第9話 鍛錬
その翌日、いつもの場所で昼寝という気分にもなれずに、タタラは普段よりも遅くまで館にいた。昨晩、父から年明けの成人を言い渡されてから、気分が晴れずにいたためであった。その父王は、朝から祭殿に登っている。
「行って参ります」
館を出たタタラは、いつも通り裏の畑にいる母に声をかける。
「今日もイスズちゃんと一緒かい?」
「約束してるわけじゃないから、どうでしょうね」
いつもと似たようなやり取りが繰り返される。
タタラには兄弟は無い。そのせいもあって彼は一人で過ごす時間が多くなっていた。館にいたってやることはないし、そもそも親にくっついているような歳ではない。
「気を付けていってらっしゃい」
いつも通り、母は深くは尋ねてこない。気を遣われているのだとしたら申し訳ない。そうは思うのだが、この方が都合が良いのでそのままにしている。
母の注意を背中に受けながら館を離れると、強い日差しがタタラの目を刺した。南東の空からの強光に加え、目の前の広場がその光を反射している。
やっと日光に慣れた眼を開くと、目の前には青草ひとつ生えていない白く清浄な砂地が広がる。広場には白砂が敷き詰められ、巫女たちによってよく手入れされていた。
日輪を背にしたトコタチの御山は雲ひとつ纏わずに、その岩肌をさらして里を見下ろしている。残り三方も遠くには山が連なり、その上に広がる青空には立体的で柔らかそうな雲が浮いている。
音に聞く海というものも、かように青いのだろうか。
タタラはまだ、海を見たことが無かった。
視線を下げると、広場を囲むように巫女たちの家屋や高倉が連なり、その隙間からは里の外に広がる水を湛えた稲田が見える。子供たちも皆で外に繰り出している頃だろう。
どこをとっても、いつもと変わらぬ景色であった。
「タタラー!」
広場を南に抜けようとして祭殿の横を通り過ぎると、少年を呼び止める声があった。振り返ると、巫女装束の裾をはためかせながら少女が駆けて来る。
「よかった、間に合って」
「そんなに急がなくったって。なにか予定でもあるのか」
「別にないけど。また昼寝されたら起こしに行くのが面倒じゃない」
「今日は昼寝なんてしないよ」
成人のことが頭をよぎり、ため息が出る。イスズは首を傾げた。
そのとき、目の前の祭殿から見知らぬ少女が下りてくるのが見えた。まず目を引くのは一片の翳りもない白髪である。肌は雪のように白く、体つきは華奢である。その触れたら消えてしまいそうな不思議な姿に、タタラの視線は釘付けになる。
「伍科國の使者ね。ミツと言うらしいわ」
祭殿を下ってくる少女の視線が一瞬だけタタラを向いた。その表情からは感情を読みとることは出来ない。かの國で起こったことは噂で聞いている。伍科の死者というなら、好意を持っているわけはないだろう。それでも、なぜかタタラは目を離すことが出来なかった。
突然背中に衝撃を受けて、タタラは我に返った。
「なに見とれてるのよ」
平手を今度は拳にしてタタラをどつくと、イスズは半眼で言った。
「だって……すごいじゃないか」
イスズにしてみても、彼の言わんとすることはわかる。その幻想的なけがれのない白さは、一度見たら記憶に焼き付く。しかし、タタラがその少女に見入っているのは癇に障った。
三度目となる打撃を太子の背にお見舞いすると、イスズはタタラの手を引きながら言った。
「ほら。クガネのところに行くわよ」
引きずられるようにして、しぶしぶタタラは従った。広場を出る前に振り返ったが、そこにはもう少女の姿はなかった。
広場を出ると、すぐにクガネが彼らを見つけて駆けてきた。その腰には木剣が下げられている。
「クガネ、それどうしたの?」
イスズが尋ねると、少年は胸の前にそれを構えて自慢げに語った。
「父さんに言って作ってもらいました。イスズ様のことも、これで俺が守ります」
「あら、それは心強い。ありがとうね」
最後に、タタラも少しは見習ったら? と付け加えると、イスズは横目で彼を見た。それで思い出したように、イスズは続けた。
「そういえば、あなた成人するんですってね」
「あ、それ父さんも言っていました。おめでとうございます!」
クガネにも見上げられて、タタラは頷いた。
「ああ。それもこの年明けらしい」
ため息混じりに答えるタタラに、クガネが尋ねる。
「どうして嫌そうなのです。俺は羨ましいですが」
「不安なんじゃない? クガネと違って頼りないから」
「そういうわけじゃ……ない、けど。突然のことだったから」
冗談めかしたイスズの言い草にタタラは珍しくムキになったが、その勢いもすぐにしぼんだ。
「やっぱり不安なんじゃない。大丈夫よ、タタラなら」
今度のイスズの言葉には、少し優しさが込められている。それを感じ取れないタタラではない。彼は感謝を込めて小さく頷いた。
「成人の儀って何をするのですか?」
クガネの問いには、イスズが答えた。
「ああ、ふつう知らないわよね。なにせ太子様の成人なんて、一生に何度も拝めるものじゃないから」
