最強の弱者 後編

 僕は、震える指で携帯電話のボタンを操作し、電話帳から木竜館の番号を選ぶ。

 コールが1回……2回……3回――――繰り返されるたびに、鼓動が早くなるのを感じる。早く電話に出てほしいという思いと、誰も電話に出てほしくない思いが、無意識の中で交差し始めるとき、受話器の向こう側から女性の声が聞こえた。


「はい、木竜館ですが」


 衣珠那姉貴だ…………寿実や奏さんじゃなくてちょっとだけ緊張が解けた。

でも、問題が解決したわけではない。むしろまだ始まってすらいない。


「開だよ」

「なんだハルか。どうしたの、木竜館こっちの番号に電話してきて? 榛名か陸が迷子になった?」

「違うよ。ただ……今から帰るんだけど「お客様」を連れていきたいんだ。だから……その、寿実か奏さんに代わってもらいたいんだけど」

「ん……? 買い物しているときに友達と会ったとかじゃなくて?」


 僕はとにかく緊張しすぎて、姉貴にうまく説明できる自信がなかった。

 だから、直接本人に話してもらうことにした。


「突然御電話、失礼いたします」

「へ?」


 紫苑さんが電話に出ると、少し離れていてもはっきりわかるくらい、姉貴の素っ頓狂な声が聞こえた。


「わたくし、九重紫苑と申します。このような形でのご挨拶となりまして、申し訳ございません」

「あ、いえ……その、失礼だなんて! ただいま母に代わりますっ! お待ちください!」


 聞いているだけで、衣珠那姉貴の慌てぶりが見て取れる。

 実際、後で寿実と奏さんに聞いた話では、その時の衣珠那姉貴の様子は尋常ではなかったとのこと。


 そのあとのやり取りはよく聞こえなかったけど、どうやら代わりに奏さんが出たようで、紫苑さんは終始とても丁寧な姿勢で電話をしていた。


「開さま。お母さまから、お話があるそうです」

「ありがとう……」


 3分ほど話したのち、紫苑さんは携帯電話を僕に返してきた。


「開、話は紫苑さんから聞いたわ」

「ごめんなさい急な話で」


 緊張が薄らいだころに受話器越しに聞く奏さんの声は、とても穏やかだった。

 まあ、奏さんもそんなにしょっちゅう怒る人じゃないけど、あの人の場合は、怒りの地雷がどこに埋まっているのかわからないのが恐ろしい。


「お茶を用意して待ってるから。気をつけて帰ってくるのよ」

「ありがとう…………」


 電話を切って、僕はようやく人心地ついた。

 さすが奏さんは肝が据わってる。町一番のお嬢様が来るというのに、少しも物怖じしていない。


「いいお母さまですね。お会いするのが楽しみですわ」

「うん。自慢の母親だよ」



 そんなわけで、九重紫苑さんが木竜館ぼくのいえに来ることになった……。

 ……………どうしてこうなった? 僕たちはただ買い物をしに来ただけだったはず。


「九重さんとハルロッサさん……いえ、道重さん。まさかお二人がこのような形で結ばれるなんて……」


 結ばれるだなんて、まだ気が早いよ。

 そうだ……紫苑んさんの親友だという子、雨宮さんというらしい。

 同じ部活の仲らしく、先日偶然僕が出演した生放送の録画をスマホで見ていたのがきっかけで、九重さんは僕のことを知ったらしい。


「驚きました。後ろから九重さんが「この方です!」と大声で叫ぶものですから」

「お恥ずかしい話ですが……あの時は暗くて顔もわからなかったので、探しても見つからないのではと諦めかけていましたので」


 顔がわからないのに、どうして動画の中のぼくが、あの日助けた謎の人と同一人物だと見抜いたのだろうか。同じクラスの人たちですら、たまに僕のニックネーム、ハルロッサの話題を出しているのに、本人がその場にいることに気が付いていない。撮影の時には男なのに化粧したりするからっていうのもあるけど、それくらい普段は外見的特徴に乏しいと思っていたのに。


「ですが、動画で拝見した開様の装いが、あの夜私を助けてくれた方と全く同じだったものですから」

「服装……なるほど、それは盲点だった」

「特に靴は間違いなく同じだと思いまして」

「すごい……」


 紫苑さんの意外な目の付け所に、僕はとても感心した。

 人の顔というのは、覚えていられるようで意外と覚えていられない。その点服装と靴の組み合わせは、記憶するのはそこまで難しくない。紫苑さんが普段からよく人を見ている証拠だ。


