複線とかない

@shirano

第1話 おっぱいいっぱいいいきもち

 ――皆殺しにしなければならない。


 目がふくらむような怒気に赤らむ顔と、かえって冴える体。


 ――皆殺しだ。


 その声は間違いなく自分のものである。が、しかし、俺の声はこんなに澄んで美しかっただろうか。あたかも遠く霊妙れいみょうな山々が懐に囲う野鳥の、その鳴き声を耳のおもてに聞くように。遠く、近く、おぼろに聞こえる。

 

 「無礼なっ!今すぐ下げさせろ、この卑しい者を。」


 でっぷりと太った男の指の先、広瀬愁太郎ひろせしゅうたろうは、うつ向いた右の頰に左手を伸ばした。先ほどまでひざまづいて不動だった姿勢はもはや崩れ、僧泡そうほうと呼ばれる吹き出物をひたすらいじっていた。いじるほど、突起はさらに熱を持って、愁太郎は初めてのどふるわせつぶやいた。

 それは十一月の夜であった。


 「全員、殺してやる。」


 赤軒殿せっけんでんの間は騒がしかった。いずれも愁太郎をそしり、なじる声。前栽せんざいの柱の影に控えている愁太郎からは、宴のお歴々の顔など灯火に揺れる影でしかなく、ただその音のみを聞いた。


 ――それは南に渡る大瑠璃おおるりの声によく似ていた。


 「いや、なに、風の噂で恐ろしいことを聞いたんだ。なるほど、諸君がいとうような、口にするだに恐ろしい、凄まじくいやしいことなんだが……」


 砂利を踏みしめて、愁太郎はうち震えた。

 

 「どうやら今晩、この尊くも清い殿上に、かの地の国に至る隘路あいろが現れるという。それもこの僕を導くため開かれると云うんだ。恐ろしい、誠に恐ろしいことだよ。僕は僕のつゆの命を惜しんでこんなことを言うんじゃないよ。ただ帝の美しい裾を蘇芳すおうに汚すことが耐え難いだけなんだ……。ならばこの獣の身は己で守らなくてはならない、それがもののふの心意気、品格。これを機会に皆様方、とくと知るといい。」

 

 幽かな鈴の音を、畏怖いふをもって聞いたのは誰か。赤の紗幕しゃまく後背こうはいに波打つ演台で、先ほどまでえんみやびやかな舞を披露していた若い女が、影に半顔はんがんを埋めて静止した。

 でっぷり肥えた、あるいは妙にやせ細った男どもは、まだ舞の残像に目をくらましたまま。ひとり飄々ひょうひょうとした女は、あたかもまだ演目の最中であるような流れる所作で、だらしなく腰から垂れた小刀に右手を遊ばせた。

 その刃に下がる鈴が、静まり返った宴の場を覚ますように鳴ったのである。

 

 その女の見目といえば美醜びしゅうを極めていた。鼠色ねずみいろの髪は腰まで垂れるに任せ、鋼青こうせいの目は隻眼せきがん、顔の半分には桜の花弁の刺青いれずみが、潰れた左目を中心に舞っていた。その異様の女が、手近の男から奪った白酒しらきで薄い唇を洗いながら、富貴ふきの人々を睥睨へいげいするでもなくただ流し目に見、言葉は縷縷るると、ひとりごちた。

 薪の爆ぜる音がその契機であった。


 「僕を闇討ちせんとする噂、それが虚妄きょもうであれば、僕の臆病を存分に笑えばよろしい。こんなおもちゃでは、いくら僕と云えども君らに太刀打ちできないからね……彼奴やつはそれを知悉ちしつしているわけだ。……それに彼奴は僕でも御せない、血の気の多い奴でね、きっと僕と同じ噂を聞いたんだろう、主君が殺されてはたまらない。禁忌と承知で勝手に付いてきてしまったようだが、あまり責めないでやってくれ。それが僕らの、彼らの習性なんだ。ただ野蛮な奴に変わりはないから、おいそれと挑発しない方がいい。」


 女は月下に引きずられてきた愁太郎を見ずに言う。組み伏せられた愚かな部下を哀れむ、たおやかな女の笑みは、その柔和にゅうわの色に反して面々を脅すに事足りた。

 闇夜に隠れていた者は、この「醜女しこめ」すら野蛮と言ってのける男。松明のほの明かりの中に、ぎらり光る禽獣きんじゅうの目がこちらを見上げている……そう思うと誰も彼も庭の方を見ることができずに慄然りつぜんとするしかなかった。

 

 宴は再び始まった。女の驕誇きょうかに貴人らが黙したのはただその弁に負けたからではなく、女がまた舞を舞うことで許しを請うたからであった。さすれば刀の鈴はもう畏怖の念を与えない、鬼品きひんの音となって夜のとばりに響く。

 山風を受けたように振れる袖、鼠色の髪は月光を粉黛ふんたいにしてきらめく。白磁はくじの肌に上気した頰は、稜線に隠れる陽光のごとく、だいだいから紫へと複雑に美しい。


 女は徐々に、演台から酒席の方へ引きずられて、おそらくその肢体に触れる者もあっただろう、裾を掴む者もあっただろう。それでもなお、綱渡りをするような微妙の、女の詩美を醸す踊りは何人も妨げられなかった。


 「醜い……」と、そう端的に呟いた者も一人ではなかった。それから目を逸らし、酒をあおることをやめた者も幾人かあった。

 しばらくして貴人どもは飽いたのか、女は席を外し、隣室で乱れた衣装を着替えようとした。が、その明かり一つしかない部屋では、小間使いの女がただ平伏しているばかり、先ほど脱いだ正装の狩衣はそこになかった。のみならず、伏す女は薄衣一枚纏わぬ姿。天上に穢れた素肌を晒しては咎めがあるのは明らかである。

