その間にあったことと、その後におきたこと(5)
音もなく扉が開いて、懐かしい部屋の風景が僕の目に映った。
柔らかい毛足の絨毯を敷きつめ、大きめの勉強机と椅子が奥にあり、それとは別に休憩用のテーブルセットが部屋の真ん中に置かれている。
壁際には作り付けのクローゼットと本棚。チェストの上には蓄音機とレコードまで。
それから、天体望遠鏡。
光彦の十六歳の誕生祝いにねだられて、邦充(くにみつ)氏がわざわざ舶来の品を取り寄せて買ってやったものだと聞いた。
光彦少年が学校から帰るとすぐに、僕は毎日のようにこの部屋に呼ばれて、勉強を教えた。
学校の勉強が物足りないという光彦の言葉は本当で、彼の理解度はとうに年齢相応の教科書や参考書の内容を置き去りにしていた。僕は彼が図書館で借りてくる様々な分野の書物を読み解く手ほどきをさせられていた。
英語、ドイツ語、フランス語。それからラテン語を、ほんの少し。
日本史、世界史、人類学、地理、民俗学、政治史、宗教学……
僕の不得手な地学や天文学は、僕も一緒に勉強しながら読み進めた。
借りるだけでは済まず、丸一日、本屋めぐりに付き合わされたこともあった。
「面白いと思ったら、何でも読みたくなる」そう言って、彼は笑った。
大量の書籍に一緒に埋もれながら、学んだこと、考えたこと、思いつくことを話し合うのは、僕らにとっては勉強と言うより娯楽だった。
だが、そのうちに邦充(くにみつ)氏が心配をして、勉強ばかりでは見聞が片寄るからたまには遊びに行けなどと言い出したものだから、学校にばれないよう二人でこっそり寄席や芝居見物に行くはめになった。
「あれはあれで面白いですよ」
帰宅するなり、またいつものように二人で勉強部屋に引きこもると、光彦は僕に言った。
「落語でも講談でも、歌舞伎や、新派の演劇でも、その背景には必ず歴史や思想の積み重ねがあるのが見える。それが、面白い」
そうやってまた、互いに感じたことを語り合って。
時には夜更けまで、とりとめもない論争のための論争になり、それすらも、僕らにとっては楽しみで。
いつしか、僕にとって光彦の勉強部屋は、邦充氏が与えてくれた自室よりもずっと居心地のいい場所になっていた。
いま、その部屋が、僕の目の前にある。
その部屋で、光彦は勉強机に座って本を広げていて。
僕はそのすぐ後ろに立っていて。
あるいは、二人でテーブルを囲んで、紅茶を片手に何かを語り合っていて。
ここは、ゆりかご。
ほんのり温かくて、ほがらかで賢い教え子がいて、いくらでも好きな本が読めて、いつまでも思いの丈を語るだけ語っていられて、外の喧噪など入って来ない。
部屋の入り口で、その二人の光景を、僕は見ている。
だけど。
光彦は、もういない。
この部屋も、今はもうない。
それを、僕は、ここで見ている。
今はもうない場所を。今はもういない人を。
「今はもうない場所を見て、今はもういない人を見ている、そんなあなたは、では一体どこにいるとおっしゃるの?」
燃える赤毛の寡婦が部屋の真ん中に立っていた。
「お前が……」
ずっと忘れていた激情が、僕からあふれた。
「お前が壊したんじゃないか! お前が光彦君をおかしくしたんじゃないか! あんなにほがらかで明るい子だったのに! お前と、あのじいさんがあの子に取り憑いて、生まれた時からあの子の人生を、ずっとずっと狂わせ続けて、とうとうあの子をあんなおぞましい破滅に導いてしまったんじゃないか!」
愛すべき家族の全てを裏切らせて。
血も肉も骨も魂のひとかけらすらも残さず滅ぼされて。
「西王子家がどうなろうと、僕の知ったことじゃない。そんなこと、どうだっていい。それなのにあの子は……」
「ほんとうに?」
三千代が首をかしげて、問いかける。
「あなたが守りたかったのは光彦ではなく、ゆりかごでしょう?」
ーー曰く、妖しい儀式を使って成り上がった……
ーー曰く、当主が夜な夜な娘を攫う……
ーー君だって、西王子家にまつわる噂の数々は知っているだろう。
ーーやめろ、梶尾! やめてくれ!!