少女はそこでわざらしく間を置く。意地の悪い巫女もいたものだ。
「太子が成人するときには、広場で、ある儀式が行われるの。それは
イスズの言葉を、タタラは覇気のない声で引き継いだ。その先がタタラを悩ませている問題なのだった。
「距離も近いし的も大きい。もちろん猪は動くから危ないんだけど、矢を当てるだけならそれほど難しくはない。でも、この儀式の意味は太子の強さを示すこと。だから、つまり、みんなに猪の恐ろしさをしっかり見せた後で、それを倒さないといけない。父さんにも言われたよ。しっかり盛り上げろよ、って」
「そういうこと。タタラが一番苦手なお役目ってわけ」
そう聞いて、クガネも合点が行ったようだった。
「確かに。タタラ様は人前に出るとか、ましてやそこで役を演じるとか下手ですもんね」
年下の少年に明快に評され、タタラはがっくりと肩を落とした。
「成人が不安なのって、猪射が怖いだけなんじゃないの」
「まあ、そう……かもしれない。そもそも弓って苦手だし、民に囲まれて射つなんて、的がどれだけ大きかろうとそもそも外すかもしれない」
イスズの言葉で、タタラの胸にかかった靄が輪郭を得ていく。彼女の言うとおり、タタラの不安は目先の猪射へのものが大きい。それさえ終わればと考えると、ずいぶん楽になる。
誰に似たのか、生来タタラは目立つのを苦手とする性格で、人前では得手も不得手になる。幼い頃、新しく覚えたことを母に披露しようとすると大抵失敗した。そして、さっきは上手くいったと言い訳することになったものだ。
「よし。じゃあしばらくタタラを鍛えましょう」
見かねたイスズが、良いことを思いついたと言わんばかりに提案する。しかし、残るふたりは顔を見合わせた。彼らの思いはひとつ。いったい誰が弓を教えるのか、ということである。
ふたりを代表して、クガネが口を開く。
「えーと、誰がタタラ様に教えるんですか」
その言葉に対して、イスズは無言で微笑み、自分を指さした。
* * *
「なんで当たるんだよ……」
イスズの弓射を見たタタラの第一声である。
館で弓矢をとり、森に入ったタタラたちは、いつもの場所で適当な樹に的を下げて練習を始めた。
そこで、師としての実力を示すためにイスズが初めに射て見せたのであった。それは見事なもので、掌ほどの大きさの的を、彼女は十分な距離から射抜いて見せた。
「ま、巫女の嗜みよ」
結局、タタラにはこの少女に教えを乞う以外に道は残されていなかった。
しばらくして、カヤナでは稲穂刈りが始まった。全ての田で収穫が終われば、
伍科の噂は里中、國中に広まっている。しかし、それでも祭りとなれば、その非日常を楽しみつくそうとするのがカヤナの人々である。
年末に行われる新木と年始の大祓という二つの祭りは、二日間にわたって行われる。そして、子どもの寝静まった一日目の夜には、王も民も入り混じっての酒宴が開かれるのである。ホトビ王もこのために倉を開き、里を挙げて酒も肴もふんだんに用意する。
民は、それを楽しみに収穫に励んでいた。この國の人々は、何かにつけて酒を飲み、踊り明かすのが好きなのであった。加えて、今年は太子も成人する。宴は盛り上がるに違いなかった。
イスズが背筋を伸ばして弓を構え、眼差し強く的を見据える姿に、タタラはいつも惹きつけられた。その弓から放たれる矢は、吸い寄せられるように的を捉える。見事と言うほかない、美しくすらあった。
イスズはタタラに対して、丁寧に弓の扱いを教えた。構えるときの姿勢、呼吸を整えて心を静める方法も、人前での心の持ちようまでも、しっかりと仕込んでいった。タタラの方は、教えられたことを反復し、体に刻み込んでいく。
そうしているうちに、収穫の終わった稲田が増えていき、採れた米は高倉に収められていく。穂苅の終わった田では稲わらが干されて、乾いたわらは冬支度のために民に配分される。冬が始まろうとしていた。
「上手くなったものね」
「師匠の指導が良かったんだろうな」
感心するイスズの視線を感じながら、タタラは再び弓を構える。ゆっくりと息を吐き、心を無にして――、放つ。
弓を離れた矢は、しっかりと的に突き立った。そこにはすでに、数本の矢が刺さっている。少なくともイスズの前では、十分に弓を扱えるようになっていた。
「タタラは、気が散りやすいだけだから。きっと本番も大丈夫」
「ああ。ありがとう」
翌日は新木が行われる。里はその準備で大忙しである。これが、イスズとの最後の鍛錬であった。
そんな彼らの様子を離れた木の陰から窺っていた者がある。クガネであった。初めは、成人の儀を間近に控えたタタラを激励するつもりで来たのである。
しかし、クガネはそれが出来なかった。なぜか出ていくことが出来なかった。ふたりの近くにいてはいけない気がした。
明日にはタタラは成人する。祭りが終われば、また今までのように笑って三人で過ごせるようになる。そう信じて、クガネはひとり山を降りた。
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