その間にあったことと、その後におきたこと(4)
けたたましい音を立てて扉が開いた。
塔の隠し部屋の寝台のそばに光彦はいた。
次兄の継彦の姿はなく、代わりに横たわっているのは三千代だった。
寝台のすぐ傍らに膝を付き、両手で寝台の上に頬杖をついて、じっとその顔を見る。
三千代は目を閉じたまま、小さく口を開けて、深く長い呼吸を繰り返している。
額にはうっすらと汗をかいてるように見える。
だが、そんな生理現象にいったい何の意味があるのだろう。
彼女は通常の、この星の生命などではないというのに。
大きく隆起した腹部は黒いドレスに包まれていたが、周期的に明滅する青い光がほのかに漏れていて、その明るさが次第に増してきている。
外は満開の桜を枝ごと叩き折るほどの嵐だが、窓ひとつないこの部屋には風の音ひとつ聞こえてはこない。
だが、その嵐も予兆であると、彼は知っていた。
「もうすぐ、生まれるんですね」
光彦の問いに、三千代は無言でうなずいた。
「返せ」
部屋の隅で大理石の柱に縛りつけられたままの男が、言った。
「この屋敷も、西王子家の家督も、この家が持つ権力も、財力も、名声も、それからお前の操る秘術の知識も、すべては西王子家先代・礼彦(あきひこ)翁から俺が受け継ぐべきだったものだ。全部、返せ」
西王子和彦。西王子家の長男であり兄である彼を、そうやって縛り上げたのは光彦自身だった。
「知っています。おじいさんから聞きました」
光彦は兄を振り返る。
「おじいさんは、生まれたばかりのあなたを隠して死産だったとお母さんを騙し、西王子家のすべてを受け継がせるのにふさわしい人間にするため、密かにあなたを自分の手元で育てた。お父さんが生まれたときは、それができずに失敗しましたからね。だから今度こそ、西王子家の長男であるあなたが正しい継承者として秘術を理解し、西王子家のために使いこなせるように、自ら徹底した教育をほどこした」
「そうだ。だから……」
「だから、なに?」
光彦は寝台の側から立ち上がり、兄の前に歩み出た。
「それで、あなたはおじいさんから何を受け継いだんですか?」
「俺は、西王子家次期後継者として『教団』の……」
「確かに、おじいさんはあなたを『光輝水星教』の教主の座に据えた。それから?」
「礼彦翁さえ生きていれば、今ごろは俺が」
「おじいさんがあなたを誘拐してから死ぬまで十年もあったんですよ? あなたが西王子の後継者にふさわしければ、とうの昔にあなたは全てを受け継いでいたはずです。……だって僕は、僕が生まれて来たその日に受け継いだんですから」
「何?」
「あなたも知っての通り、僕らのお父さんは表向きこそ西王子家の当主ということにはなっているけれども、実際はおじいさんから何も受け継いではいない。器ではないと見限られていたから。おじいさんは『継承』を行わず、真の家督を手にしたまま、あなたを後継者とすべく密かに連れ去り、『教団』をあなたに与えて、死んだ」
床に尻をついたまま縛られている和彦を光彦は見下ろした。
「それからすぐに僕のところへ来て、僕に全てを与えてくれた。……わかりますか? あなたはとっくの昔におじいさんに見限られていたんですよ?」
「なんだと……」
「『光輝水星教』はおじいさんに秘術とその知識を与えてくれたけれど、それ以上の役割はもうなかった。むしろ、西王子家の裏に禁じられた秘密教団があると知られることも避けたかった。適当なところで切り捨てたいが、ただ切り捨てるだけでは『教団』が何をしでかすか分からない。一方で、あなたのことも、おじいさんは早々に器ではないと見抜いて、それでも多少はものになるかと十年待ったけれど無駄だった。そんなあなたに、『教団』は丁度いい捨扶持で、『教団』に投げ与えるのにも、あなたは丁度いいお飾りだった」
不祥の兄の前に、光彦はしゃがみ込んだ。
「王様ごっこは、楽しかったですか?」
鈍い音を立てて光彦が床に倒れ込んだ。
和彦が、弟の脇腹を蹴り飛ばしていた。
「そんなに西王子の家督が欲しいんですか」侮辱を叩き付けられ睨み殺しかねない形相の兄にも、光彦の声は平静だった。
「『華麗なる一族』などと言われているのも表向きだけですよ? 西王子の名を出せばいくらでも横車は押せるけど、それは敬意や尊崇の念からじゃない。あやしげな力で成り上がっただの、名声と引き換えに多くの生け贄を捧げているだのと、噂話はいくらでも耳に入ってくるのに、それを否定することも肯定することもできはしない。西王子の名を聞くだけで、群衆の空気が変わる。誰もそれを隠そうともしない。僕がそうなのだから、死んだはずのあなたが今ごろ出てきて、実は先代がひそかに誘拐して育てていたなどと、そんな話を誰がまともに受け取ってくれると思うんですか? 世間はそんなに甘くはないですよ」