「それにしても――――」


 僕たちは今、車で移動している。それもただの車じゃない……


「この国の道路をリムジンが走るのを見たのも初めてだけど、その初めてで乗れるとは思わなかった」

「はい。雨宮さんと、開様のご兄弟がいらっしゃるとのことでしたので、人数が載れる車を手配させていただいたのですが、乗り心地はいかがですか? 不便なことは御座いませんか?」

「乗っているだけで幸せです」


 僕は素直にそう答えるしかなかった。

 今の僕はまるで借りてきた猫状態だ。はっきり言って、この車内の装いに僕の存在は分不相応にもほどがある。まあ、だからと言って不必要に縮こまるような僕じゃない。今はこの状況を少しでも楽しめる余裕を持とう……そう自分に言い聞かせる。


「あはぁっ! 窓が広くてお外がよく見えるっ!」

「テレビがある! 車にテレビがあるよ!」

「陸……榛名……ちょっと落ち着こうか」

「くすくす、いいのですよ」


 小中学生コンビは僕とは違って遠慮なく興奮している。陸はともかくとして、榛名は着実に、立派な強き木竜館女子に仕上がり始めているようだ。なんだか僕の方が情けないなこれは。


「私もこんな元気な弟や妹がほしいですね。お父様にお願いして、弟さんを里子にいただこうかしら?」

「あー……それはまた応相談ということで」

「ふふ、そうでしたね。まずは仲良くなるところから始めませんと。はい、お二人ともキャンディー食べますか?」

『ありがとうございます』


 雨宮さんは二人に餌付けし始めた……この人の家もお金持ちみたいだし、里子にもらってくれるのは、本来ならグループホームにとっていいことなんだけど、なんか人身売買の現場を見ているようで、あんまりいい気はしない。

 ……妹弟を取られるのが嫌なだけかもしれないけど。


 そうこうしているうちに、途中雨宮さんは自宅の近くで車を降りた。

 残った僕たち4人をのせて、車は木竜館に向かう。


××××××××××××××××××××××××××××××


 この日の木竜館は異様な雰囲気に包まれていた。


「お初にお目にかかります、九重紫苑と申します」

「竜舞奏です。開の育ての母です、どうぞよろしく」

「竜舞寿実だ。俺たちはそんなに偉い人間じゃないから、楽にしてくれて構わない」


 いつもはあまり使わない小さな空き部屋で、寿実と奏さんがお茶を用意して紫苑さんを迎えてくれた。僕は紫苑さんの隣にきちっと正座している。なんだか、まるで僕が紫苑さんの両親に、紫苑さんとの結婚を申し込もうとしているような絵になるけど、実際は全く逆だ。……まあ、結婚の申し込みではないけどね。


「先日は、開様に危ないところを救われました。本日はそのお礼に参りました。開様には、一生感謝してもしきれません」

「そんな……むしろ、最後まで付き合ってあげられなくて、ごめんなさい」

「ああ、我らも門限を厳守させてたからな。開ばかりを責めて悪かった。だが、無事でよかったな」

「そうですね。私たちももっと助けてあげるように言っておけばよかったと反省しています。それなのに、わざわざご足労いただいて、こちらこそ申し訳ないです」


 いったいどこまでが本心なのかは知らないけど、寿実も奏さんもいつも以上に腰が低い。でも、確かに紫苑さんのような上品な人を相手すると、自然とこうなっちゃうよね。


「しかし、九重家のお嬢様ともあろう方が、どうしてあの晩、一人で商店街を歩いていたんだ?」

「はい、あの日は同級の友人たちと初めて、学生だけで繁華街を歩いてみたくなりまして…………はじめのうちはよかったのですが、夜が更けるにつれて、その……怖い人に声をかけられるようになり、慌てて逃げたのですが」


 寿実の質問に、紫苑さんは申し訳なさそうに答えていた。

 きっと深窓のご令嬢さんたちは、普段あんなところを歩く経験をしていないんだろうな。ショッピングモールで紫苑さんを見た時だって、周りにいたほぼ全員が、珍しいものを見る目で彼女を見ていたもの。


