その間にあったことと、その後におきたこと(2)

 暗闇の中にひとつ、小さな赤い火がともった。

 ゆれ動きながら赤々と燃えているのが、まるで踊っているかのようだ。

 そう、踊っている。

 赤い火炎を吹き上げて、燃え上がりながら踊っているのは、人間だった。

 やがて、燃え尽きて、くずおれる。

 またすぐに、別の火柱が上がり、燃え盛る炎に包まれた人間が両腕をあげて奇妙な仕草で踊りながら、焼き尽され、消えてゆく。

 二人、三人、四人。

 まだ続く。

 五人、六人、七人。

 次々に火柱が上がり、そして消える。


『このごろ帝都にはやるもの

 もえるひばしら ひとばしら

 黙(もだ)せる寡婦のあかいかみ

 あおい赤子を抱いてたつ

 月夜に銀のつばさ猫

 みどりのいかづち うみを割く

 ほしは すいせい』


 やがて八人めも同じように劫火の中で踊り狂いながら焼き尽され崩れ落ちるが、その紅蓮の炎だけは勢いを減じることなく高く、高く、夜空を焦がすほどに燃えあがり、彼等の目指す恐るべき無限の果ての星へと手を届かせようとしていた。



「……さん、ちょっと、神原さん!」

 呼ばれているのに、まるで気づかなかった。

「神原さんってば!!」

 後ろから襟首を思いっきり引っ張られた。

「うわっ!!」

「どこ行かはるんですか!」

 僕の襟をひっ掴んで引き止めたのは、おりんさんだった。

 僕もそれほど背が高い方ではないが、それよりもっと小柄なおりんさんが、背伸びしながら後ろから僕の襟首を掴んだものだからたまらない。のけぞりながら僕は後ろ向きに倒れ込みそうになって、それから激しく咳き込んだ。

「ああっ、すんません! 大丈夫ですか!」

「ちょっ……と……。なん……で」

 からえづきが止まらなくて、まともにしゃべることもできない。

「なんでって、神原さんこそ、なんでこんなとこふらふら歩いてはるんですか! 部屋から出たらあかんって、梶尾さんに言われとったんでしょう!?」

「え……」

 僕は周囲を見回した。

「ここは……?」

 見覚えのない、通りだった。

 煉瓦づくりの古びた塀が両側に続いていて、真っ直ぐな道がひたすら伸びている。

 塀の向こうに、常緑樹が並んで植えられていて、そのずっと奥に建物があるようだが、よく見えない。

 いつもの薬箱を背負って帽子をかぶったおりんさんと、僕がいて。

 他には、誰もいない。

「梶尾さんから、神原さんがおらんなったって聞かされて、探しとったとこやったんですよう。そんで、やっと見つけたのに、なんぼ呼んでも、どんどん先へ歩いていってしまわはるんで、今度こそ捕まえたる!思ったら、こんな……ほんま、どこ行かはるつもりやったんですか!」

「いや……違う……」

 いつの間に、僕は下宿を出た?

