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 霞音から差し出された絵本を見て、思い出す。


 すっかり、忘れていた。



 

 霞音を笑わせたくて、部屋から出てきてほしくて、おばさんと一緒に作り上げた物語。


 その稚拙な文章が、ずっと、霞音の中に生きていた。


「私はね、その本があったから、お母さんと一緒にいれたの、もういなくなっちゃったけど、でもそれでも、ずっと一緒にいれたの」

「……霞音」

「実は学校に復帰してさ、私も同じようにその課題を出すように言われたんだけどね。もうびっくりするくらい全然上手くいかなかったの。話を考えるのもそれを文章にするものすっごく大変でさ、尋翼はできてるのに自分はできなくて、正直めちゃくちゃ悔しかったんだ」

「え……いやだって、お前のほうが……」


 小説を書くのがうまい、と言おうして遮られる。


「……だから、たくさん練習したの。その頃からずっと、尋翼に、追いつけるように」

 俺は、霞音に追いつきたいと、そう思って小説を書いていたんだ。でも、霞音はそうではなかった。


「せっかく同じ文芸部に誘ったのに、君は何も書かないでのほほんとラノベを読んでた。……だからあの日、わざとパソコンを覗かせて、私の書いた小説を見せて、そして小説を書くように無理やり誘導した」



「……え?」



 こいつは、今、なんていった?


「君の書いた小説が読みたいから、そう仕組んだの」

 その事実は、俺の想像をはるかに超えていた。

「……こんなのただの小学生が書いた、落書きみたいなもんだぞ」

 俺は、きっと大切にされていたのだろう、5年も前のものなのに綺麗なその絵本に目を落としながらいう。

「そうかも、しれない。絵はヘッタクソだし、話もストーリーと言えるストーリーはないに等しい……でもね」

 霞音は、俺の目をまっすぐ見据えて、言った。





「私は世界中に存在するどんな名作より、君が書いたその物語が一番好きなの」





「…………」


 何も言えなかった。


 まるで沸騰したヤカンのように体温が急激に上がっていくのを感じる。


「10年、私が持ってた。次は君が、それを持ってて」

「あ……えっと」

「なに恥ずかしがってんの? 顔真っ赤で面白いよ」

「え、あ………………う、うるせぇ!!!!」

「……やっと、元気になった」

「あ…………その、ごめん」

 今日は、謝ってばかりだ。少しの間の沈黙、それを霞音が破る。


「ねえ……、小説、どうした?」


「…………」

「……尋翼?」

「……消しちまった。パソコンからも、プリントしたのも全部破り捨てた。……あんなに、頑張って書いたのにな。どうかしてたんだ、俺は。……もうきっと、間に合わない」


 日付の感覚は戻っていないが、おそらくあれからずいぶん日も経っているはずで、内容を思い出して書くにしても間に合うとは思わない。


「………………」

「ごめん」

「大丈夫」

「……ごめん」


「いや、……そうじゃなくて」


「え?」

「まだ、大丈夫。君の原稿、誤字修正してたのは、誰?」

「…………」

「私のパソコンにも、データ残ってる」

「…………あ」



「私から、"最後"のお願い……聞いてくれる?」



 文芸部の存続なんて、もう、どうでもよかった。


 ……でも、


「ああ」


 文芸部の存続のためではなく、


「君の物語。私、好きだから、読みたいから、完成、させて」



 こいつのわがままのために、俺は、物語を書こう。








 部活はそれ以降、病室で行われることになった。


 それはまるで、あの頃の病室と同じように、優しく残酷な時間が流れているようだった。


 例えば、真っ白な紙にどんなに細くとも一本でも線を書き入れたら、それは紙ではなく絵になるように、どれだけの不幸で埋め尽くされた人生というキャンバスでも、そこに一つの幸せを書き入れれば、それは幸福の絵になる。


 だから、俺と彼女はきっと幸せになれる。いや、もうすでに幸せなのだ。


 そんな単細胞な考え方で脳を埋め尽くしていないと、すぐにもおかしくなりそうだった。



 霞音と会話すら満足にできない日もあった。そういう日でも僕はできる限り病室で過ごすようにした。調子がいいときは、僕の原稿から誤字を見つけ出して指摘をしたり、作中の表現について話し合ったりした。いつもと同じように時間を過ごして、でも心の中はいつも乱れていた。


 でも、霞音はよく笑うようになった。いつもの仏頂面が嘘のように声をあげて笑う。それがなんだか嬉しくて、でも悲しくて、いつもは呼ばれない名前も最近はよく呼ばれるようになった。まるであの頃に戻ったような毎日。


 多分、二人とも、気づいていたんだろう。これ以上、後悔するわけにはいかないことを。



 現実には神様なんて居ない。少なくとも俺は信じてはいない。

 だから、何かに祈ることも、縋ることはできなくて、その終わりがやってくるまでの時間をただ、噛み締めていくしかない。


 でも、今書いているこの物語にとっては、作者である俺は神様だった。登場人物を幸せにするもの、不幸にするのも、全部俺の思うがままで、誰だって殺せるし、誰だって救える。


