【 Page.8 】

 気づいたら、最終下校時刻のチャイムが鳴っていた。

「やっべぇ!」

 どうやら、かなり熱中して作業していたようで、その数時間があっという間に感じた。いつもはこんな時間になる前に、霞音が部活の終わりを告げるのだが、その当人は未だに爆睡している。

「……おい、霞音、霞音! 起きろ!」

「……あと35時間……」

 どんだけ寝る気だ。

「馬鹿なこと言ってないで起きろ。芽衣ちゃんに怒られるぞ」

「…………」

 半分だけ開けた目とともに、上体を起こす霞音。まだ寝ぼけているようで、焦点が合っていない。

「やっと起きたか」

「…………」

「……なんだよ?」

「ひろくん……?」

 ……普段絶対に呼ばれない、懐かしいあだ名で呼ばれた。

 そして瞬く間にして顔が赤くなっていく。どうやら正気に戻りつつあるらしい。

 あ、これラノベ的には理不尽に俺が怒られたり、殴られたりするパターンだ。

「……………………」

 と思ったらそのままだんまりな霞音。

「……おい?」

「……………………なに?」

 あ、なかった事にしようとしているな、こいつ。しかし、殴られるよりかはマシなので触れないでおこう。

「かのちゃん、時間だよ」

 ……なんて思っていた時期が僕にもありました。

 普段のお返しに俺も昔の呼称で霞音に呼びかける。

「ばか!!!! せっかくなかったことにしようとしたのに掘り起こさないで!! あー!!! あー!!!」

 一人で騒いでる。なんとなく、面白い。

「そんなことより時間。芽衣ちゃんに怒られるぞ。コート、返してくれ」


「やだ」


 ……はい?

「私で遊んだ罰。凍えながら帰れ、馬鹿尋翼」

 霞音の命により凍えながら帰る羽目になった俺は家に着くなり、霞音の原稿に目を通す作業に取り掛かる。……何と健気なやつなのだろう。


 自室に戻り鞄から茶封筒を取り出す。それに入った紙束はかなりの分厚さがありずっしり重い。それは霞音の果てしない時間と苦労の積み重ねにより生み出された結果で、それを目の当たりにすると、自然に身構えてしまう。

 今まで霞音が書いた作品で、これほどまでの長編はなく、そのほとんどが総ページ数十ページ前後の短編だった。

 だからこそ、この原稿を俺は心待ちにしていた。

 たしかに、プロの作家と比べてしまうと見劣りしてしまうことは避けられないかもしれない。しかし、それでも俺はこの昼陽中霞音という作家に魅せられていたのだ。心拍数が上がるの感じながら封筒を開封して原稿を取り出す。


『きみの血はなに色か』


 表紙にあたる紙に書かれているタイトル。それは昨今のライトノベルのようにタイトルで内容が推測できるものではなかった。

  

 俺はその1行目から大切に、大切に読み進めていく。



「……お……ちゃん…………おにい………………お兄ちゃん!!!!」


「うあぁ!!」

 突然耳元で叫ばれた大声で現実に引き戻される。

「家帰ってきたら電気も点いてないし、めちゃくちゃ静かだし何かと思ったよ……」

 どうやら心羽が帰ってきたことに気づかないほど原稿を読むのに集中していたらしい。

「ああ、心羽か……、おかえり」

「ただいま、お兄ちゃん。……ご飯は?」

「………………あ」

 ……失念していた。

「ごめん……、忘れてた」

「この様子じゃあそうだろうね……まあ、いいや何か買ってくるよ、なんでもいい?」

「いや、お前は部活で疲れてるんだから俺が行ってくるって! 俺のせいだし!」

 そういって椅子から立ち上がろうとすると、心羽に止められる。

「いいっていいって。集中してたんでしょ?」

 俺が目を落としていた紙束を指差しながら心羽が言う。現在全体の半分ほど消費されている状態だ。

「いやでも……」

 それはさすがに悪いというか……。

「いいよ別にコンビニで済ませるし」

「それは……」

「いいって、元々ご飯は私の仕事だし」

 全然気にしている様子はない。

「すまん……」

「んで、なんでもいい?」

「ああ、なんか適当に弁当で」

「おっけー」

 そういってまたすぐ出かけていく心羽。せめて風呂のお湯ぐらいは入れておこう……。






× × ×






 懐かしい呼称を聞いたせいなのかは知らないが、その夜、夢を見た。



 白い病室。誰かとよく似た、けれど大人びた笑顔がそこにはあった。


 一度も忘れたことはないけれど、その代わりに思い出すこともないその光景。

 小学生の頃の記憶。



 「ひろくん、いつもありがとうね」



 大好きだったあの声で、俺に感謝の言葉を伝える。



 何年が過ぎても未だに、その言葉を純粋に受け取れていない。


 なぜなら、感謝をするべきなのはこちらの方で、俺はいつだって何もできていないのだから。


 子供はいつだって無力だ。10年ちょっとしか生きてないガキならなおさらだ。


 でも、彼女はいつでも他人を支える強さと優しさと力を持っていた。


 だから、見よう見まねで、俺も誰かを支えようとしたのだ。



 母親が病気になったショックで、部屋に閉じこもって出てこない霞音。


 そのドアはどんな鉱石よりも硬くて、そして目の前にある筈なのに計り知れないほど遠くにあるようだった。

 ドアノブは確かにそこに存在しているのに、それは自らの仕事を放棄して霞音を閉じ込めていた。



 霞音の母親の病気のことは、本当に悲しかった。


 霞音がふさぎ込んでしまっている事実も同じぐらい悲しかった。


 このまま時間が進んでしまったら、きっと霞音は取り返しがつかない後悔をしてしまう。


 幼い俺でもそれは理解できていた。




 そこで…………。











 ————————そこで俺は何をした?










 うまく、思い出せない。




 霞音のために必死で……、必死で……。




 霞音を笑わせてあげたいという一心で…………、







 …………やっぱり、思い出せない。

 

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