第10話 祭り

長雨の影響は大きくなかった。蓄えもある。ホトビ王は、民に米を節約するように触れている。何も心配することはない。伍科には里々が備えている。族長方もホトビ王も、皆そう言っているではないか。何度そう言い聞かせても、イサチの心は落ち着かなかった。


伍科に立った女王は巫女であるという。悪名高い先王を討った英雄。霊力に優れ、美貌すら誇るというその女王に、自分は適うのだろうか。

何かの折に里に出るたび、落ち穂を拾う者や御山に向かって祈る者、巫女たちにすがる者を目にした。そういう光景ばかりが目についた。


太子の成人が決まったのは、そんな中でのことだった。


太子の成人は、次期ヒメミコであるイスズの独立も意味していた。といっても、住居が別になるだけで、昼間の勤めはこれまでと変わらない。それでも、イスズが離れて行ってしまうようで、イサチの心には隙間風が吹き込んだ。


イスズはタタラ、ヒヨミの息子と親密にしている。勤めを終えるとすぐにイスズがどこかに出かけていることも、そしてそこで会っているのがタタラであろうことも、イサチにはわかっていた。その事実も、彼女の気持ちを複雑なものにした。そしていつしか、タタラに怒りすら覚えるようになっていた。イスズを盗られたような気がしていた。


いや、もしかするとやり場のない不安をタタラに向けることで、心の安寧を保とうとしていただけかもしれない。

そう思い到ってもなお、イサチは胸に灯った小さな火種を消すことができなかった。


*  *  *


新木の日、タタラは父王とともに、朝から祭殿に入った。昼から行われる猪射の準備のためである。


この日、茅那國に属する里では、里と外界とを隔てる境塚が取り払われ、そこに埋め込まれている銅鐸が一年ぶりに取り出される。また、祭りで使う祭器の数々の準備も念入りに行われる。猪射のために捕らえられた猪も、男どもによって祭殿まで運ばれていく。


慌ただしい雰囲気の中、イスズも祭殿に入ってタタラの準備を手伝っていた。もちろん、ヒメミコの付き人としてである。


今日をもって成人するタタラは、初めて大人たちと同じ服装をする。これまでの貫頭衣から、筒袖の衣の腰を青藍の帯で締め、下はゆったりとした袴を膝下で絞った服装に着替えた彼は、見違えたように立派に見えた。


しかし、その様子からは緊張がにじみ出ている。額には汗がにじみ、じっとしていられない様子だった。


太子の緊張が祭殿に満ちる中、外で歓声が響いた。きっと猪の準備が終わったのだろう。それはつまり、太子の出番が訪れたことを意味する。

イサチがホトビ王に合図をすると、そのホトビ王に促されてタタラが頷く。

イスズが破魔の矢と弓を手渡しながら目配せをすると、彼はぎこちない笑顔を作って、戸口に四角く切り取られた空へと歩き出した。


*  *  *


汗が止まらない。しかし袖で拭うのは躊躇われた。それは初めて袖を通した真新しい正装を汚してはいけない気がしたためでもあるし、数多の視線を気にしたためでもある。


祭殿の戸口と地面を結ぶ長い階段には、その途中に少し広く造られた踊り場がもうけられている。事前に叩き込まれた手順通りにそこに立って広場を見渡すと、眼下は里じゅうの民で埋まっていた。それだけで背中を汗が伝い、膝が震える。


緊張が民に伝わっていやしないかと不安になり、そそくさと階段を下りる。ヒメミコからは、踊り場でしっかり時間をとって歓声に答えろだの、手を振れだの言われていた気もしていたが、そんな余裕は彼にはなかった。