「貴様も同じだろうが! 西王子家の権威と財力欲しさに礼彦翁の亡霊にすり寄り、全ての知識を吸い取って、今こうして真の家督を『継承』するため『黒山羊』の仔を生ませようと……」
「違いますよ」
光彦は起き上がり、もう一度兄の顔を覗き込んだ。
「さっき言ったじゃないですか。僕は生まれた時に、おじいさんから全てを受け継いでいるんです。西王子家の当主は僕だ。『継承』も何もいらない。……なんだったら、西王子家の全てはもうあなたに譲ってもいい」
「……なにを言っている」
「いらないんです」
兄を置き去りにして、光彦はふたたび寝台の前に戻ってひざまづいた。
「この世の名声とか、権力とか財力とか、そんなもののためにこの仔は生まれてくるんじゃない。逆なんです」
「ならば、お前の目的はいったい何だ!」
優美な曲線をえがく三千代の腹部から漏れる青い光がさらに明るくなっていくのを、光彦は憧れに満ちた眼差しで見つめた。
「僕はこの仔になりたい。水星の先のはるか向こう、深淵の彼方の星からやってくる、この仔の目から見たこの星はどんなふうなのか。この仔は何を知っているのか、この仔がもといた深淵は、どんな世界なのか。僕は知りたい。見てみたい。行けるものならば行ってみたい。深淵の彼方の星の仔に、どんな力があるのか自分で感じたい。なってみたい。……それが出来るかどうかはわからない。だけど、そのためなら、僕は僕が持っている西王子家すべての財力も権力も名声も、僕の命も魂も、何もかも引き換えにして構わない」
「光彦……」弟の告白に、和彦は凍り付く。
「もしかしたら、ぜんぜん足りないかも知れないけれど」
光彦は笑っていた。
「僕のこの手が深淵に届くのならーー」
ーー光彦!
叫んだのは、だが、兄でも弟でもなかった。
ーー許さん! 許さん! 許さんぞ! 馬鹿者めが!
床に残っていた赤黒いしみが、ぞろり、と立ち上がった。
ーー馬鹿な! そうか、お前、光彦をたぶらかしたのだな! 儂が全てをかけて守って来た西王子家を『黒山羊』の仔の餌になどさせるものか!
黒いしみは見る間に天井高く伸び上がり、寝台に横たわる三千代の腹めがけて襲いかかった。
「違う! やめろ!」
光彦の叫びが交錯する。
ーー我が仔に触れるな。
部屋中を揺さぶる三千代の声と同時に、紅蓮の業火が彼女の全身から激しくほとばしった。
ーー契約は破られた。産屋の安寧は汚された。
礼彦(あきひこ)だった『もの』は、それに触れるや、硫黄じみた腐臭を発して焼き尽くされ、消滅した。
衝撃で吹き飛ばされた光彦の右腕までもが半分消し飛んだ。
燃え上がる火柱の中で三千代のドレスは焼け落ち、代わりにあらわれた、もの。
黒々とした、悪臭を放つガス状の塊がみるみるうちに醜くふくれあがり、その下に毛むくじゃらの太い黒山羊のひづめ持つ足が次々に、何十本も、生えそろってゆく。
寝台を押しつぶし、見上げるほどの巨体で部屋を埋め尽くしてゆく。
「いあ、シュブ=ニグラス! シュブ=ニグラス!」
わめき続ける和彦の目には、もう理性の光はなかった。
うるさそうに『黒山羊』がひとつ身じろぎしたかと思うと、まるでコンパスでまるく切り取ったかのように、和彦は縛られていた大理石の柱と回りの空間ごと、なくなった。
ゆっくりと、『黒山羊』が振り返る。
がらがらと音立てて部屋が崩れ始めた。
兄と祖父の『消失』も、塔の崩壊も、腕の痛みすらも置き去りにして、光彦は部屋を飛び出し脱兎のごとく階段を駆け下りていた。
* * *
屋敷全体を揺さぶる大きな振動が伝わった。
梶尾が立ち上がり、天井の方を見上げる。
夜半過ぎから西王子家屋敷は激しい嵐に包まれていたが、その風雨や海鳴りの音とは明らかに違う。
まるで巨大な手が屋敷全体をつかんで揺すっているかのようだ。
ランプの明かりが揺れ、ぱらぱらと天井からしっくいか何かの欠片が落ちてくる。
「これは……」僕の声が震える。
心臓が不安で飛び出しそうになる。
家具や調度類だけは豪華に整えられていたが、僕たちの閉じ込められていたのは紛れもない牢獄だった。
部屋を入ってすぐのところに鉄格子をもうけ、古ぼけた、しかし頑丈そうな錠前でしっかりと鍵がかけてある。
梶尾がその鉄格子を両手で掴んだ。
彼の焦燥が、僕にまで伝わってくるようだ。
だんだんと強く、近づいてくる、幾度目かの振動のあと。
「先生! 梶尾さん!」
鉄格子の向こうの、部屋のドアが突然開いた。
