その間にあったことと、その後におきたこと(3)

きい、とかすかに音がして、屋敷の門扉が開いた。


「まったく、お恥ずかしい限りで……」

 僕の前を、西王子家当主・邦充(くにみつ)氏が歩いている。

「決して、悪い子ではないのです。普段はとても優しい子で。なのにどういうわけか、家庭教師のこととなると……」

 広大な西王子家屋敷の中の、そのまた広い玄関ホールで、僕を出迎えてくれたのが西王子邦充氏だった。

 二階まで吹き抜けのホールで、玄関から二階へ上がる階段へ向かうまでの間も、少々の距離があり、毛足の長い絨毯の敷かれた上を僕は案内されていた。

「そもそも、学校の勉強では物足りないから家庭教師が欲しいと言い出したのはあの子自身だというのに、いざ来てもらうと、やれ話がつまらないだの、あれでは到底レヴェルが足りないだのと、難癖ばかりつけて……。もう5人も追い返してしまったのです」

 初対面の僕にこぼす西王子氏は、帝都有数の名家の頭領をつとめるには、幾分気の弱いところがあるのかもしれない。

「……それでは、僕ごときではまるでお役に立てないのでは……」邦充氏どころか一般男性の水準をはるかに下回って気弱な僕が反射的に逃げ腰になるのを目の当たりにして、氏は深いため息をついた。


「その人が僕の新しい家庭教師ですか」 

 少年の声が、二階から降って来た。

 僕と西王子氏が頭上を振り仰ぐ。

 階段の一番上、手すりに軽く手を添えて、詰襟の制服を身につけた少年が立っている。

 鼻筋の通った細面に、やや大きめの黒い瞳がこちらを見下ろしている。

「光彦」

 だがその目は、父親を見てはいない。

 すぐ後ろの僕と目が合う。

「え……」

 何かを見透かすかのように、僕の瞳にじっと見入ってくる。

「わかりました」

 まだ十六歳の、少年の瞳が。

 いったい、何を見つけたというのか。

 ふっ、と優しく微笑んで、軽やかな足取りで階段を駆け下りて来ると、西王子光彦は父に告げた。

「お父さん、この人です。僕は、この先生がいい」

「本当か? だってお前、こちらの神原さんとは今お会いしたばかり……」

「僕がいいと言っているんですからいいでしょ? それに、お父さんのお眼鏡にも叶った人なんでしょう?」

「それはそうだが……」

「では先生、早速、僕の部屋で講義をお願いします。お父さんは、先生の部屋の手配を」

「え……ええっ?」

 有無を言わさず、光彦少年は僕の手を引いて階段を上がっていく。

「おい、光彦……」

 予想外の息子の反応に、邦充氏は父親としての権威を示すどころか完全に光彦に飲まれてしまっている。

 もともと、そういう親子関係が成立しているのかもしれなかった。

 それも、そのはず。

 西王子家の三男にして家督継承者である光彦は、彼自身が生まれる直前に死去した実の祖父である先代・西王子 礼彦(あきひこ)の記憶と妄執と、忌避すべき禁断の秘術全てを受け継いで生まれた『落とし子』だったのだから。


     *     *     *


 不愉快にきしむ音を立てて、どこかの扉が開いた。


 亡き祖父・礼彦(あきひこ)が密かに作らせた、塔の最上階の隠し部屋で、光彦はすぐ上の兄・継彦(つぐひこ)を見下ろして立っていた。

 汚れ切ったぼろきれで頭を隠すように包まれて、そのくせ服だけは上質のブラウスとズボンを身に着けさせられ、継彦は声も出せず、不必要に大きな寝台の上に寝かされていた。

 声を出せないのは、もう口がないから。

 ぼろきれの下で何かが間断なく蠢いている。

「やっぱり無理ですよ、おじいさん。これ以上、どういじくったところで、兄は『憑り代(よりしろ)』にはなりようもない」

ーーいや、まだ何か手があるはずだ……そうだ、『報告書』! あの中にはまだ試しておらん術が……

「まだわからないんですか? 僕たちが呼び寄せようとしている『もの』は、虫けらみたいな地上の人間に宿らせることなど到底不可能な代物なのですよ?」

 あなたと、そして僕を含めてね、という言葉を辛うじて飲みこむ。

ーーでは西王子家はどうなる?! 儂が瓦解の淵から救い上げ、秘術の限りを尽くして栄華を手にしたこの家は?!  『星辰の正しき刻』までにお前に『継承』を行わねばならんというのに……。儂の息子……お前の父も母も、このままでは何も知らぬままおぞましき破滅を迎える……それに、お前は実の兄を生け贄にしておきながら無駄だと切り捨てるのか!