 だったら、俺は神様として最大限の権能を振るい、このクソ喰らえな現実よりも、ずっとずっと幸せな世界を創造してやる。


 そんな話をしたら、霞音に笑われた。

「登場人物からしたらさ、君もいるわけない、信仰のしようがない神様でしかないんだと思うよ。多分君と同じように、この物語の中で生きている子たちも神様なんているもんかって、きっとそう思ってる」

「……そうかもしれないな」

「現実も幻想も、きっとなんの違いもないんだよ。大事なのは自分がどう思うか、それ以外のことなんて、正直どうでもいい」

「…………」

「だからね、私がいなくなっても私の存在が君の現実からいなくなっても、君が私を覚えていてくれれば、君の現実となんら変わりない幻想の中に私は生き続けられる。君のこれからの人生に直接影響を与えることはできないけど、君の記憶を彩ることはできる」

「……やけに詩人だな」

「腐ってもモノ書きだからね、恥ずかしがってたらもったいないよ、……君もね」

「そう、だな」

 少し、そんな風に思える霞音が、羨ましかった。





 新人賞の締め切りの3日前、ついに原稿が完成した。


 もう、それがいいのか悪いのか、わからなくなっていた。なんども読み返して、直して、戻して、やっぱり直して、数え切れないほどの文字列を、霞音と作り出した。



「面白い」



 霞音は、本当に迷いもない笑顔で、俺の原稿を、そう評価した。


「紛れもなく、人生で一番、好きな物語。残り少ない私の人生じゃ、絶対にこれは、覆らない。読ませてくれて、ありがとう」

「ぅ…………お、う……」


 恥ずかしくて、でも嬉しくて、同時に苦しくて、感情がぐちゃぐちゃになって、うまく言葉を返せない。だから俺も同じことをすることをした。


「……お前の作品も好きだよ。腐ってた時も、ずっと読んでた。もう暗唱できるんじゃないかってぐらいに」

「大げさだよ、君のに比べれば全然、」

「そんなことはない。俺にとっての一番はこれだけだ。他の誰かがどう思おうと、俺の現実はそう」

「……ほんと、バカじゃないの」


 ああ、お互いに、な。その言葉は俺の胸にしまっておくことにした。



 提出方法としてネットでテキストファイルを送る手もあったが、霞音の提案でプリントアウトをして郵送で送ることにした。


 作品には、かならず原稿の他に800字以内であらすじをつけて応募しなければいけない。俺の提案で、お互いの作品のあらすじを書いてそれを添付することにした。なかなか難しかったが、1時間かけてそれも完成し、後は……、




「ねえ、ペンネームって決めてる?」

 霞音が、そう尋ねてくる。

「……お前は?」

「……どうしよっかなーって」

「おいおい」

「だって、思いつかないんだからしかないじゃん、もう本名でいいかな」

「お前のラノベのヒロインみたいな珍しい名前だったら、普通にペンネームだと思われそうだけどな」

「からかわないでよ。そういう尋翼はどうなのさ」



 聞かれて、俺はプリントアウトした作品のタイトルとペンネームが書かれた原稿の表紙を見せる。







 そこには、『ペンネーム:鹿乃かのヒロト』と書かれている。






「え……?」


「もう、手伝いってレベルじゃなかったから、こうしたほうがいいとおもって」


「な…………」


「……お前がいなきゃ、絶対書けなかった。最初のアイデアを出してくれたのも、内容のアドバイスも、その他にもたくさん。そもそも、書こうとも思わなかった。お前が褒めてくれるのは嬉しいけど、でも、やっぱこれは世間で評価されたい。俺以外の人の中にも『霞音』が生きていてほしい、から」


 最後の方は恥ずかしくて声が小さくなっていたが、それでも静かな病室で、目の前にいる霞音に言葉を届けるには十分だった



「あ、……う」



「……だめ、か?」



「ちが、……そうじゃなくて」



「霞音……」





「…………も、う……な、んなの……さ、ほんとに……恥ずかしい、やつ…………」





 霞音は、顔をくしゃくしゃにして、ゆっくりと涙を流す。


「うおい、原稿濡れるって」


「ご、ごめん……!」


 急いで原稿を避けて、でもそれでも涙は止まらなくて、霞音は、大粒の涙を流して、俺はどうすることもできなくて、霞音の手を握ることぐらいしか、できなかった。









 実際の重さ以上にいろんなものが詰まった、そのずっしりと重いその封筒を投函する。


 意味はないがポストの前で手を合わせる。


 一ミリも、信じていないが、もし……もしこの世界にも神様がいるのなら、霞音の生きた証を、少しでも、この世界に、残してください。







 それだけが、本当にそれだけが、今の俺の願うことです。















 それから二週間、霞音は母親と同じように死の側で笑い続けて、















 そして、4月11日。























 全てが、終わった。

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