おれは、ただ人の喜ぶ姿と笑顔が、間近で見たかったのだ。それを分かち合いたかった。今や、おれは瞬きもせず、輝きもしない」
山の賢人は言った。
「ここに、お前の星の巡りを思い出させる娘がいる」
ハルミラは笑った。都に響くほど大きく笑った。千四百年の思いに釣り合わぬ、虚ろさが木霊した。そして、山の賢人に言った。
「最後の頼みだ。もう二、三本、それを寄越しておれを眠らせてくれ。そうしたら、ずっと起きないはずだから、この胸を開いて珠を取り出してくれ」
山の賢人はそれに従った。彼は半日の後、玉虫色の珠を手にセラの前に現れた。
トールディンはハルミラを「映画館」に埋め、「人を愛した享楽の天使、ここに眠る」と刻まれた墓標を立ててやった。
セラは珠にくちづけし、原動天へ送った。彼女は祈りを立てた。
「あなたが瞬くたび、人に笑顔がありますように」
一行は三日の間、ハルミラの喪に服した。
こうして、ハルミラの星が瞬くたび、人の心には喜びと楽しみが強く思い起こされることとなった。
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