階段を下りたタタラを迎えたのは、堅牢な檻に閉じこめられた猪であった。檻に閉じこめられ、群衆に囲まれて、ずいぶん気が立っているようだ。何度も檻に体をぶつけている。


「これより、猪射を始める」


ヒメミコの声が降ってくる。タタラはどうもイサチが苦手だ。いちいち厳格にしきたりを守り、それを周囲にも求めるその姿勢が、彼には小うるさく感じられたのだった。


そんなことを考えている場合ではない。ヒメミコの声に応えて男どもが二人がかりで慎重に檻を開け、棒で猪をつつき出そうとしている。気を抜けば、民に恥をさらすことになる。


そのとき、檻に収まっていた獣の眼がタタラを捉え、殺気を帯びた。視界の中心に立つこの少年を、目下の敵と見定めたようだ。矢筒から矢を抜き取り、弓につがえる。


猪がその蹄で地を一度、二度と掻く。空気が粘り気をもったかのように、これらの挙動がタタラの目にはゆっくりとして見えた。


そして次の瞬間、彼の目の前には獣の牙があった。


猛然と突進してきた猪の動きに対応できず、タタラは矢をあらぬ方向に放った。それが何もない地面に力なく転がるのを視界の隅に捉えながら、彼は必死に身をよじる。その動作が一瞬遅れていれば、彼の胸は大きく反った牙に突き上げられていただろう。


群衆にどよめきが広がる。


全身から血の気が引くのを感じながらも、しかしそれによってタタラの意識は瞬時に研ぎ澄まされていく。周囲から音が遠のき、視界には目の前の獲物のみが捉えられる。


素早く距離をとって、二本目の矢を抜き取ると、弓につがえる。しかし、放つのはまだだ。

相対する獣の挙動などもはや捉えられはしない。だが、あえて見定めなくとも、体がそれを感じている。


猛然と大地を駆ける巨躯を十分に引き付けて、斜めに飛ぶ。躱しざまに、ごわついた毛皮を蹴りつけて距離をとると、タタラは引き絞った右手を放した。

光芒を引いて飛んだ矢は獲物の腹に突き立った。それでも猪の動きは止まらない。すぐに向きを変え、再び突進を始める。タタラもすぐに新たな矢をつがえる。

限界まで絞られた弓弦がきりりと軋む。血潮が全身を駆けめぐり、感覚はより鋭く澄まされていく。


手負いを感じさせない猪の動きに、タタラは畏怖ともいうべき感情を覚えた。そしてそれは、彼に悦びをも感じさせていた。

勝てる。理由はわからない。しかし、タタラはそう確信して、向かってくる猪に対し半身で立ちはだかった。

静かに息を吐き、力を抜いてイスズに叩き込まれた通りの姿勢で立つ。そうして放った矢は、真っ直ぐに獲物の眉間に突き立った。


*  *  *


ひときわ大きな歓声がこだました。


イスズは恐る恐る薄目を開き、イサチの陰から眼下の様子を窺う。その眼に映ったのは、射撃の姿勢そのままに立つタタラと、そのすぐ足下に横たわる猪の姿であった。


一瞬なにが起こったかわからず、ぼうっと立ち尽くす。しかし、その意味を理解したとき、彼女はつい喜びの声を漏らした。


「やった」


そして、祭殿の踊り場から観覧しているホトビ王とイサチの間を抜けて、衆目の下にあるタタラに駆け寄る。太子に弓を渡すのが彼女の役割なら、それを回収するのも彼女の役割である。イスズは、そう解釈した。


勢いそのままに抱きつきそうになる衝動を抑えつけ、太子の前で立ち止まる。


その姿を認めてようやくタタラは弓を降ろし、深く息を吐いた。

差し出されたイスズの手に弓を預け、矢筒を降ろした少年の表情は、いつもの覇気のない少年のものに戻っていた。


「……動くもので練習してなかった」


「あ、本当だね」


二人は小声で言葉を交わすと、くすりと笑い合った。それもつかの間、タタラは歓呼して押し寄せる民に飲まれていった。

これをもって王太子タタラは成人し、王の器として認められたのである。

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器の血脈 新田カケル @kakerun

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