リュックの底に死を忍ばせて

@SuowGin

第1話

 薄暗い部屋で目を覚まし、ぼんやりと机から頭を上げる。頭の重さで腕は痺れ、足の感覚は冷えすぎて無くなっていた。

 時計をみたら2時間も経っている。ずっと閉めきっているカーテンのすき間から、オレンジ色の光が差し込んでいる。

―どうしよう、眠れてしまった

 急いで、ノートに続きを書こうとするが、頭が覚醒していない。頭の中にある書こうとする文字列は、私に読まれるのを拒むようにそっぽを向いている。私は私の中の詩織にも嫌われてしまった。暖かい詩織、力強く常に前を見ている詩織、この世の誰よりも眩しさにあふれている詩織。

―—そうだ、探さないと

 寝室の扉を開けると、私と詩織が使っていたダブルベッドがあった。だがそこには、詩織の匂いも私の匂いも感じない。ベッドはまるで他人のように居座っていた。

 慌てて、家中を探す。キッチン、リビング、ベランダ、詩織の影は、どこにも見つからなかった。

そうだ。この世界のどこにも、居ないのだ。彼女は死んだではないか。


 窓に額を押し当てて頭を冷やす。

 外には、頼りなさげな雪がしんしんと降っている。今冬最後の寒波が来ているらしい。あと2日もすれば、冬が終わってしまう。詩織と最後に過ごした冬が終わってしまう。氷が融け、春が来て、夏が過ぎ、秋が深まり、新しい雪に冬が塗り替えられてしまう。

 私だけはこの冬を忘れない。世界中の誰もが、詩織を忘れても。たくさん貰ったのに、何も返せなかった彼女に報いる、たった一つの慰謝だから。私を置いて先に進む時計の針を見ながら、痩せた自分の腕を抱いた。


 詩織は今年の冬の初め、飛行機と共に雪の山林に堕ちた。日輪のような彼女が眠るには、あまりにも冷たく茫漠とした場所だった。

 スマートフォンで速報を見て、久しぶりに点けたテレビは、繰り返し行方不明者のリストを読み上げていた。その中になぜか、詩織の名前があったのだ。

 彼女は帰ってこなかった。その体の一部すらも。どんな状況でも楽しいことを見つけ、順応する彼女だから、すぐに気持ちを切り替えて、こっちに未練は無かったのだろうか。

 たとえ帰ってきても、配偶者でも血縁でもない、どこまでも永遠に親友の私には、会うことなど出来はしないのだ。だから、帰ってこなかったことにほんの少しだけ、気分が晴れてしまった。


―詩織

 ずいぶん人と話していない私の声は、がさついて奇妙な音だった。詩織はいつも私の声を褒めてくれたのに。

―未希は歌っているときも普段も、いつも素敵な声だよ。

 思わず手を差し伸ばす、痛くて切ない叫びにも聞こえるし、

 触れることを拒む、割れる寸前のガラスのような声にも聞こえる


 そう言って、いつかこの部屋から雪の町をぼんやりと見て、詩織はささやくように、褒めてくれた。彼女は声だけじゃなくて、私の色々なところを褒めてくれた。首筋の白さ、薄い胸、細い腰。

 相手の良い所を見つける勝負だったら、私の方が上手いけど、元々の良い所の量が私の方がずっと少ないから、やっぱり詩織の方が、上手(うま)かったのだ。

 再び机に向かい、手から零れ落ちそうな詩織をノートに刻んでいく。忘れないように、風化しないように。

―—あぁ来た

 詩織のことを考えていると、ときおりちゃんと息が出来なくなる。

 内側から胸を引き裂かんばかりの心臓の早鐘に耐えながら、冷たい床にうずくまる。詩織との思い出が溢れて押さえられない。私の顔は涙の海におぼれていた。

 今、自分のいる場所がわからないくらい、彼女のことで頭がいっぱいになり、生存本能はじりじりと後退(あとずさ)りしていく。

 もう、たくさんだ。

 お願い、私を早く詩織の許へ連れていって。

彼女に出会う前は惰性で生きていて、

―—あっちに行っても、独りだから

 でも今は、違う。

―—こっちに居たら、独りだから

 雪が融ける前に、さぁ、早く連れていって。

 瞼は重く、胸がじんわり温かくなる。


 淹れたてのコーヒーを提げてベッドに向かうと、少し笑い皺の増えた詩織と私たちの小さな

娘が寄り添うように寝ていた。詩織はそっと顔を上げて笑いかけた。

「今日、何杯目よ」

「起きてたんだ。辞められなくてね」

「この子まで、未希に似てコーヒー好きになったらどうしよう。ぶかぶかの中学生の制服を着て、いっちょまえにカップを提げて言うのよ『詩織ママは大人なのにコーヒーも飲めないのー』ってねぇ……」

 詩織は、愛おしそうに、私とこの子を見ている。

「子供、いらないって言ってたじゃない」

「だって……欲しいと思ったって叶わないなら、最初から望んだりしないわ。でもこの子はこうして私の腕の中にいる。未希さん、私と未希さんの子に合わせてくれてありがとう」

 詩織は涙を湛えながら、いつまでもほほ笑んでいた。それは見たことないくらいの幸せそうな笑顔だった。

 今にして思い出すということは、これは私の後悔なのだろう。詩織に罪を背負わせてしまったことへの責任を感じているのだ。私達の原罪はきっと夢の中くらいでしか赦されないのだ。