あやしい噂が聞こえても、耳をふさいで。目を閉じて。
そうして僕は「外」で生きることを拒絶したのだ。
残酷で情け容赦のない世界で生きる術(すべ)を持たない自分自身を正当化するために。
光彦を利用して手に入れた、このゆりかごに閉じこもって。
「でも、楽しかったでしょう?」
三千代が僕に微笑みかける。
「……だけど、そのためにあの子は……」
「光彦も楽しんでいたし、光彦もあなたを利用した」
ーーわかりました。
初めて光彦と出会った時のことを、僕は思い出す。
ーーお父さん、この人です。僕は、この先生がいい。
片端から借りてくる大量の書物と、他愛ない議論のための議論。
ーーそうやって星を見ていると、まるで手を伸ばせば届きそうな、すぐにでもたどり着けそうな気がしてきませんか?
あの子も、僕を利用していた。
「でも、お陰でこの仔を生むことが出来た」
いつの間にか、三千代が青い光の漏れるおくるみを、大事そうに胸に抱いて立っている。
僕のすぐ目の前で。
おくるみが、はらりとほどける。
小さな、あおい赤子が、そこにいた。
僕の手のひらの、ほんの半分ほどの。
だがその青は、一瞬たりとも同じ色にとどまってはいない。
明るく、あるいは暗く、さまざまに色合いを変えつつも、ただひたすらに青く、胎児のように身を丸めて眠っている。
「随分と、この色が気に入ったみたい」
三千代が眼を細める。
「この星の色だからかしら」
背後で不意に扉の開く音がした。
「ああ。鍵が届いた」三千代は顔を上げる。
振り返ると、扉を開けて入ってくる梶尾がいた。
だが、その扉は光彦の勉強部屋のものではなかった。
水星館の、鉄の門扉。
「ここは、どこだ」
梶尾の声とともに、彼の足元から同心円状に、みるみる空間が塗り替えられてゆく。
そこはもう、光彦と僕の勉強部屋ではなく、月明かりに照らされた水星館の門前だった。
ーーにゃあおおおぅ。
奇妙にひずんだ猫の声が、尾を引いた。
梶尾がぎょっとして自分の胸元を見る。
胸の辺りが突然ごそごそとうごめき始めたかと思うと、一分の隙もなく着込んでいたはずの軍服の襟元をするりと抜け出して、銀色の毛並みが姿を現した。
ーー猫だ。
顔の真ん中にひとつだけの眼と、あやしい銀色に輝く翼を背に持つその猫は、梶尾の胸を蹴って跳躍すると、僕の目の前まできたところで銀色の小さな鍵に姿を変えた。
「星辰の正しき刻」
三千代が鍵を右手にとり、僕の胸に差し入れた。
その鍵が、僕にぴたりと合う。
だが、開かない。
半年もの間、ずっと忘れ去られていた扉は、固く閉ざされて僕の中でぎしぎしときしんだ。
「やめろ」
痛い。
「やめてくれ」
いたい。
「開け」
鍵を差し入れたまま三千代が命ずる。
「開け!」
ーーごそり、と音がして、僕の中の『夢の回廊』が開いた。
紅蓮の炎が三千代の全身を包んで燃え上がった。
赤い髪が、黒い瞳が、黒いドレスが帽子がヴェールが、火柱に包まれる。
燃える腕ごと差し込まれた僕の中の『回廊』の扉が、業火に灼かれて少しずつ開き始めた。
熱い。
熱い。
だが、もう声も上げられない。
梶尾が何か言っているようだが、聞こえない。
やがてその姿すら、見えなくなった。
僕と、三千代だけになる。
いや、もう一人。
「お行き」
三千代が左手を開く。
その燃える手の中から。
ーーこの世のすべての青。
あおいあおい小さな赤子が、青ざめた眼を開いた。
「さあ……」
かすれた声を遺し、『黒山羊』が燃え尽きてゆく。
あれほど激しく燃え盛っていた紅蓮の炎が、消えてゆく。
赤い髪も白い肌も、真っ黒い炭に変わってぼろぼろと崩れ落ちる。
青い仔は、地に落ちるよりも前に自分の足で立ち上がった。
やがて、手のひらに乗るほどに小さかった身体が成長して幼児ほどの大きさになったかと思うと、見る間に僕と同じくらいの背丈にまでなった。
ふと見ると、僕の胸の心臓の辺りに、まるく大きくくり抜かれた暗い穴がぽっかりと開いている。
その深淵に通じる『回廊』へと、青い仔は手を差し入れ、頭をもぐり込ませ、からだごと青い奔流となって雪崩れ込み始めた。
