青い回廊と西王子家断絶の次第
日暮奈津子
プロローグ
「君に頼みたい事がある」
黄昏の夕陽色に染まる昏いカフェで、その男は僕に言った。
「『光輝水星教』に関する報告書。それを、君の雇い主である西王子氏の手元から盗み出してもらいたい」
* * *
西王子氏の代わりに大量の稀覯書の返却を終えた僕は、美須賀大学付属図書館を出た。
学生達の行き交う図書館門前は妙に騒がしかった。きらきらと澄んだ若い女性の声が特に耳につくのは、近くにある女学校の下校時間だからか。それにしても……。
大学構内に咲き誇る満開の桜は、折からの風に散らされ始めたところだった。
その薄紅色の花びらが散りしく中で。
遠巻きにした人だかりの中心にいたのは、まだ若い軍人だった。
大日本帝国海軍士官の制服もつきづきしいその姿に、人々は目を奪われ、足を止め、はなはだしきはうっとり見とれる女学生達の集団までできる始末。
その男は、僕の名を呼んだ。
「神原。久しぶりだな」
「君は……梶尾か?」
梶尾策磨(かじお・さくま)。かつて僕の同級生だった男だ。
「西王子の御屋敷へ訪ねたが、君はここだと聞いたので待たせてもらっていた」
「あ……」
西王子の名が出た途端、群衆がかすかにざわっ……とゆれた。
「その……、僕に会いにきたのかい?」
「そうなんだが……」
梶尾は周囲を見渡した。
「こちらをご覧になったわ!」
「わたくしと目が合った……」
不穏なざわめきはたちまち嬌声に変わった。
「ここは人が多すぎる。しばらく歩くが、僕の行きつけの店へ行こう」
先に立って梶尾が歩き出すと、群衆の壁が割れ、きゃあっと女学生達の中から声があがった。
「どちらへいらっしゃるのでしょう?」
「行きつけのお店って、カフェかしら」
「いちいち騒々しいな」
思わず愚痴をこぼす梶尾に僕は言ってやった。
「僕が男でよかった。君が待っていたのが妙齢の女性だったら、今ごろ僕はご婦人方の嫉妬の炎で焼き尽されているよ」
「帝都は平和だな」
大きなため息とともに言い捨てて、早足で歩く梶尾を、僕は急いで追いかけた。
* * *
梶尾に案内されたカフェに僕らは腰を落ち着けて、運ばれてきたコーヒーを口にした。
「海軍に入ったとは聞いていたけれど……。いや、立派になったものだな。僕などは書生と言えば聞こえはいいが、使い走りと大して差はない」
「そんなこともないだろう。西王子家の三男・光彦君の家庭教師を任され、現当主たる西王子氏の信頼も厚いと言われている」
「なんだ、詳しいな。まるで調べたみたいだ」
「ああ、調べた」
冗談めかしてみせた僕を、梶尾はあっさり切り捨てた。
「その君に、頼みたい事がある」
梶尾はカップをテーブルに戻すと、両手を組み合わせて肘をつき、僕の方に身を乗り出した。
「新興宗教団体『光輝水星教』に関する報告書。それを、君の雇い主である西王子氏の手元から盗み出してもらいたい」
「……え……?」
梶尾の意図をはかりかねて、僕は再び飲みかけのコーヒーを手にした。
「ずいぶん、物騒なことを、聞いた気がする」
視線を落としてカップに口をつけようとしたが、結局そのままソーサーの上に戻した。
「その……それを、貸し出して欲しいと、西王子氏に頼めばいいのかな?」
「西王子氏はその報告書を持っていることを認めないだろう」梶尾は畳み掛けた。
「報告書を所持していることはもちろん、そんなものが存在する事自体を認めない。存在自体、認めないものを、君が貸し出しを求めたところで許可するはずもないし、自分以外の誰の目にも触れさせるつもりなどない。まして我々がそれを入手すれば返却するつもりなどはなからないと、知っているなら尚のこと。その手引きを、君がしたと西王子氏が知れば……」
「……」
「書生風情の一人や二人、この世に存在すらしなかったことにするのは簡単なことだ」
「え……」
僕の胸が、体が、凍り付いた。
それに構わず、梶尾の言葉が続いた。
「だが我々にはあの報告書が必要だ。どんな手段をとってでも手に入れねばならない」
「……」
「だから君にはそれを盗み出してもらう以外にないのだ」
「何を言っているんだ君はっ?!」
僕は椅子を蹴って立ち上がった。失礼だ、帰る。そう言い捨ててきびすを返そうとしたが、サーベルのような梶尾の瞳が僕をその場に縫い止めた。
「君だって、西王子家にまつわる噂の数々は知っているだろう」
「噂だなんて! ばかばかしい! あんなくだらない……」反射的に言い返そうとして、僕はのどを詰まらせた。
ーー曰く、妖しい儀式を使って成り上がった……
ーー曰く、当主が夜な夜な娘を攫う……
恐ろしい、恐ろしい。
帝都に名だたる西王子家の……。
「そう、あれは噂話だ。真実は、あんなものでは済まない。あまりに巨大過ぎて隠し通すことなど到底出来ないと気づいた西王子氏が、目眩ましのためにバラまいた、矮小化されたくだらない残り滓だ」
「やめろ、梶尾! やめてくれ!!」
ーーおかしい。
僕はやっと気づいた。
こんなに大声を出しているのに、カフェの客は誰も僕らの方を見ない……いや。
他には、誰もいない。客も、誰も。
じゃあ、僕らをこの窓際の席に案内したのは誰だ。
このコーヒーを僕らに持って来たのは誰だ。
誰もいない。
最初から、誰もいなかった。
ここはどこだ?
今はいつだ?
「君の立場は重々承知している」
梶尾の声だけが聞こえる。だってここにいるのは僕と、梶尾だけだ。
「報告書が手元にないことに西王子氏が気づけば、それ以前に報告書の存在を知る者が他にいると知れば、西王子氏はその者の存在を消すだろう。だから我々は、君の安全を全力で保証するべく力を尽くそう。君がこのことを知った今、この瞬間からだ。君には我々に協力してもらう。選択肢は、もうない」
「なんだって……」
あやつり糸が切れたように、僕は椅子に座り込んだ。
「君が僕の旧友でなければ良かったのだ」
吐息を深く絞り出すようにして梶尾は言った。
「所詮は書生ひとり如き、捨て駒にすれば良いと、そう思っていた。だが西王子家にいたのは君だった」
「……君は自分が何を言っているかわかっているのか?」
「解っているさ。むしろ君などよりも我々の方が」
「我々って誰のことだ?」
答えはなかった。
「海軍……軍部なのか?」
梶尾は答えない。
表情ひとつ、変えない。
「……我々の方がずっと、解っている。だからこそ、だ。事はあまりにも重大で、危険というのもまるで足りない。我々にはそれが解っている。『あれ』は……」
彼らしくもなく、梶尾は言い淀んだ。
「……梶尾?」
「……あまりにも、『あれ』は『異常』だ」
やがて……。
何時の間にか夕暮れが来て、梶尾の背後の窓から夕陽が差し込み、逆光になった彼の表情をうかがい知ることはできなくなっていた。
その、夕陽……。
それは、奇怪な噂に彩られながらも『華麗なる一族』と呼ばれた西王子家の、落日へ向かう最期の残照であり、その西王子家の庇護の下でぬくぬくと暮らしてきた僕の猶予期間(モラトリアム)の終わりを告げるべくさし初めた黄昏の光だった。
(続く)
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