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 太宰は言った。


 あらかじめ憧れてゐるからこそ、ワンダフルなのであつて、さうでなくて、そのやうなぞくな宣伝を、一さい知らず、素朴な、純粋の、うつろな心に、果して、どれだけうったへ得るか、そのことになると、多少、心細い山である。と。


 霞音から読まされた太宰治の私小説『富嶽百景』は、そんな捻くれた富士山への文句から始まっていた。要するにフジヤマは日本で一番高い山というだけで、その実、特別でもなんでもない、ありふれた山でしかない、誇大評価なのであると。


 山梨の山中、そこにはひっそりと佇む天下茶屋という古い茶屋がある。


 そこは生前太宰が下宿していたことで知られていて、当時太宰が寝泊まりしていた部屋が再現され、記念館として解放されている。

 合宿のついでに霞音の趣味で連れてこられた、というわけだ。

 というか、ここに来たいからついでに合宿したいなんて言い出したんじゃないだろうか……。


 そこに踏み入れると本当に小さな部屋で、しかし、それでも厳かな雰囲気があった。

「すっごーい!!」

 やや興奮気味の霞音が部屋をきょろきょろ見渡す。

「ねね、写真撮って!」

 そういって携帯を渡して来たと思ったら、部屋の中心の小さなテーブルの上で頬杖をつく霞音。

「……なんだそれ」

「文豪ごっこ」

「…………」


 ……なにそれ、俺もちょっとやりたいんですけど。


 ある程度、部屋の散策が終わると目につくのが部屋の奥の窓。


 そこからは視界いっぱいに大きく広がる富士が見えた。


 ここで、太宰のように全然大したことないただの高い山だ。とか言えたらいいのだろうけど、天才でも文豪でもない俺は、ただただその光景に魅せられる。

 それが太宰の言うように先入観による印象の支配なのか、それとも純粋な感想なのかはわからないけれど。


 まるで、アニメの中の非日常が飛び出して来たような光景だと、そう思った。


「すごいでしょ!」

 自分も初めて見た癖に得意げな霞音が胸を張る。まあ、でもこれを見れただけでも来てよかったと、そう思える光景であることは間違いなかった。

 住んでいる街からは富士山なんか見ないからな。

「ああ、そう、だな」

 天才でも文豪でもない、文学好きなただの人でしかない俺たちは、素直に、その光景に感銘を受けるしかないのだ。


「本当にこんなとこに泊めてもらっちゃっていいんですか……?」

 天下茶屋を後にして近場の小さな旅館に移動したのだが、心羽は、終始おどおどしながら部屋を見回している。

「大丈夫大丈夫! お兄ちゃんに感謝するんだぞ」

「……お兄ちゃん……、もしかしてなんか悪いことでもしたの……?」

 失敬な。しかし怪訝な目で見る心羽に、悪いことしてるのは霞音だと正直に言うわけもいかず。俺は適当にごまかす。

「ま、まあ気にしなくていいから」

「なーんか怪しいけど、……まあいいか」

 とりあえずは納得してくれたようだ。

「じゃあ、はい、これ」

 霞音が自分のバックから茶封筒を取り出す。それは俺の第一稿の完成原稿だった。年末ギリギリに書き終えて俺が霞音に渡していたものである。

「直したほうがいいところを私と姉さんで赤ペンいれといたから、相当あるから頑張って」

 わかっていたが俺に観光する暇はないらしい。まあ、そもそもこれは文芸部合宿だからな。返された原稿に目を通すとほとんど真っ赤になっていた。

 合宿は二泊三日の予定で組まれており、そのほとんどすべてを原稿の改稿に費やすことになる。

「うへぇ……」

 俺の文章ほとんど残らねえじゃねえか……。

「……まあ、プロでも最初はそんなもんらしいしあんま気にするな。それに自分で言うのもあれだが現国教師の修正指示だからな、これを全て直したら相当クオリティの高い文章になるぞ」

 俺を慰めるように芽衣ちゃんにフォローされる。

「でも、なーんか地味なんだよね、話は面白いんだけど波がないって言うか」

 俺も薄々感じていたことを霞音に指摘される。

 題材的にしょうがないとはいえ、このままだと大して事件も起こらず話が終わってしまう。

 何か、もう少し……。

「例えばさ、ヒロインを殺しちゃうとか!」

 目をキラキラさせてそんなこと言い出す霞音。

「おい、物騒なこと言うなよ。学園ラブコメなんだからそんなことしたらひんしゅくを買うだろ」

 それに、このヒロインを殺すのは色々と抵抗がある。

「まー、そうだよねー。でも上手いこと考えてよ。君ならできるから」

「だからその信頼はどこからくるんだよ……」

「……尋翼、お前、覚えてないのか?」

 俺たちの会話を聞いていた芽衣ちゃんが驚いたように聞いてくる。

「……え? なにが?」

「……! な、なんでもないから! 姉さん、黙ってて! さあ! 私たちは邪魔しないように外散歩してこよーー!!」

 俺が問い詰めようとすると慌てた霞音にすぐ阻止される。

「?」

 事態が把握できない俺をよそに、霞音は芽衣ちゃんと心羽を無理やりつれて外に出ていってしまう。

「一体なんなんだ……」


 気になるがまあ、それより今はこの地獄のような量の修正原稿に取り掛かるほうが賢明だな。

 修正指定箇所は相当数ある誤字脱字、日本語的におかしいところや、情景説明の不足や過剰が中心で、内容に関してはあまり否定的な意見は見当たらなかった。それだけでも助かったと言うべきか。