「恥ずかしながら私は、走るのが苦手で、一人だけ逃げ遅れてしまい……助けを求めるだけでせいいっぱいでした」

「そう……それは怖かったでしょう。改めて聞くと、本当に危ないところだったのですね」

「はい。あの時、開様に助けて頂けなかったら、私は……………開様は、命の恩人です。感謝しても、しきれないくらい……」

「そんな、命の恩人だなんて……」


 ちょっとあこがれていた人に命の恩人なんて言われると、なんだか照れちゃうな。下手すると自己満足でしかないかもしれないのに、感謝されるとやっぱり助けてよかったって思う。

 …………とまあ、ここで奇麗に終わればめでたしめでたし……なんだけど、草食系とはいえ、僕だって年頃の男の子だ。表情には絶対に出さないけど、心の中では――――――


(これってひょっとしてチャンス!? この機会にお付き合いすることになって、いずれは……って、流石にないか)


 こんな下世話なことを考えていたりする。我ながらいろいろ台無しだ。

 でも、ちょっとくらい、いい格好してみるだけなら、許されるよね?


「そ、そのっ! 僕でよかったら何時でも頼ってよ! ボディーガードだって喜んでやるし、なんだったら執事でも!」

「おい」


 必死に虚勢を張る僕に、寿実は呆れておもわずツッコミを入れてきた。

 助けた相手にお礼を言われているのに、自ら下僕になりに行く、悲しき小市民の性……でもこれで紫苑さんがくすっと笑ってくれさえすれば僕は満足だ!


「…………………///」


 あ……あれ? 笑うどころか、顔を真っ赤にして俯いて…………


「どうしてでしょう……? 私……あれだけ開様にご迷惑をおかけしたにもかかわらず…………もっと開様に甘えたい、開様の傍にいたい。そんな思いが、強くなってしまうのです

「紫苑さん…………」


 すると、紫苑さんが突然僕の両手を包むようにして握ってきた。

 手を握られたのは今日二回目なのに、一回目の時よりもドキッとしてしまい、体が思わず跳ねた。

 そんな初心な反応を示す僕に、紫苑さんは心底嬉しそうな笑顔を向けてくる。


「きっと、これが恋なのですね……! 私は、開様のことを、心からお慕いしています! この間お会いしたばかりなのに、ご恩を返すどころか、このような身勝手な気持ちを押しつけてしまい、申し訳ありません。ですが……これ以上取り繕うことは、できません」

「あ、あぁ……お慕いしているだなんて、それこそ僕には身に余りすぎる光栄だね……」

「それとも、私のことは……お嫌いでしょうか?」

「まさか! 紫苑さんと仲良くなれるのなら、こんなにうれしいことはないよ!」


 あ、しまった。何とか落ち着かせなきゃいけないのに、無意識にどんどん火に油を注いでしまった!


「では私と開様は相思相愛なのですね! これほど嬉しいことが、今まであったでしょうか!?」


 一人でどんどん真っ赤に暴走していく紫苑さん……そして、僕と紫苑さんを、表面上は笑顔で、裏では冷や汗ダラダラにかきながら見守る奏さんと寿実……。ゴメンふたりとも、こんな厄介なことにしちゃって…………。

 正直、僕も先ほどの言葉に全く偽りはない。この上さらに相思相愛だったら、どんなにうれしいことか。容姿はもちろん、礼儀正しく奥ゆかしい様子が、庇護欲をそそるというか…………何としても守ってあげたくなる。それこそ、おとぎ話のような高貴なお姫様に忠誠を誓う騎士のように、きっとこの人のためだったら命を捧げてもいいって……そんな気持ちが恋なのかはわからないけど。



××××××××××××××××××××××××××××××


「本日はお忙しいところを、お邪魔致しました」

「こちらこそ、何のお構いも出来なくて申し訳ない」

「いえいえ、お話しできてとても楽しかったですわ。では、また今週の金曜日の夕方にお会いしましょう」


 今週の金曜日に、今度は僕が紫苑さんの家にお邪魔する約束をした後、彼女はお付きの人たちと共に、車で帰って行った。

 車が視界から見えなくなるまで、手を振って見送った後…………


「き、緊張したぁ……」


 安心したとたん、僕はヘロヘロと地面に腰を下ろしてしまった。

 心臓はまだバクバク高鳴ったままで、今までしてきたどんな運動の後よりも、呼吸が乱れる。


「あなた……」

「奏、ひょっとして同じことを考えているのか」

「たぶんね」


 僕の後ろでは、一緒に見送った奏さんと寿実が、お互いの頬っぺたをつねり合っている。狐につままれるというのはまさに今のようなことを言うんだろうな。

 そして、居間では高行をはじめ、寮生全員が正座したまま嵐が過ぎ去るのを待っていた。


「とりあえず、ご飯にしましょう」


 奏さんの一言で、木竜館はようやく元の動きを取り戻した。

 全員で分担して配膳を済ませると、いつもどおり寿実の合図で「いただきます」を言ってから食事が始まった。

 いつもなら僕たちは、夕飯になると奏さんが作ってくれるおいしいご飯を頬張りながら、今日あった出来事について面白おかしく語り合うんだけれど、今日の雰囲気は、まるで「最後の晩餐」だ。その中で僕はさながら妖星…………じゃなくて、イスカリオテのユダと言ったところか。


