エピローグ

病院の前で僕を待っていたのは、いつものように薬売りの箱を背負って帽子をかぶった人物だった。

「あ、やっぱり今日退院やったんですね。おめでとうございます~」

おりんさんが、ぺこりと頭を下げた。

「わざわざ、来てくれたんですか? 梶尾が様子を見てこいって?」

「そんなとこですわ。……神原さん、少し痩せたんちゃいます?」

「うん……。まあ……いろいろ、あったから……」

「いろいろ、ですかぁ……?」

うつむく僕を、小柄なおりんさんが下からのぞき込む。

おりんさんは、この事件の間ずっと、僕と梶尾の間で連絡役をしてくれていたのだ。

「梶尾さんも、あの晩あったことはひとっことも教えてくれはらへんのですよ」

「ああ……」

「何が、あったんですか?」

「……」

「……そりゃね、なんだかんだ言うても私は女ですから海軍なんか入れやしませんし、 梶尾さんの背中を守って戦いたい言うたって、アホか!言う話ですやんか? でも私やって……」

「わかってますよ。僕も梶尾も、あなたの情報網のお陰で何度も助かったんですから。でも……」



ああ。

どう言えばいいんだ。あれを。

あんな、常軌を逸した、全ての摂理を覆す、『もの』を。



「でも、やっぱり知らない方がいい。せっかくあなたはこうして、何も見ずに済んだのだから」

「えええ~っ?!」

「それと……医者にも言われたんです。もう、あの日のことは思い出さないようにと。でないと、今後の回復は保証しかねると」

「え……」

「梶尾も、同じことを言われたはずです。だから」

「わかりました。すんません」

おりんさんは頭を下げた。

「そんなら、もうなんも聞きません」

「それがあなたのため、引いては梶尾のためになるんです。ずるい言い方ですけど」

「うわっ。それホンマずるい」

口をとがらせたおりんさんに、僕は思わず笑ってしまう。

「けど、神原さんはこれからどうしはるんですか? 西王子家は……」

「うん」



西王子家は、もうない。

帝都随一の財力と権力を持ち、『華麗なる一族』とうたわれた人たちも。

奇っ怪な噂をささやかれ陰で恐れられていた広大な屋敷も。

全部、なくなってしまった。

生暖かく、優しく、僕を守ってくれていた昏いねぐらは、もうない。

すべては深い深い、海の底に。



「友達が、英語塾を開くのを手伝って欲しいと言ってくれたんで、しばらくはそっちへ」

「ああ、それは良かった! じゃあそれも報告しときますね!  いや~、これでお互い、新生活が始まるってわけですね~」

そう言うと、おりんさんは口元に手をあてて、僕においでおいでした。

身をかがめた僕の耳元に、おりんさんが爆弾を放り込んだ。

「私ね、今度結婚することになったんです」

「ええっ?!  まさか、梶尾……」

「ちゃいますって! そんなわけないやないですか! でもね、梶尾さんに負けへんぐらい、この人の背中を守って戦いたい!って思える人なんですよ」

「はあ……」

「私より10以上も年下やのに、そんなん関係ない!言うてくれて、娘らも、ようなついてくれて」

「ちょっと待って下さい! おりんさん子持ちだったんですか?!」

「私もいろいろあったんですよぅ。あんまり聞かんといて下さいよぅ」

「あなたが勝手にしゃべってるんでしょう?!  いや、そもそも新しく旦那さんになる方はあなたが海軍の密偵って知ってるんですか?!」

「そんなん神原さんには教えたげません~。内緒です~」

呵呵大笑するおりんさんに、僕は丁重に頭を下げた。

「それはそれはまことに、おめでとうございます」

「あっ……。これはどうもご丁寧に、ありがとうございます」

病院の門前でお辞儀しあう僕らを、道行く人が不思議そうに見ている。

「ほんなら、これで」

「はい」

振り返らず、おりんさんは去っていった。

彼女はこれから、どこへ行くのだろう。

梶尾に報告に行って、それから……。


高砂や この浦舟に 帆を挙げて……。


病院前の桜は、もうすっかり散ってしまっていた。


(続く)

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