内側から僕の全てを青色に塗りつぶしながら、その青が、見る間にさまざまな色合いの青に変わって、いや、いついかなる時にもあらゆる色どりの青を同時に重ね合わせ持ち合わせたままに青い蒼い碧い藍い葵あおいあおいうみそら紺色水色紺碧瑠璃色 薄藍(うすあい)群青色(ぐんじょういろ)白群色(びゃくぐんいろ)新橋色(しんばしいろ)紺青色(こんじょういろ)に染め上げられ。
狂った青が咲き乱れている花畑の、つゆくさりんどうすみれききょうわすれなぐさいぬふぐりあやめかきつばたあじさいの色はどれひとつとして同じものはなくすべて同じ青に染まり。
宝石箱からこぼれ落ちるトルコ石アクアマリンサファイアソーダライトひすいアフガン石ラピスラズリの青色がざらざらざらざら一面に散らばって。
なめらかな秘色(ひそく)の高麗青磁を次々と惜しげもなく叩き割って敷き詰められた欠片の色のひとつひとつみな違う青で。
極寒の北極海にそびえる氷山の断面に凍える冴えたアイスブルーと晴れ渡る空の青と。
南洋のあざやかな珊瑚礁にルリスズメダイの青い群れと水中から見上げる透き通る波間の淡い青色に包まれたまま。
青海波の文様は、どこまでもどこまでも青く繰り返されてなみなみと滔々とすみずみまで果てなく満ちあふれあふれて。
カンバスに次々ぶちまける青い絵の具のインディゴとシアンとコバルトブルーとプルシアンブルーとセルリアンブルーとが、混ぜ合わさって、かき乱されて何もかもすべてがマリンブルーのスカイブルーからウルトラマリンとミッドナイトブルーの果ての果てまでも青く蒼く碧くあおくーー
あおい。
あおい。
咽喉(のど)からほとばしる僕の悲鳴までもがあおい。
流れる汗も涙も吐息もあおい。
固く閉ざした目蓋の裏もあおい。
あふれる青が間歇的に口から吐き出される。
僕の皮膚がいたるところでひび割れて、青色がにじみ出るのがはっきりとわかった。
青い爪が伸びて、僕の青い髪の毛をかきむしる。
僕の全身の血管を青い血潮が駆け巡り、心臓へと遡(さかのぼ)り、脳髄液をも青く満たしてゆく。
睫毛の先に付いた涙のまるい青い粒もはっきり見えた。
剣道着の青。洗う手も青く染まる。
つめたい川の水から上がった友人の唇は真っ青で。
薬さじからこぼれ落ちる硫酸銅のかけらも青い。
ごつごつした藍銅鉱の結晶が、まるっこいローザサイトが、僕の中でがらがら転がっている。
藍染めの瓶(かめ)から出入りするたびに、瓶覗(かめのぞき)の青から水浅葱(みずあさぎ)の青から薄縹(うすはなだ)へ、花浅葱(はなあさぎ)へ、縹(はなだ)へ、納戸、藍錆(あいさび)、紺藍(こんあい)、鉄色、褐色(かちいろ)、紫紺から褐返(かちがえ)し、濃紺へと昇りつめてゆく。
青い瞳の男が見ている。青い瞳の女が見つめる。誰の瞳だ。誰を見ている。いくつものいくつもの青い瞳が僕を見ている誰が誰を誰だれ誰が僕を見ている僕が見ているーー
この世のすべての青。
あおみどりから、みどりあおまでも。
青紫の、境界まで。
あおいそらのしたを、かわせみがとぶ。
はやくいってくれ。
こわれてしまう。
あおのあおさが、とてもあおくて、あおくて、あおい。
青い空の下、青い芥子の花が、一輪だけ咲いて、散った。
* * *
僕の手首の静脈の青が、目の前にあった。
毛細血管の密集する組織が鋭利な刃物で円筒状にくり抜かれたかのように、細かな血管のすべての断面から、絶え間なくだらだらと血がにじみ出し続けていっこうに止まる気配がないように。
僕の心から流れ出た血だまりに頬を濡らしたまま、いつまでもいつまでも僕は倒れたままだった。
ようよう動く手を動かして胸元をまさぐってみたけれど、もちろん、そんな大穴が空いているはずもなく。
それなのに。
このすさまじい喪失感はどうだ。
ーー僕は生きているのか。
ーー僕は死んでしまっているのではないか。
いや。
喪失感が、あるということは……
ああ。そうなのか。
僕はーー
空の青にも。
海の青にもーー
こぼれた涙は、もう青くはなかった。
* * *
あの晩、光彦が君に鍵を放(ほう)っただろう。あれが、猫の正体だ。
