「まさか、き、キスで……」

 少し雲の多い晴れの空。少し重たい空だがこれでも晴れらしい。(曇りになるのは空全体のうちの雲の割合が十段階中、九か十の時だけだ)

 そんな天気とは違って俺の心はとても穏やかだった。

 その理由は俺の脚を枕に寝息を立てている後輩。こいつが黙っている間はとても静かで楽だ。喋っていれば賑やかでそれもいいのだけれど、こうやってゆっくり流れる時間のほうが実は好きだったりする。


 後輩の綺麗な髪に指を通しながら彼女の横顔を眺めているだけで心が穏やかになる。こいつの寝顔には何か魔法でもかかっているのではないかと疑ってしまうほどだ。

 一応魔力探知をしてみるけれどやっぱり何も引っかからない。自然の魔法みたいなものだろう。動くパワースポットといったところか。


 冗談でもそんな事を思ったせいか眠気がこみ上げてきて、あくびが出てしまう。

 このまま体を壁に預けて後輩と一緒に眠ってしまおうかとも思ったが、彼女の寝顔を眺めるために眠気を振り払った。


「ん…………」


 後輩が悩ましげな声を小さく出して、左を下にした体勢から寝返りを打って仰向けになる。左手を耳の横に、右手を胸に当て、綺麗な長い黒髪を花弁のように広げて眠る姿はまるで絵本に出てくるお姫様のようだ。

 その姿に思わず息を呑んでしまう。呼吸をすることも忘れて彼女に見入ってしまった。




 だからあんなことをしてしまったのだろう。そうとしか思えない。……こればかりは後輩のせいにさせて欲しい。




 俺は眠ったままの後輩に顔を寄せて、口を引き結び――


 ――唇同士を触れさせた。


「ああ~~っ……」


 顔を上げた瞬間に恥ずかしさと罪悪感がこみ上げてきた。寝込みを襲うような真似をするなんて男の恥もいいところだ……。

 でも素直に白状なんてできない。そんなことしたら殺される。最悪、学校中にバラされて社会的に殺される。

 ああーー、やってしまった。その場の空気に流されてしまった。悪い癖だ。鈍感なくせに空気だけは読める。もう後輩にどれだけ罵られてもいいから全部鈍感でいいのに……。


「……せん、ぱいっ……」


 瞬間、心臓が止まった。

 目を開けると、寝たままの姿勢で、真っ直ぐこちらを見つめる後輩の顔が見えた。

 ダメだ。もう言い逃れできない。俺は殺されます。


「…………」

「……リテイクです」

「……はい?」


 今、このお姫様、何とおっしゃいました? やり直し、とか言いませんでした?


「……寝ぼけてない?」

「寝ぼけてないですっ、最初から寝てないですっ」

「…………は?」


 最初から寝てないだって? じゃあ今までの行動は何だったの? 寝返りとかめちゃくちゃ自然だったけど、どこかで練習でもしたの?


「私が寝ている時の先輩の反応を確かめようと思ったんですけど、まさか、き、キスで起こされるなんて……」


 俺の太ももを枕にしたまま早口で呟く後輩。頬を赤く染めて俺の体とは反対側に寝返りを打った。

 そりゃあ恥ずかしいよな。俺だって恥ずかしいもん。完全に絵本の王子様とお姫様でしょ。恥ずかしすぎて死ねる。

 ……違う。問題はそこじゃない。


「リテイクってどういうことですか……?」

「そのままの意味です……」


 尚も目を合わせない後輩。顔の熱が引かない俺。


「さっきのは事故。でもやり直したらそれは事実になる。これ以上お前に迷惑はかけたくない」

「……先輩は何もわかってないです」


 後輩はそう言うと体を起こし、正面から俺の目を見た。まだ頬に赤みが差しているけれど表情は硬く、俺を睨みつけるような視線を向けてくる。


「わかってないって、何を?」

「全部、何もわかってないです。どうしてこうも鈍感なんですか……?」

「どうしてって言われても、説明してくれないとわからないだろ?」


 すると後輩は何か考えるように下を向いて黙り込み、また俺の目を見つめる。俺も目を逸らさずに相手も目を見る。


「……リテイクです」

「だから――」

「私がいいって言ってるんです!」


 今まで聞いたことのないような迫力の声で叫ぶ後輩。それに驚いて反論することも、目線を逸らすことも忘れてしまった。

 だから自然と答えを口に出していた。


「……後戻りはできないぞ?」

「はい」

「言い逃れもできないよ?」

「それは先輩もです」


 少し間をおいて気持ちを落ち着かせる。そして自分に言い聞かせる。元には戻れないぞ、と。

 後輩の頬に手を添えて、少し上から瞳を覗き込む。彼女も負けじと目線を逸らさない。


「いいのか?」

「何回も言わせないでください……」

「本当に?」

「ん」


 答えの代わりに目を閉じる後輩。

 少しずつ距離を縮め、自分も目を瞑る。


 そして、もう一度、互いの唇が触れ合った。

 またそれほど時間をかけずに離れる。


「……もう一回」


 後輩がそんな風に呟いたのが遠くに聞こえた。




 何も考えられなかった。ただ罪を犯したこと、大切なものを奪ったこと、そして何かが変わったことだけは確かだった。


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