 どこかで間の抜けたくしゃみが聞こえた。見知らぬ白い部屋で横たわっていた。家からほど近い総合病院の病室だった。側には鼻をすする幸成(ゆきなり)がいる。

「ごめん、起こしちゃった?」

「・・・・・・なんで、私、病院にいるの?」

 腕には点滴が刺さっているが、これといった外傷はない。私に何があったのか。

「未希さん、俺の携帯に電話くれたんだよ。すぐに切れちゃったけど。それで心配になって家まで行ったら、倒れてた」

「そっか、ごめん、迷惑かけて」

 電話をかけたことはまるで覚えてないけど、倒れる直前のことまでは思い出した。

 死ねなかったんだ。

「栄養失調と過換気症候群だろうって。最近ご飯食べてないの?」

「うん。何を食べても砂を噛んでるみたいで」

と言うと幸成が辛そうな顔をした。

「・・・・・・なんで幸成がそんな顔するの?」

 人の悲しみは、しょせん他人(ひと)のものだから。うわべだけ理解して、分かったような顔を浮かべないで。今だけ眉間に皺を寄せて、病室を出たら次の現場に取り掛かるんでしょう。

 本当に心から困っている人を助けていたのは、この世界で詩織だけなのだから。


 幸成が出ていってしばらくすると隣人がテレビを付けた。ぼんやりと見ていると、あの墜落事故の振り返り番組だった。

 親を亡くした40代の息子が必死に叫んでいる。航空会社への怒り、メンテナンスの甘さ、長時間労働問題。そういえばこの男、以前にもテレビに出ていた。その時よりもずっと上等なスーツで、ずっと上達した芝居をしている。

―—お行儀が良くて、反吐(へど)がでる

 誰か、私にも大手を振って死を嘆く権利を与えてくれ。遺族でもなければ、私たちの間を証明するものは何もない。8年も同じ家で暮らしていたというのに、葬式にも呼ばれず、仮初めの同情の言葉すらかけられなかった。

 当然、忌引きの1日もなく、事務所は普段通りに仕事をすることを求めた。

 ベッドサイドに新しい曲の発注が来ていた。幸成が置いていったのだろう。付箋が張ってある。「ラストチャンス」

 この仕事を受けなかったら、私はクビと言うことか。私の方からとっくに辞めたつもりだったのだが、幸成が社長を説得してくれたのだろう。

 もう書ける気なんてしない。不要な節介に頭がきた。


 詩織が亡くなった直後、2日は何も考えられなかった。3日目から、記憶が染みつきすぎた家には寄らず、事務所で寝泊まりし、昼夜問わず働いた。いつだったか、幸成を連れて現場から事務所へ戻る時に、新入りの事務員の子が「科沢(しなさわ)さんって意外と元気そうですよねぇ」と耳障りな超音波に、これまた不快に語尾を腐らせて喋っていたのを立ち聞きしてしまった。「あたしだったらぁ、親友の子が死んじゃったらぁ、ご飯がのどを通りませんよぉ」と無垢に悲しんでみせているのを、痩せたチワワをそうするように男どもが見ていた。それで、衝動的に社長に退職を宣言して、家に引きこもった。日に日に薄れていくとしても詩織の匂いや存在を感じていたかった。


 今さら、事務所に戻るつもりはないが、だとしたらどうやって生きていけばいいのか。貯金は無く、旦那もおらず、歌しか取り柄のない、その仕事すら失った30手前の女に行き場はあるのか。卑しく、大勢に迷惑をかけながら、汚く老いぼれる様が、暗澹(あんたん)たる未来予想図が、早回しのビデオのように流れ込む。

―—早く、早く連れていって、詩織

 私は激しい頭痛と焦燥感を抱えて、病室を抜け出した。

 

 残雪の夜だった。

 病衣にコートを羽織っただけの体に、氷の刃が突き刺さる。一歩一歩ふらつきながら、暗くて冷たい夜道を進んで行く。頭痛はさらに激しくなり、鼓動の速さに合わせて、見えない錐(きり)を、頭蓋骨のすき間に差し込まれているようだった。

―—ここでも、病院でもなく、あの家で

 前のめりに倒れ込む。不思議と冷たくはなかった。体が雪と同じ温度まで冷えているのか。

 私はあの家で最後を迎えることも許されないのか。最も罪深い私、何かの手違いで生き永らえている私、愛する人を孕ませられない私、詩織という世界で唯一の善意を絶やしてしまった私。


 意識が途切れる瞬間、私の前にどこまでも続く、雪を固めた、確かで力強い足跡を見た。私の靴と同じ大きさだった。

―—詩織だ

 詩織と私の靴のサイズは一緒だ。雪に残った詩織の証を見ていると頭痛が、さぁっと凪いでいく。

―—詩織がそこに、私と一緒に居るんだ

 そうか、私は2人分の死を背負って生きて行けるんだ。詩織と共に生きているんだ。

 いつかその荷物を誰かと半分こできる時まで、私は歩いていけばいいんだ。

 まとまらない頭で夢を見る。リュックの底に2人分の死を忍ばせて、短くて長い旅路をもう少しだけ歩いていく夢だった。

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