君が拾って、錠前を開けて、それから鍵をどこへやったかなど、君は覚えてやしないだろうけど。
光彦が君に託し、君がそれを受け取った。
それで充分だったんだ。
あれは、僕の中の『夢の回廊』を開く鍵。
鍵を託せる相手は、『黒山羊』の報復を逃れ得る者は、僕の他にはもうあの屋敷には君しかいなかったんだ。
鍵も、『回廊』も、光彦が作った。
……いや、『回廊』は、もともと僕の中にあったものらしいけれど。
ほんの少しだけ、心の欠片を、この不自由な地上から浮かび上がらせる、ささやかな夢。
初めて会った時に、光彦は、一目でそれを見抜いたらしい。
そうして、彼は自分の目指す深淵を越えた彼方の星に手を届かせるべく、ちっぽけだった僕の『回廊』を押し広げ、踏み固めていった。
はるか遠く、遠く、遠くへ。
その『回廊』を使って、彼がいったい何をしようとしていたのかまでは、僕には、わからない。
三千代がーー『千匹の仔を孕む森の黒山羊』がもといたという、水星の彼方の星の力を手にしたかったのか。
『黒山羊』の生んだ仔になって、その力を得て、深淵を越えて行ってみたかったのか……。
なにも、わからない。
それから、鍵をかけた。
『星辰の正しき刻』が来るよりも前に、『夢の回廊』が不意に開いてしまうことのないように。
彼はずっと自分で持っていたけれど、最期に、君に託した。
三千代はそれに気づいた。
あの広告を出したのは、君がそれを見れば必ず僕に接触すると踏んだからだ。
君に鍵を運ばせ、僕を水星館に呼び寄せるため。
『夢の回廊』を開き、自分の生んだ仔を、ふるさとの深淵の彼方の星に還すために。
八人目の人柱は、三千代だったんだ。
* * *
病室を訪ねてきた梶尾に、僕はそんなことをとりとめなく語った。
彼も僕と同じ病衣を来ていたから、同じように入院させられていたのだろう。
『鍵』の配達をさせられただけの梶尾ですら、その影響は小さくはなかったということだろうか。
いくらか痩せて、顔色も良くなかった。
梶尾はただ黙って聞いていた。
そして黙って病室を出て行った。
去り際に一度だけ、僕の肩に手をふれていった。
翌日、退院してそのまま軍務に復帰したと聞いた。
下宿に帰った僕も、少しずつ、塾講師の仕事に復帰していった。
塾生を相手に講義をして、模擬試験や補講、その準備をして、やがて、だんだんと他の講師たちとの打ち合わせだの、会議だのにも、かり出されるようになった。
だが、そうやって、まるで世間並みの大人のふりで仕事をしている最中も、ほんの少し意識を向ければ、僕の内側にいまでも『それ』は確かにあった。
ーー夢の回廊。
あの女は、それをそう呼んでいた。
僕の心に、ぽかりと空いた、巨大で、深く、昏い空洞。
ふと気づくとそれが、僕の中でざわざわと揺らぎ、ふるえている。
ビロードのなめらかな毛並みを誰かがわざと逆さに撫でているかのように、胸が騒がされて苦しくなる。
かろうじて、それを脇へ押しやり、目の前にある仕事に頭を振り向ける。
内なる激しい揺らぎを、音もないため息で押し殺して、心を現実に落とす。
こんな僕でも、僕なりに、こなした仕事は少しずつ、ちっぽけな自信の積み重ねになった。
塾講師の端くれなりに、生徒に助言や忠告などまでするようになった。
講師仲間相手に、くだらない世間話や愛想まで言うようになった。
それでも、昏く深い空洞は、いつだって僕の中にあった。
ときどき、僕はその大きな空洞の中で、ひたすら高くて暗い天井を呆然と眺めていた。
あるいは空洞の中で、さざなみのように揺れる波に全身をゆだねて、漂っていた。
波は時に怒濤となって、僕を飲み込み、溺れさせた。
いくつのもまぼろしが浮かんでは、僕に囁き、あるいは消えていった。
時折、しみ入るように胸が痛んで、血が流れた。
それでもーー
こんなものを、こんな大きな空洞を抱えて、それでも、生きている。
やがて僕は、そんな僕自身のために、小説を書き始めた。
(続く)
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