複線とかない
@shirano
第1話 おっぱいいっぱいいいきもち
――皆殺しにしなければならない。
目がふくらむような怒気に赤らむ顔と、かえって冴える体。
――皆殺しだ。
その声は間違いなく自分のものである。が、しかし、俺の声はこんなに澄んで美しかっただろうか。あたかも遠く
「無礼なっ!今すぐ下げさせろ、この卑しい者を。」
でっぷりと太った男の指の先、
それは十一月の夜であった。
「全員、殺してやる。」
――それは南に渡る
「いや、なに、風の噂で恐ろしいことを聞いたんだ。なるほど、諸君が
砂利を踏みしめて、愁太郎はうち震えた。
「どうやら今晩、この尊くも清い殿上に、かの地の国に至る
幽かな鈴の音を、
でっぷり肥えた、あるいは妙にやせ細った男どもは、まだ舞の残像に目を
その刃に下がる鈴が、静まり返った宴の場を覚ますように鳴ったのである。
その女の見目といえば
薪の爆ぜる音がその契機であった。
「僕を闇討ちせんとする噂、それが
女は月下に引きずられてきた愁太郎を見ずに言う。組み伏せられた愚かな部下を哀れむ、たおやかな女の笑みは、その
闇夜に隠れていた者は、この「
宴は再び始まった。女の
山風を受けたように振れる袖、鼠色の髪は月光を
女は徐々に、演台から酒席の方へ引きずられて、おそらくその肢体に触れる者もあっただろう、裾を掴む者もあっただろう。それでもなお、綱渡りをするような微妙の、女の詩美を醸す踊りは何人も妨げられなかった。
「醜い……」と、そう端的に呟いた者も一人ではなかった。それから目を逸らし、酒を
しばらくして貴人どもは飽いたのか、女は席を外し、隣室で乱れた衣装を着替えようとした。が、その明かり一つしかない部屋では、小間使いの女がただ平伏しているばかり、先ほど脱いだ正装の狩衣はそこになかった。のみならず、伏す女は薄衣一枚纏わぬ姿。天上に穢れた素肌を晒しては咎めがあるのは明らかである。
小間使いの震える体を見下ろして、大きく見開かれた隻眼の目は、今宵初めて心の動揺を映した。
「
女が覚悟を決したように目を瞑ると、まさにその隙を見計らったように、彼女の
下女は温情の衣装を掻き抱いて、その下の肩をびくりと震わした。もう顔を上げることは出来ずとも、感謝の涙を床に残していざり去った。
「こんな場所で肌を見せるとは何事か」と、落ち着いた声はもはや宣告でしかない。更衣中の部屋に
「杣の守」などと大仰に下女に呼ばれた女が、手渡された服に袖を通すと、青みがかった隻眼と桃色の刺青がいっそう浮き立つようだった。
「このことは天子さまに奏上する」と、それだけを足早に言い残してにやり、男らは足音を騒がしてまた酒席に戻った。女の隣にはもう、かの愁太郎が膝をついて
女は男どもが去るのを見送って、どしりと
瞑想するような
「……もうお前は帰れ。」
と、たったその一言。無論、愁太郎は彼女の命で天上に馳せ参じたのであったが、返事もなく愁太郎は立ち上がった。去り際の庭の砂利を踏む音が少し、再び奏で始めた舞楽の高踏たる音を乱した。
その宵闇に紛れた愁太郎の背に、やはり美しい青の鳥、大瑠璃の声がしたようだった。
「懐かしいな。……僕は、君も、今ではもう舞うことなど到底できない。生きることが、そのまま舞うことであったあの時分が、どうしても懐かしい……なあ、愁太郎。」
女はまた、秋の収穫を祝う殿上の宴に戻ろうとする。と、こちらはいつから居たのか、薄い緑の狩衣、若い男が盗み見を恥じずに言う。端正な男の視線はしかし、去る愁太郎の方角、その先にあった。
「覚悟は出来ているか、女」
――
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「おっきろぉぉーーー!」
その声を、愁太郎は確かに聞いていた。何も風の動きを知覚したとか、眠りながら身体が覚めているとか、そういった修練の賜物ではない。
板間の上で体を転がした、すぐ後に衝撃の音がした。
「いったーーいっ!!」
愁太郎は固くなった顔の皮膚をひび割るように、しかめ面をしたり、口角をあげたりしながら、尻をさする童女に手を差し伸べる。
「おはようございます。昨晩はありがとうございました。」
小梅は少し偉そうにして、
「え、あ、えっと……そうだぞぉ、あたしがあんたをひろってやらなきゃ、お前はとうのとっくに山犬のはらじゃ、川の糞じゃぼけ、感謝しろよぉ。」
小梅はなぜか愁太郎の腹を殴りながら言う。その親しみに、愁太郎は戸惑うばかりであった。
高い天井に、地面が見える荒い板間、土間に続いた一部屋しかない家は、昨晩と何も変わっていなかった。
「本当にありがとうございます」
と、また頭を深く下げて礼をする。小梅は愁太郎の足に捕まって離さない。
「なら飯だぞ。起こしてやった礼に猪でも取ってこいっ!」
「私は獣の肉を食しません。周りはみな食べていましたが……。」
「ねぼけてんじゃねぇぞ!あたしらのために取ってくるに決まってんだろうがっっ!」
小梅が愁太郎の腿を叩く。が、愁太郎はそれを除けようとしない。終いには噛みつきもしたが、眉ひとつ動じない愁太郎に、徐々に小梅の視線が泳ぐ。申し訳なくなって、何事もなかったようにすっと
「……なんだ、あれだぞ、痛い時はちゃんと痛いって言えと兄ちゃんが言っていたぞ。」
「いえ、それほどの痛みはありませんでした。」
「なんだとっ……せっかく心配してやったのにっ!」と、小梅がまたもや愁太郎に飛びついたその折に、建てつけの悪い玄関の戸が、あたかも
「こらっ!小梅っ!お客さんに何してる!」
そうして叫びながら入ってきたのは小梅の兄、
複線とかない @shirano
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