「早く逃げて!」光彦が、牢の中へ向けて何かを放(ほう)った。
ランプの光にきらめいて、梶尾の足元に音立てて転がったのは、古い錠前には不釣り合いなほどに輝く銀色の鍵だった。
素早く梶尾が拾い上げ、鉄格子の隙間から手を差し入れて錠前を外した。
「急いで! 屋敷を出たら、高台まで走って!」
ドアが閉まらないよう左手で支えたまま光彦が叫ぶ。
「閉じ込めたり助け出したり、忙しいことだな」部屋を出て、僕と一緒に廊下を走りながら梶尾が皮肉る。
「そんなこと言ってる場合じゃ……光彦くん、いったい何が……」
「……『黒山羊』が、怒っている」
「『黒山羊』って……? うわっ!」
玄関ホールへの階段を駆け下りながら、あと数段、というところで、ひときわ激しい揺れが僕らを襲った。
足下を取られた光彦が階段下まで転がり落ちる。
「だ、大丈夫!?」
慌てて駆け下り、助け起こそうと手を伸ばして、気づいた。
光彦の右腕の、肘から先が、ない。
「み……」
「止血する」駆け寄った梶尾がポケットからハンカチを取り出す。
「必要ない」
「何を言っている」
「いいから早く逃げて!」
残っている左腕で、梶尾を突き飛ばした。
「光彦くん!」
「おじいさんが、『黒山羊』を怒らせたんです」
「おじいさんって……? 君のおじいさんは何年も前に死んだはず……」
あはは、と光彦は、僕を見上げて笑った。
「なんだ、先生なら気づくんじゃないかと思ったのにな。おじいさんはね、いたんですよ。ずっと僕と一緒にね。僕が生まれたその日から、ずっと」
光彦は笑いながら、そう言った。
「でもね、今はもういない。失敗したんです。僕も、おじいさんも」光彦はふらりと立ち上がり、天井を仰いだ。
ばたばたと床に血溜まりが落ちる。
「そのせいで、『黒山羊』を怒らせてしまった。だから僕も、罰を受けなきゃいけないんだ」
西王子家屋敷の、塔へ通じる階段から。
何もかもをその巨体で突き崩し、押し潰し、喰らい尽くしながら、『それ』があらわれた。
ーーあれが……『黒山羊』……?
二階から玄関ホールへ通じる階段の前に光彦は歩み寄り、『それ』を見上げた。
せまい通路から出てこられたのを喜ぶかのように、ガス状の胴体をいっそう膨れあがらせ、何十本ものひづめ持つ脚で玄関ホールへの階段を下りるというより潰し崩しながら迫りくる『それ』を。
左腕と、半分残った右腕とを軽く広げて、抱きとめるかのようにーー
「シュブ=ニグラス! シュブ=ニグラス! 千匹の仔を孕む森の黒山羊!」
きれいな球形に、空間が切り取られる。
光彦の左手の指先2、3本が、虚空に残って。
それすらも、次の刹那には消え失せた。
悲鳴にすらならない声を上げ続ける僕を無理矢理に引き連れて、梶尾は屋敷の扉を開けて横殴りの激しい雷雨の中へと走り出た。
* * *
光彦に言われた通りに高台まで逃げ延びた後も、落雷は幾度となく続いた。
土砂降りの雨の中、僕らは声を出すことも出来ず、ただ眼下の西王子家屋敷の異様なありさまを見ていた。
巨大ななにかが、屋敷を喰らっていた。
見えざる手で、えぐり取られるように、建物のそこかしこがこそぎ落とされ、消えてゆく。
そのくせ、屋敷で一番高かった塔だけは、石造りの壁の一方向ぶんだけを残して立っていた。
いや、あれを「立っている」などと言っていいのか。
塔の壁のうち一方向だけが、最上階から1階まで。
それが途中で二度、三度と折れ曲がり、ありえない角度のまま倒れもせず、崩れもせずに……。
狂っている。
狂っている。
芯までしびれた頭で、それだけが、わかっていた。
不意に、ごずん、と轟音が響いた。
同時に、大きなひづめに踏みつけられたかのように、屋敷全体の敷地がまるく陥没した。
それでも塔の壁だけは、がくがくに折れ曲がったまま立っている。
その石壁が雷光を受けてあやしい緑色に輝いた。
みどりいろの稲妻が、海に落ちた。
あかるい緑に染まった海面が、鎌首をもたげるようにゆるゆると盛り上がって。
防波堤を越えた高潮が西王子家の敷地の方へとなだれ込んでゆく。
巨大な獣のように荒れ狂う高波に翻弄され、とうとう、曲がったまま立っていた塔の壁が崩れ落ちた。
敷地の地盤全体がなおも沈み込み、屋敷の建物全てが崩れ去ってゆく。
塔も、屋敷も、なにもかもが、水底に沈んでいった。
ずぶ濡れのまま僕たちは、朝までそれを見ていた。
ーーまったく、馬鹿はどっちだ。
最後にそう言ったのが誰だったのか。
誰も、知らない。
(続く)
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