虹子とLINEと天国と

森鳴燕蔵

第1話

109UQ旧車協会主催の「聖護院きゅうり大食い選手権」のためのトレーニング初日の夕方。虹子は「デトックス、デトックス」とつぶやきながらテーブルの上に積み上げられた聖護院きゅうりを黙々と食べつづけていた。山のようにあった聖護院きゅうりと1ダースのケース入りエビアンがみるみるなくなっていく。


109UQ旧車協会、聖護院きゅうり99本。エビアン9本。「きゅう」だらけだ。残ったのは聖護院きゅうり1本とエビアン3本。


「すごく疲れた。頭痛い。吐きそう」


痙攣がはじまる。その場にくずおれる。ポルコロッソが激しく吠えながら、虹子のまわりを駆けまわる。


「息が苦しい。死にそう」


虹子はそう言って本当に死んでしまった。腹がカエルのように膨れている。カエル好きの虹子にふさわしい死に様だ。きゅうりのキューちゃん好きの九官鳥のキューちゃんといっしょに坂本九の『見上げてごらん夜の星を』でも聴きたい気分だった。


事態を理解できないポルコロッソは虹子の顔を夢中で舐めている。とりあえず、救急車を呼ぼう。きゅうきゅうしゃ? また「きゅう」かよ。ダイヤルする。119。あ、また、「きゅう」だ。


「火事ですか? 救急ですか?」

「きゅうりの食べすぎです」

「はあ?」

「妻がきゅうりの食べすぎと水の飲みすぎで死んじゃいました」

「ああ、よくあることです」


きゅうりの食べすぎと水の飲みすぎで死ぬのはよくあることなのか。世界はまったく不思議に満ちているものだ。


住所を告げ、救急車が到着するのを待つ。テーブルの上に1本残ったきゅうりをかじっているとあまりの馬鹿馬鹿しさに笑いがこみあげてくる。きゅうりを99本も食べて、エビアンを9リットルも飲んで死ぬなんてふざけた話がどこにあるっていうんだ? 風船おじさんといい勝負ができるよ、虹子ちゃん。


救急車のサイレンが聞こえはじめる。角の加藤のたばこ屋のあたりだろう。サイレンが家の前まで来た。ドアを開け、救急隊員を招き入れる。虹子を見て、年配のほうの救急隊員が言った。


「奥さん、おめでた?」

「きゅうりの食べすぎです。それと、水の飲みすぎ」


私が言うと、若いほうの救急隊員が吹き出した。そりゃ、笑うよな。誰だって。年配のほうの救急隊員が「こら」と言って若いほうの救急隊員をたしなめる。いいよ。彼に悪気はない。きゅうりの食べすぎと水の飲みすぎで腹をカエルみたいにぱんぱんに膨らませて死んだ者を見て笑わない奴なんかこの世界にはいない。あんただって必死に笑いをこらえてるじゃないか。ベテランの救急隊員さん。


3人がかりで虹子をストレッチャーに乗せた。虹子は信じがたいほど重かった。99本のきゅうりと9リットルのエビアンのせいだ。


虹子の初七日が済んだ夜のことだ。戯れに虹子のLINEのアカウントにメッセージを送った。


>>> 天国だか地獄だかの様子はどうよ?


「既読」のサインがすぐに表示された。まさかな。ありえないことだ。相当目にきてるな。ふ。情けない。しかし、タブレットのディスプレイに目を凝らす。やはり、「既読」のサインはある。そのとき、虹子のアカウントからメッセージがきた。


>>> なに考えてんの? あたしは死んでんのよ。死人にLINEメッセしてなんの意味があんの? バッカみたい。


>>> はあ? なにソレ。


>>> あたしは死んでんの。何度も言わせないで。死人にLINEメッセする極楽トンボはあなたくらいのもんよ。


>>> 死んでるおまえがなんでLINEできんだよ。


>>> そこがLINEのすごいとこじゃないの。


これは死んだ虹子とのLINEをめぐるちょっと不思議で、けっこう土手っ腹にこたえ、かなりクスクスする42日間の記録だ。四十九日法要を終えた日の夜に虹子は別れを告げるのだ。もちろん、LINEのメッセージで。(49日? あ。また「きゅう」だ。)


あの42日間は天国の日々とも地獄行きの予行演習とも思えるけれども、どちらかと言えば愉快な日々だった。虹子は生きているときにも増して剽軽でファンキーでファニーでおまけにファジーだった。腹がよじれるほど笑ったのは数えきれないし、口から心臓やら尻こ玉やらスライムみたいな得体の知れないモノやらネジ巻き鳥やら逆立ち熊やら一反木綿モドキが飛び出してくることもあった。


一番驚いたのはLINE中に虹子がおならをしたとき、強烈なタマゴっ屁のニオイがタブレットのディスプレイから大手を振って漂ってきたときだ。そのタマゴっ屁は両脇にムラサキウニとムラサキカマボコを従えていて、やけに横柄な態度だった。たかが屁のくせに。

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