 小間使いの震える体を見下ろして、大きく見開かれた隻眼の目は、今宵初めて心の動揺を映した。


 「そまかみさま……」と、下女の呼びかけた声を封じて、「そうか、迷惑をかけた」と謝る、銀糸ぎんしの髪の女は夜気やき火照ほてる肌を几帳きちょうに隠して、己の着ていた白色の衣装を下女にかけてやった。

 女が覚悟を決したように目を瞑ると、まさにその隙を見計らったように、彼女の深縹こんの狩衣を持って入ってくる男ども、その厚顔こうがんを女はめ付けた。

 下女は温情の衣装を掻き抱いて、その下の肩をびくりと震わした。もう顔を上げることは出来ずとも、感謝の涙を床に残していざり去った。

 

 「こんな場所で肌を見せるとは何事か」と、落ち着いた声はもはや宣告でしかない。更衣中の部屋に闖入ちんにゅうした、その無礼を責めたところできっと無駄である。

 「杣の守」などと大仰に下女に呼ばれた女が、手渡された服に袖を通すと、青みがかった隻眼と桃色の刺青がいっそう浮き立つようだった。


 「このことは天子さまに奏上する」と、それだけを足早に言い残してにやり、男らは足音を騒がしてまた酒席に戻った。女の隣にはもう、かの愁太郎が膝をついてはべっていた。

 女は男どもが去るのを見送って、どしりと胡座あぐらをかいた。

 瞑想するような須臾しゅゆの間があり、それから几帳に描かれた山鳥の絵を眺める。


 「……もうお前は帰れ。」


 と、たったその一言。無論、愁太郎は彼女の命で天上に馳せ参じたのであったが、返事もなく愁太郎は立ち上がった。去り際の庭の砂利を踏む音が少し、再び奏で始めた舞楽の高踏たる音を乱した。

 その宵闇に紛れた愁太郎の背に、やはり美しい青の鳥、大瑠璃の声がしたようだった。


 「懐かしいな。……僕は、君も、今ではもう舞うことなど到底できない。生きることが、そのまま舞うことであったあの時分が、どうしても懐かしい……なあ、愁太郎。」


 女はまた、秋の収穫を祝う殿上の宴に戻ろうとする。と、こちらはいつから居たのか、薄い緑の狩衣、若い男が盗み見を恥じずに言う。端正な男の視線はしかし、去る愁太郎の方角、その先にあった。


 「覚悟は出来ているか、女」

  

 ――そまの守、竜泉寺春也りゅうせんじはるやは光をかつて見たことのない左目で優男に答えた。



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「おっきろぉぉーーー!」


 その声を、愁太郎は確かに聞いていた。何も風の動きを知覚したとか、眠りながら身体が覚めているとか、そういった修練の賜物ではない。

 板間の上で体を転がした、すぐ後に衝撃の音がした。


「いったーーいっ!!」


 愁太郎は固くなった顔の皮膚をひび割るように、しかめ面をしたり、口角をあげたりしながら、尻をさする童女に手を差し伸べる。


 「おはようございます。昨晩はありがとうございました。」


 茅舎ぼうしゃに似合わない狩衣姿の愁太郎は、しかし埃を払って慇懃いんぎんに頭を下げた。その姿容しように、まだあどけない子供である小梅こうめも言い知れぬ圧迫を感じた。が、それも彼女にとってはなんだか楽しいことであった。

 小梅は少し偉そうにして、

 

 「え、あ、えっと……そうだぞぉ、あたしがあんたをひろってやらなきゃ、お前はとうのとっくに山犬のはらじゃ、川の糞じゃぼけ、感謝しろよぉ。」


 小梅はなぜか愁太郎の腹を殴りながら言う。その親しみに、愁太郎は戸惑うばかりであった。

 高い天井に、地面が見える荒い板間、土間に続いた一部屋しかない家は、昨晩と何も変わっていなかった。


 「本当にありがとうございます」

 と、また頭を深く下げて礼をする。小梅は愁太郎の足に捕まって離さない。暁闇ぎょうあんまで、彼女は愁太郎の手を握って眠っていた、その体温を思い出す。

 「なら飯だぞ。起こしてやった礼に猪でも取ってこいっ!」

 「私は獣の肉を食しません。周りはみな食べていましたが……。」

 「ねぼけてんじゃねぇぞ!あたしらのために取ってくるに決まってんだろうがっっ!」

 

 小梅が愁太郎の腿を叩く。が、愁太郎はそれを除けようとしない。終いには噛みつきもしたが、眉ひとつ動じない愁太郎に、徐々に小梅の視線が泳ぐ。申し訳なくなって、何事もなかったようにすっと膝下しっかを離れた。


 「……なんだ、あれだぞ、痛い時はちゃんと痛いって言えと兄ちゃんが言っていたぞ。」

 「いえ、それほどの痛みはありませんでした。」

 「なんだとっ……せっかく心配してやったのにっ!」と、小梅がまたもや愁太郎に飛びついたその折に、建てつけの悪い玄関の戸が、あたかも赫怒かくどしたように激しく引かれた。


 「こらっ!小梅っ!お客さんに何してる!」


 そうして叫びながら入ってきたのは小梅の兄、雪介ゆきすけであった。山籠りしつつ狐狸こりの道を敗走してきた愁太郎を助けたのが、この屈強の青年である。

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