網の中でさまよい空の下でもがく

綾上すみ

Fatal Error

 部屋を暗くして、ディスプレイの薄明りのショーライトのもとで、私は人間になる。


 机の上には、しこたま買い込んだエナジードリンクの空き缶と下手な詩を書き散らしたルーズリーフとペンと医者をはしごして手に入れたデパスとかレキソタンの錠剤と、それをすりつぶすためのすり鉢とすりこぎ、油とり紙、それから一番大切な愛用のピンクの柄のナイフが乱雑においてある。今回の医者がレキソタンを出してくれたけれど味が正直あまり好きではないので、ジェネリックのほうを試そうと思っている。苦いやつはスニッフで一気だ。ひとまず夜食代わりにデパスをぼりぼりとかじる。ラムネのしゅわしゅわだけをとったような味でおいしいけれど、もうこの薬には体が慣れてしまったので、飛べるまでには時間がかかる。ネット上に転がっている適当なゴア・トランスを聴きながら、すり鉢にレキソタンを二十錠ほど入れ――この作業が一番面倒だ、なぜなら一錠一錠包装から取り出さなければならないからだ――強いキックのリズムに合わせて砕いていく。頭を振る。ラムネをぼりぼり、薬をごりごりだ。そのあと鼻からスーッと吸って、スパスパとやる。タバコではない、皮膚をスパスパ。


 へんてこなラムネも三十個ぐらい食べたところで少し酔っぱらってきて、心地よくなって、レキソタンをすりすぎたなと後悔する。そこでセックス中毒の、その中でも飛び切りひどいセックス中毒の友達からいきなりスカイプの着信が来たのでとりあえずヘッドセットをして通話に出る。こいつはたまに行為中に電話をかけてくるのでそれも想定のうちに入れていたが、今日はどうやら自室で一人らしいのでひとまず安心する。昨日のケントさんのセックスが素敵だったとか、そんな話をずーっと聞かされるのを、私は適当な相槌を打って流し聞きする。自分も自分の世界に浸っていたからだ。今日は皮膚にどんな模様を書こうかな、と、そんなことをぼんやり考えながら、こいつはなんだかんだいって私と同類だよなーとは意識する。彼女はベッドの上で人間になる。私は、ディスプレイの前ってだけ。


 スカイプの友達募集掲示板で知り合ってからもう半年は経っている。こいつの本名なんか知らないし、向こうもこちらの本名を知らない。名前なんてどうだっていいし、そもそも親からもらった名前があまり好きではないし。彼女はなんかだるいーと言いながらいきなり自慰行為をはじめ、馬鹿みたいに喘ぎ声を出している。この前のカン君――彼と私もスカイプ上で交流があった――とのセックスといい、わざと大きな声を出しているんだと思う。その理由は私にもわかる。自分を自分たらしめるのに、過剰過ぎて困ることはない。あー、なんか今日は悪い飛び方しそうだな。と思いながら、私は鼻をすすった。ずるずる。ずるずる。そういえば、あんた、ずっと鼻すすってるよね。んー、あんたもスニッフやればこうなるよー。なんだよ、スニッフって。ほら、アメリカ映画とかでよく、ヤク中が鼻すすってる描写あんじゃん。あれと一緒。あんた、ヤクやってんの? やってないけど、やってるようなもんかな。あはは、わけわかんねえ、あっ、そろそろいきそう。どうぞご勝手に。私は適当な油とり紙に砕いたレキソタンの粉末を取り、鼻で一気に吸った。何とも言えない痛みが走るけれどそこはさすが私、織り込み済みである。そのために先にデパスで酔っぱらって痛みの感覚を軽減させるのだ。


 はじめはレイプされたんだって、確かこいつ言ってたな。そこからセックス中毒になっちゃう子、結構いるんだとか話していた気がする。強く犯されるのがいいとか、ちょっと私にはよくわからないけれど。人のことを言えたことじゃない。この前鼻ってのは一番手軽に薬の成分を摂取できる粘膜でーって話をしたら、相手は上の空だったから。


 そう考えていると、だるそうに、はい、私果てましたーっていう声が聞こえてきた。何だよ果てたって言い方。文豪かよ。えっ、私実は詩とか書いてるよ。文豪って言われてうれしいなあ。マジ? 私もなんだけど。えっ、ホントに? 見せ合いとかしてみない?


 私は久しぶりに、恥ずかしい、という感情を覚えた。そして自分が軽く、詩を書いていると返事をしたことを後悔した。基本的に野良スカイプというのは話題になりそうなところを出すと、しつこくかじりついてくる奴が多い。彼女はその癖がついていて、もう観念するほかなかった。


 じゃあ私から読むからあとで読んでね、ヤク中さん。わかったよ。あーでもすまん、結構な量をスニッフしちまったからまともに聞いてやれんかもしれない。うん、それでもいいよ。じゃあ、どうぞ。



 明日別れる愛人のために、

 君は今日を生きられるか?

 

 今日死ぬ他人のために、

 君は今を生きられるだろうか。


 いろんな愛を知って、それでも、

 さよならしたらもうおしまい。


 無限の関係の中で縛られながら、

 永遠の別れは一度だけ。


 けれど今、今を生き抜くもののための祈りを、ここに捧げよう、

 明日に死すとも爪痕を残すことに、ほのかな期待を寄せながら。



 私はなぜか、彼女が読み上げる詩を真剣に聞いてしまっていた。頭がよくないから意味はよく分からなかったけれど、なぜだか惹かれるものがあった。詩というのは案外そういうものなのかもしれないな、あまり読んだことないけど。

 次あんたの番、はやく読んでよ、とせかされる。え、私のへたくそだよ。いいから、読んで。わかったわかった。えーっと、これにしようかな……、じゃあ行くよ。



 いくら切っても縁は切れないし、

 いくら飛んでも空は飛べない。



 え、終わり? 終わりだよ。私あんま長い文章書けない。向こうはかなり驚いた様子で、すこし沈黙が流れた。と思ったら、なぜだかすすり泣きの音が聞えてきた。おいおい、どうしたんだよ。私、その詩、すっごい好きよ。恵子ちゃん、オフ会しようよ二人で。住み近かったじゃん。なんでこいつが私の本名を知っているのか一瞬不思議に思ったが、薬でべろんべろんになったときにぽろっと言ったのかもしれない。


 私は彼女が泣き止むまで待つことにした。いよいよ薬が効いてきて、ぼーっとする。手首を切りたくてうずうずしてきたけれど、ともかく彼女が泣き止むまでは我慢しようと思った。泣き止むというよりは寝てしまって、私は微笑みながら、そっと通話を切った。久しぶりに笑ったかもしれない。私は用意していたナイフを手首に突き立て、忘我へ、虚無へ、抵抗することを始めた。なんだかんだ言って寂しいんだな、一人が。ははは。


 少し切っては血がにじむのを眺めながら、充足へ、血を受けるバケツを用意し、さらに充足へ、傷跡を眺め、時折舐めて鉄のような味を楽しみながら充足へ、充足へと向かった。気分は恐ろしいほど冴えていた。もうちょっと切りたい気がするけどまあ、今日はこのくらいにして寝るか。いい夢が見たいな。空でも飛びたい。

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