「そうやって、過去や血縁に縛られているから深淵に手が届かないのですよ」

 白くて長い指先を、光彦は自分の胸元に突き入れた。

ーー光彦? ……何を……

「古すぎるんです」

 息を止めて、苦痛を遮断する。魂と肉の奥深くにもぐり込んでいたそれを探り当てる。生まれた時からずっと、彼の中に巣食っていた、黴(かび)臭く古い虫が無慈悲な手から逃れようとますます深くもぐるのを容赦なく引きずり出す。

ーーやめろ。お前は

「あなたはもういらない」

 肘まで真っ赤に濡れた手で、床に叩き付け、踏みにじった。

 嗄れた断末魔が心地よかった。

 肩で大きく息をして、壁に寄りかかる。さてこれからどうしよう? 祖父の持っていた知識はすべてこの頭に入っているからいいとして、『報告書』も『憑り代』も使い物にならない。

「そんなことを言って、まさか何も考えていなかったわけではないでしょう?」

 影から女の声がした。

「そうだね」

 声の方を、振り返る。

「やはり、あなたにその仔を産んでもらわないといけないね。『千匹の仔を孕む森の黒山羊』さん」

「三千代とお呼びになって。せっかくあなたが名付けて下さったのだから」

 燃えるような赤毛の女が、大きくふくらんだ腹をいとおしげに撫でながら、微笑った。



     *     *     *



 すっかり陽が落ちた昏い煉瓦塀の前に、りんと梶尾はいた。

 古びた煉瓦塀は、梶尾の持つ懐中電灯の明かりを受けている。

 煌々たる月明かりも周囲を照らし出すにはまるで足りていない。

 梶尾の前には、閉ざされた鉄柵の門扉と門柱に掲げられた水星館の銘板があった。

 りんの前には、あいかわらずどこまでも続く煉瓦塀が、懐中電灯の明かりに丸く切り取られているのが見えるだけだった。


ーー見えていないのか。


ーー見えてはるんや。


 門扉の下に落ちている新聞を梶尾は拾い上げる。

 りんから渡された切れ端と、ぴたりと合う。

 だが、りんには、自分がどうやっても引っぱり出せなかった新聞を、梶尾がまるで干し草の山から引き抜くかのように簡単に、煉瓦塀の下から抜き取ったようにしか見えなかった。

 新聞を抜かれた後も、煉瓦塀には欠けも穴もなにもない。

 目の前に確固として、塀が立っている。

 なのに、梶尾と、おそらく神原にとっては、そうではないらしい。

「いや、こんなん、おかしいでしょ?!」

 困惑と抗議が思わず口からこぼれ出た。

「そうだ。確かにおかしなことが起きている」

 梶尾はりんを振り返った。

「おかしなことが起きているということは、ここでは我々にはわからないことが起きていることが、わかった、ということだ」

「え……」

「そして、それが『おかしなことだ』とわかる人間がいてくれたのは、幸運だった」

 もう一度、懐中電灯で門扉を照らす。

 銘板があるからには、この先に水星館があるのだろうが、懐中電灯の光は届かないようだ。

 

 どんなに頭をひねっても解けそうになかった幾何の問題が、補助線を一本引いただけで解けてしまうように。

 その補助線が、たまたま自分に与えられただけなのではないか。

 だが、何故?


 梶尾はりんに懐中電灯を手渡した。

「『上』に報告に行って、そのまま帰宅しろ」

 一瞬だけ、りんは、それを持って自分も行くと言いたかった。

「……はい」

 だが、そのまま懐中電灯を受け取った。

 梶尾は水星館の門扉を開けて中へ入った。

 りんの前で、梶尾の背中が消えた。

 後には、ただひたすらどこまでもどこまでも続く煉瓦塀と。

 彼女の手の中に、梶尾の懐中電灯だけが残った。

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