 梶尾がやってきて、新聞を見せられて、それから。

 そう。新聞。

 まだ右手に持っていた。これを握りしめたまま、僕は。

「……僕はずっと、部屋で寝ていたはずだったのに……」

 おりんさんが目を見開く。

「……覚えてないんですか? ここまで来たあいだのこと、全部……」

「うん……」

「私が見とっただけでも、結構な距離を一人で歩いてはったんですよ……?」

 呆然と、僕は立ち尽くす。

 梶尾が部屋を出て行って、僕が眠りについてから、どれくらいの時間が経っているのか。

 寝付いたのが昼にもなっていなかったはずで、それなのにもう僕らの影法師は地面に長く伸びつつある。

「……とにかく帰りましょう」

 気を取り直したおりんさんの言葉に僕がうなずきかけたその時。

 日が傾きかけた路上に、どこかの建物の影が落ちてきた。

「あれは……!」

「あっ! ちょっと!」

 急に駆け出した僕を、おりんさんが追いかける。

 振り返らず、走る。

 ずっと寝ついていた僕の、一体どこにそんな力が残っていたのかと不思議に思えるほどに、必死に走って、内なる何かに突き動かされて。

 誰かの、何かの声に、呼ばれるままに、ひたすら走って。

「ここだ」

 たどり着いたのは。

「ああ、おった……。よかったぁ。……神原、さん……?」

 息を切らして追いついたおりんさんと、僕の前で、煉瓦の塀が急に途切れていた。

 鉄柵の門扉は閉ざされていたが、向こうに白い石造りの、高い塔をそなえた洋館が見えて、それから。


『水星館』


 緑青のふいた銘板が、門柱に掲げられていた。


「駄目です。帰りましょう」おりんさんが僕の着物の袖を掴んだ。

「帰る……?」

 帰るって、どこへ?

「日が暮れるまでに絶対に見つけて、連れて帰れって、言われとるんです。今月に入ってから、もう七人も……これ以上、犠牲者を出すわけにはいかんって、梶尾さんが」

「今月って、どういうこと? ……犠牲者って……?」

「う」おりんさんが唇を噛む。

 西王子家の事件は半年も前だ。

 まさか。

「七人も、どうしたって?」

「……それは」

 いや、知っている。

「……燃えたんです」僕から目をそらし、おりんさんが言った。

「夕暮れに町ん中を歩いとって、急に、服に火がついて、あっという間に焼け死んだんです……」



ーーこのごろ帝都にはやるもの

ーーもえるひばしら ひとばしら



「最初は、誰かが火ぃつけたんちゃうかって、警察も消防も随分調べたみたいですけど、油を撒かれとったわけでもなし、大勢がおる町なかやっちゅうのに、火ぃつけられるとこを誰も見てへんし、そもそも火の回りがあまりに早すぎるって」



ーー黙(もだ)せる寡婦のあかいかみ

ーーあおい赤子を抱いてたつ



「そうこう言うてるうちに、今月だけで七人も亡(の)うなって。なんぼなんでも、これはおかしい、絶対なんかあるっちゅうて、調べることになって」



ーー月夜に銀のつばさ猫

ーーみどりのいかづち うみを割く



「犯人の目星がつかへんのやったら、被害者の方から探れ、言われて。そんなん当然、警察やってさんざん調べたやろうにそれでも出てこんかったんやし、これはもう無差別やろ、言うてたのが、今日の昼になってやっと、情報が入って」

 その事件は、知っている。

 だから僕は、ここへ来たのか。



ーーほしは すいせい。



「焼け死んだ七人は全員、『光輝水星教』の残党やったんです」



「八人目は?」血の気のひいた顔で語り終えたおりんさんに僕は聞いた。

「えっ?」

「だって、僕がさっき見たのは……」

 ひとり、二人、三人、四人。

 五人、六人、七人。

 そして、八人。

「……ちょっと……なに言うてはるんですか……」おりんさんの声が震えている。

 もしかして、八人目は。



「あなたは人柱になど致しません」

 閉ざされた鉄柵の門扉の向こうから声がした。

 さっきまで誰もいなかったはずの屋敷の前に、女がひとり、立っていた。

 黒いドレスに、黒い帽子、若く美しい顔を半ば隠す、黒いレースのヴェール。

 喪服のヴェールの隙間から、燃えるような赤毛がこぼれ落ちている。

「だって、あなたは私たちの、たいせつな、たいせつな、『夢の回廊』なのですから」

 おりんさんが僕の着物の袖をちぎれそうなほどに引いている。

「あかんって! 早う帰らなあかん!」

 どんどん濃くなる黄昏色の夕陽の中に、悲鳴のような声が響く。

 どこへ、帰る?