 しかし、

「地味、なんだよなぁ」


 初めての長編に関してはうまく書けたと自負しているが、やっぱり霞音の言うように人の心を動かすには何か物足りないと、自分でも思う。

 とりあえず、まずは深く考えないでも直せる、誤字脱字を修正に取り掛かろうとした時、突然霞音が部屋に戻って来た。

「どうしたんだ?」

「い、いや、君だけ1人で部屋で作業させるのも、かわいそうだと思って……」

「お前の原稿はもうほとんど終わってるんだから気にしないで遊んで来ていいぞ」

「そんなわけにはいかないよ。元はと言えば、私のせいだし……」

「……なんか、お前この前からおかしくないか?」

「失礼な! そんなことないから! 私だって悪いことしたなーって思ってるの!」

 どうだかな。まあ、1人で寂しく作業するよりかはマシだしそう言うことにしておくか。

「とりあえず! 誤字脱字はチェックしたけどいじらなくていいからね! あとで私が直すから!」

「え、いいよ。そんなことするぐらいなら自分の原稿を直し……」


「——君の原稿に、懸けてるんだよ」


「——は?」


「私の原稿よりも君の原稿の方がポテンシャルがある。だから私は君に懸けてる」

 多分、今俺は驚きから口を開けて、随分間抜けな顔をしていることだろう。

「………………買いかぶりすぎだろ、こんだけ修正されてるし」

「確かに、文章の稚拙さはあるけど、でも私は君の話、好きだよ」

「へ?」

 そんなこと、初めて言われた。


「……正直、上がって来た原稿を見て、私は嫉妬したの。私より文章がガタガタだし、日本語もおかしいところたくさんあるし、誤字ばっかでダメダメなのに、でも、読んでいて楽しかったの、自分の原稿を読んでいる時より、ずっと」


「…………」

 まっすぐ俺を見つめるその目に、俺はなんて返答すれば分からず黙り込んでしまう。

「だからこそ、君は、その話をより良くするためにはどうすればいいかだけ、考えて欲しいの。何か一つ、もうひとつ、何かが加われば、賞だって夢じゃないと、私は思う」

「本当に、……本当に、そう思うのか?」

「うん」



 顔が熱くなる。


 むず痒かった。なんだか気持ち悪かった。


 でも、それよりも、ずっと、嬉しかった。


 だって自分が一番尊敬している作家に、自分の作品を褒められているのだから。



「……正直、信じられないってのが、本音、だけど、少しは自信がついた、かもな」

「……あ、でも誤字脱字はマジで信じられないぐらいあってこいつやばいなって思った。ちゃんと自分の文章読んでる? 目ちゃんと前についてる?」

 やっぱり、霞音は、霞音だった。

「は、」

「どうしたの」

「あははははっ」

「ちょっと何笑ってんのさ」

 おかしくなったと思ったらすぐいつもの霞音に戻ったり、忙しいやつだ。

 人は安心をすると、なぜか笑えてくるもので、緊張の紐がいきなり引きちぎれたように俺はは笑った。

 ……いやでも、これで安心するなんて俺はどんだけ毒舌なこいつに慣れているんだ。

「……なんで罵倒されてんのに笑ってんの……? 気持ち悪いんだけど……」

 おい、距離を取るな。そういうんじゃないから!

「……まあ、尋翼が変なのは今に始まったことじゃないか」

 変な納得の仕方しないでくれ。

「……んもう。話戻すよ。……あのね、思いついんたんだけどやっぱりさ——」

 心羽と芽衣ちゃんが帰ってくるまで霞音と2人で話の展開について案を出し合い、修正を進めた。


 しばらくして観光していた2人が帰ってきて、修正の3割が終わった頃、俺は気になっていたことを霞音に問う。

「あのさ、なんで締め切り四月なのに、一月末には出せなんて言い出したんだ?」

「……はぁー。なんもわかってないね。下読みって知ってる?」

 失礼な、それぐらいはわかってる。

「新人賞で送られた原稿を読んでそれに点数をつける人だろ?」

「そ。毎回何千も送られる100ページを超える原稿を編集の人たちだけで読めると思う? はい、心羽ちゃん」

「ま、まあ、編集部っていうのが一体何人体制なのか知らないですけど、絶対無理ですね、それ」

 突然話を振られた心羽が答える。

「だから、基本的には編集部外の人に頼むの、知り合いの作家とか……バイト、とかにね」

「へぇ、わりと人任せなんだな……」

「まあ、一応ちゃんと信用できる人には頼んでると思うけどな」

 訝しんだ俺に対し、芽衣ちゃんがフォローを入れる。

「もちろん最終選考ぐらいに勝ち上がった原稿は編集部全員が読むようになっていると思うけど、それより下、特に一次審査ぐらいだったら下手したら編集部が誰1人も読まない原稿だってありえる」

「はあ……」

「で、締め切り前は、一気に原稿が届くでしょ? 一応そうならないようにその時期は人数を増やすなり考えられてはいるだろうけど、編集さんならともかく、作家やバイトとかがそんな膨大な量の原稿を読んだら一体どういうことが起こる?」

「えっーと……」

「……ひとつひとつの原稿にかける時間が、短くなるんだよ、尋翼」

 答えを探している俺の代わりに芽衣ちゃんが答える。

「それって」

「それだけで、ある程度不利になるってことだ。もちろんそれぐらいで評価が変わる原稿が商業でやっていけるかって話にもなっていくんだが、でも好意的に読んでもらえる可能性があるなら、それに越したことがない。暇なときに集中して読める小説のがお前だって好きだろ?」

「……なるほど」

「わかった? 私の意地悪で早く出せって言ってるわけじゃないこと」

 いや、そんなことは思ってないけど、やけに詳しいんだな。

「さ、明日もあるし、今日はもう休もう」

 霞音にそう言われ時計を見るともう20時になろうかという時刻だった。

 そのまま部屋で晩飯を済ませ、各々宿に併設されている露天風呂に行くことになった。

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