「ごめんみんな。こんな大事に巻き込むことになっちゃって」

「まあ、こればかりは仕方ないよね。ハルはいいことしたんだし、むげに断るのも失礼でしょう」


 衣珠那姉貴は相変わらず優しいな。どんな時でも僕のことをかばってくれるんだから。


「何しろ俺たちは、悪意にさらされるのは慣れっこだが、こんな一方的に都合のいい善意をもらうのは初めてだからなぁ…………どうしたものかな」

「そーだよね。なんか裏があるんじゃないかって、どうしても勘ぐっちゃうよね」


 二人の言うように、僕たちは育ての親たち以外は、基本的に悪意を向けてくるという前提で過ごしている。先生に信頼されているのも、少なからず友人がいるのも、すべては事前の根回しと打算の成果に過ぎない。

 なぜなら僕たちは大多数の人にとって、現代の被差別民のような存在だ。能天気に過ごしていては、平穏無事な日々は送れない。

 だからこそ、中途半端に助けただけだった紫苑さんに、あそこまで感謝されると、どう反応していいのかわからなくなる。はたして素直に好意を受け取っていいのか、はたまた身の程を弁えて手を引いたほうがいいのか…………


「過ぎたことは仕方ない。問題はこれからだ……まずは開、これが最初で最後の確認だ。おまえは九重のお嬢様とお付き合いしたいと思うか? どんな困難があろうと、屈することなく乗り越えると心に誓えるか?」

「寿実…………僕は自分の気持ちに嘘はないよ。あの時助けてあげられたのも、何かの縁だと思う。一世一代の勝負に……出てみようと思う」


 恰好つけたのはいいけれども、何度も言うようにこれは僕だけの問題にとどまらない。僕だけがおいしい思いをして、他のメンバーに迷惑をかけることは何があっても避けたいのが本音だ。寿実も奏さんも、内心はもしかしたら不愉快かもしれない。

 けれど、以外にも寿実は僕の答えを聞くと、不敵な笑みを浮かべた。


「よくぞ言った開。それでこそオトコだ。ただし二言はナシだ、最後の最後まであきらめず貫き通すのは、想像以上に厳しい。覚悟しろよ」

「開、あなたがここまで強く育ってくれて、私もうれしいわ。迷惑だなんて思わなくていい。私たちは一心同体なんだから。ね」


 ああ、なんということだろう。育ての親二人は、止めるどころか応援してくれる…………その上他の兄弟姉妹たちも


「開の…………いえ木竜館の一世一代の勝負! 燃えるわね! なんなら私が乙女心の扱い方の極意を教えちゃうわよ!」

「さすがは兄貴! やっぱり兄貴は男が違うなっ! 俺は走るくらいしか能がないけど、つかいっ走りくらいなら、いつでも頼まれるぜ!」

「私も開兄ぃを応援するよっ」

「僕もー」


「もう迷惑とか面倒を掛けるとか思う必要はないぜ開。むしろ、今まで俺たちをさんざんバカにしてきた奴らへの、絶好の意趣返しのチャンスだ! 面白くなってきたぞ!」

「みんな……もぅ、大げさだなぁ……! あっはははっ!」


 泣きそうになるのを誤魔化すために、僕は上を向いて大仰に笑う。

 みんなは、僕が迷わないように、大げさなまでに後押ししてくる。僕がもし逆の立場だったとしても…………ほかの兄弟が僕と同じ立場だったとしたら、きっと僕も高行たちみたいに、全力でサポートしただろうな。


「決まりだな。明日からは一日一日が修羅場となるに違いない……だが、木竜館の団結はこの程度では揺らがないことを見せてやろう」

『がんばるぞーっ!』


 こうして、木竜館では僕を中心に一世一代の大勝負に出る。


 その先に待ち受けている、悲惨という言葉すらも生温い結末も知らずに。

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