 鉄柵の門をはさんだ向こうには、あの女がいる。

 夕焼けの光をあびた赤い髪が、ますます燃え盛るかのようで。

 なのに、ちっともこわくない。

 いや、それどころか……。

 その女の背後にそびえる館。

 建物にむかって左側の一番はしに、ひときわ高い塔をそなえた造りが、西王子家の屋敷にそっくりで……

 

ーー帰ろうか。

 

 僕は水星館の門扉に手をかけた。

 きい、とかすかに音がして、扉が開いた。


     *     *     *


 りんの手の中から、神原の着物の感触が消えた。

 ぎくりとして、手元を見る。

 さっきまで、離してなるものかと必死に掴み締めていたはずの、着物の袖が、ない。

 心臓がどくんっと、ひとつ、ふたつ、大きく跳ねて、それから早鐘のように激しい連打になる。

 空っぽになった手から視線を上げる。

 水星館の門扉があるはずの、そこには、なにもなかった。

 神原も、そして、神原が自分で開けて入っていったはずの、門扉までもが、なかった。

 右を見ても、左を見ても、鉄の門扉も、門柱も、水星館の名を記した銘板も、ない。

 ひたすら、煉瓦を積み重ねた長い長い塀が、どこまでも続く中でーー

 ただひとつ、残っていた。

 息を呑む。

「し、しんぶん……」

 ちょうど神原が立っていた辺りの、煉瓦塀の下で、新聞が下敷きになっている。

 大きくひとつ息を吸って、気持ちを奮い起こし、塀に歩み寄る。

 まるでギロチンにかけられた死刑囚のように、半分だけをこちら側に残した新聞は、塀の重みで少し上向きに反り返っている。


ーー本当はちゃんと出入り口も門扉もあるのに、それを隠してしまうような仕掛けがあるんちゃうか? それか、いちばん下の煉瓦をひとつ抜き取るとか、地べたの方を掘って、その隙間に新聞をねじ込むとかやな……


 目を凝らして見てみるが、煉瓦塀は長年の風雨にさらされてはいるものの、どこにも継ぎ目も隙間もない。

 煉瓦をひとつひとつ思い切り押したり蹴飛ばしたりしてみても、ゆるみ一つない。地面を掘り返した跡もまるで見当たらない。

 この煉瓦塀を立てる時に、何者かがたわむれに新聞を置いて、それに気づかぬまま職人が煉瓦を積み重ねて塀にして、何十年もそのままにされてきたとしか思えないほどに。

 だが、その下敷きにされている新聞には。


『西王子家 書生 神原泰明 儀 

 かねて病気療養中のところ○月○日午前零時零分 二十七歳にて永眠いたしました。

 ここに生前のご厚誼を感謝し……』


 背中を冷たい汗が流れる。

 息が苦しい。

 だが、それらを押さえ込む。

「……やっぱり、そうなんや……。さっきのは、見間違いやなかったんや……」

 神原は、確かにここにいたのだ。

 りんは下敷きにされた新聞をつかんで思い切り引っ張った。

 うんと歯を食いしばり、煉瓦塀を足蹴にして踏ん張っても、びくともしない。

 持ち方を替えては引っ張り、引っ張っては持ち方を替えて、としているうちに、新聞を少し破いてしまう。

 それならばと、今度は破れ目のところから手で慎重に新聞をちぎり取り始めた。

 ちょうど死亡広告の辺りで、「神」と「原」の間が破れそうになって、慌ててもう一回り大きめに破いてゆく。

 それでも、手のひらほどの大きさの死亡広告しか、りんの手元には残らなかった。

 あんなに必死に追いかけたのに。

 あんなに「帰らなあかん」と呼びかけたのに。


ーーいや、そうじゃない。

 

「そんなことない。まだこんだけ残っとるやないか」

 声に出して、自分に言い聞かせてみた。

 ちぎれた新聞を手にして立ち上がる。

「あんなあ……、逃げんなよ」

 誰に伝えようというのか、自分でもわからないまま、塀の下の新聞を指差して怒鳴りつけた。

「逃げんなよ! お前、逃げんと、そこでちゃーんと待っとけよ! ええか!! 私と梶尾さんとでな、神原さんのこと、絶対、絶対、取り返しに来たるからな!!」

 ちぎった新聞をポケットに突っ込んで、りんは梶尾の下へと夕暮れの町を走った。 


(続く)

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