その間にあったことと、その後におきたこと(1)

 夢を見ていた。


「すごいや、先生。すごくよく見えますよ」

 舶来の天体望遠鏡で、少年が星空に見入っている。

「ほら、先生も見て」

 彼にうながされて、僕も覗いてみた。

「ああ、これは綺麗だ」

 新品の望遠鏡のレンズには、夜空に散らばる無数の星々が映し出されていた。

「でも、僕にはどれが何の星だか、さっぱりわからないよ」

「僕だってわかりません。けど、そうやって見ていると、まるで手を伸ばせば届きそうな、すぐにでもそこへたどり着けそうな気がしてきませんか?」

 彼の言葉に、僕は望遠鏡から目を離した。

 少年の顔が、すぐ傍らにあった。

 西王子光彦、十六歳。

 帝都に名高い西王子家の三男にして、次代の後継者。

 幼い頃は少女に間違われたこともあったという色白で優しげな面差しが、僕を見ている。

 その顔が、ふと満足げに微笑んで。

 次の瞬間、紅蓮の炎に包まれた。

ーーせんせい。

 彼のくちびるが動いた。

 あかあかと燃え上がるほのおに全身を灼かれながら。

ーーせんせい、ぼくはね。

 それでも、彼は微笑っていた。

 僕を見つめながら、最後に彼が告げた言葉に、僕は悲鳴すらあげられずに……



     *     *     *



「神原! いるのか! 開けるぞ!」

「あ……」

 下宿の襖が壊れそうな勢いで開いて、入ってきたのは軍服姿の梶尾だった。 

 くしゃくしゃに寝乱れた布団の上の僕に、彼はぎくりと足を止めたが、すぐ上がり込んできて布団のそばに胡座をかいた。

「うなされる声が部屋の外まで聞こえていたから、入らせてもらった」

「ああ、君か……」

「いったい何があった」梶尾が問う。眉間の皺が深い。

 僕はのろのろと、布団から起き上がった。

 相変わらず気分が良くない。

「……何があったって?……2、3日まえからどうも熱っぽいというか、具合が悪かったものだから、今日は休講にしてもらって寝ていただけで……。夢でも見ていたのかな? 覚えてないけど……」

「では、体調が悪いだけで、誰かに危害を加えられた訳ではないんだな」

「危害って……。いったい何の」

「どうなんだ」苛立つ声で問いつめられる。

「……たぶん、熱があるだけだよ」

「医者には診てもらったのか」

「いいや……。けど、なんで……どうして君がここに」

「これだ」

 不機嫌極まる形相で、梶尾は持っていた物を僕に突きつけた。

 新聞だった。

 ここへ来るまでの間ずっと握りしめられていたらしく、だいぶ皺になっていたが、まだかすかにインクのにおいがした。

 表になっているのは1面ではなく、終わりの方のページがすぐ見えるようにして、折り畳み直されていた。

 受け取って、紙面を見る。

「そこの下の、広告だ」

「これは、僕の……?」

「『あれ』はまだ、終わっていなかったのかもしれない」

 黒い縁取りの囲み広告に、眼が釘付けになった。


『西王子家 書生 神原泰明 儀 

 かねて病気療養中のところ○月○日午前零時零分 二十七歳にて永眠いたしました。

 ここに生前のご厚誼を感謝し謹んでご通知申し上げます。

 なお葬儀は左記の通り執り行います。

 

      記


 一、葬儀 ○月×日(水)午前十一時三十分~午後一時

 一、場所 水星館(東京都〇〇区××町○ー○ー〇〇)


 大正〇〇年 ○月○日

               喪主 西王子三千代』


 全身から血の気が引いて、新聞を握りしめた手が凍りついていった。

「なん……で……」

「心当たりはないか」

 梶尾の問いに、声もなく首を振る。

「西王子三千代、という名は、知っているか」

 もう一度、首を振る。

「……死んだって……? 僕が……?」

「こんな番地は存在しない。水星館という建物も見つからない。そして西王子家の人々も、西王子家自体も、いまや存在しない。先だっての事件の際に、僕は西王子家については徹底的に調べた。だがその家系の始まりから終わりに至るまで、『西王子三千代』などという人物は、いなかった。……この広告の中で実在しているのは、君だけだ」


 新聞を持ったまま、僕は震えていた。

 からだじゅうが震えていた。

 番地もない場所。

 存在しない館。

 始めから終わりまで、存在しなかった女。

 それらと一緒に載せられている、僕の名前。

 僕は生きているのか。

 僕は死んでしまっているのではないか。

 あの日、死んでしまった人たちと一緒に。

 僕は……。

 

 梶尾が僕の手から新聞を抜き取った。

「君は生きている」

 新聞を掴んだままの彼の手が、僕の肩に置かれた。

「その震えが、恐怖が、生きている証拠だ」

「そうだよ」震える声で、僕は言った。

「生きているから、いや、生きていくのが、こわいんだ」


 梶尾の眼が、陰った。

ーーまだ、そんなことを言うのか。君は。

 その眼が、そう言った。

ーーだけど、だって、その通りなんだから仕方ない。

 だから、僕もそう言ってやった。


「仕方がない、か」吐息とともに梶尾は立ち上がった。

「……医者を呼んでくる。僕が戻るまでは、この部屋から一歩も出るな。絶対にだ。他の者を入れるのも駄目だ。いいな」

「うん……」

 部屋を出ようとして、梶尾が不意に僕に尋ねた。

「……ところで、君はこんな戯(ざ)れ歌を聞いたことがあるか? このごろ、帝都にはやるもの、という……」

「このごろ都にはやるもの、夜討ち、強盗、にせ綸旨、かい?」

「そうではなくて……いや、知らないのならいい」

 梶尾は部屋を出て行った。

ーー知らない方が、いい。

 そう言われたような気がした。

 ぐったりと布団に突っ伏すと、梶尾の置いていった新聞が目の前にあった。

 それを手に取る。

 手に取れるってことは、生きているってことだ。

 そう。僕は生きている。

 こわいけど、大丈夫だ。

 目を閉じる。

 梶尾はこの広告を見て、真っ直ぐにここへやってきたのだ。 

 大丈夫。

 僕は自分の死亡広告の載った新聞を握りしめたまま眠りについた。


 だが、あとで聞かされた話によると、梶尾が戻ってきた時には僕は自分の部屋から忽然と姿を消してしまっていたのだそうだ。


(続く)

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