魔女の心臓
たまり
魔女と騎士と災厄の竜
――今日はなんという厄日か!
騎士ルィン・イングロールは地面から身体を引き起こしながら思わず悪態をついた。出発前に太陽の女神、ア・ムールの祝福を受けたはずなのに、とんだ災厄に見舞われている。
紺碧の空を巨大な竜が舞う。
仰ぎ見る空は、淡いアメジスト色。
――紫黒竜、ドラギュケイヴに遭遇するとは……!
ゴゥ……! と羽を動かして陽光を遮り、地上に影を落とす。
ガリナヴァル王国内で確認されている
爬虫類のように冷たい黄金色の眼は、地上で哀れに這いずり回る二人の弱った獲物に注がれていた。
「あぁ、騎士様よ! ご覧なさいな、あれが私達の死よ! アハハ……!」
裾の敗れた紫色のドレス、長い黒髪を振り乱している。
両手を固定する手枷から鉄の鎖が伸びている。それは馬車に固定されていたであろう金具ごと引きちぎれて、重々しく地面を引きずっている。
「黙れッ! 呪われた忌まわしき魔女め! 魔術で災いを呼び込んだな!?」
「お前さんが言うその『呪われた忌まわしき魔女』と、こうして一緒に死ぬ気分はどうだい?」
「くっ! とりあえずその口を閉じていろ!」
騎士ルィン・イングロールは、険しい目つきで空を見て嗤う魔女を睨みつける。
どうやらルィンの脚は馬車から投げ出された衝撃で折れてしまったらしい。力が入らず立ち上がろうにも立ち上がれない。激痛に耐えながらなんとか上半身だけを起こし、腰に下げていた予備の
整えていた金髪は乱れ、彫刻のように美しい顔立ちの青年騎士の顔は、泥と血で汚れている。
――こんな剣ではドラゴンのウロコ一枚傷つけられないが……せめて一撃を!
焦りと恐怖が心臓をじわりと締め付ける。
視線を転じると近くには横転した馬車が燻り煙をあげていた。騎士ルィン・イングロールの仲間二人は、ドラゴンのブレス――地獄の火炎の直撃を受け、全身が黒焦げになり既に息絶えている。陽気だったヘルリア、一本気で真面目な騎士ダーリヒル……。
「良い奴らだった……。それもこれもお前のせいだ! 魔女ケレブリア」
剣呑な目つきで傍らの『いばら沼の魔女』ケレブリアを睨みつける。
ガリナヴァル王国内では殆ど目にすることが無いカラスの濡羽のような黒髪に、黒曜石のような瞳。白く透けるような肌はまるで死人のよう。
瞳に宿る妖しげな魔の力は、屈強な戦士さえ怖気づかせる。見た目は一見すると妖艶な美しさを湛えた少女のようでもあるが、暗黒の魔術で若さを保っているとも、うら若き乙女の肉体を乗っ取ることで若さを保っているとも言われている。
「そりゃぁ、とんだ言いがかりだねぇ騎士様よ。私を、安らかなる結界の奥深くから引きずり出したのは、お前さんたちじゃぁないか?
手枷ごと鎖を引きずり、ヨタヨタと歩く魔女の紫のドレスも擦り切れ汚れている。
「魔女の魔力に引き寄せられて、
「だから私は隠れ住んでいたんじゃないか? どこかの正義感に燃える
巨大な空飛ぶドラゴン・
魔女ケレブリアは、西の領有地で乙女をかどわかし血を吸ったとされている。騎士ルィン・イングロールたちはその討伐と身柄の確保に赴いた……その帰り道だった。
「騎士様、騎士様! おぉ! ドラギュケイヴが来るよ! さぁ王国の偉大なる騎士様よ! 意地をみせておくれよ、でないと私もお前さんも死ぬんだよ……? キャハハ」
まるで自分の死さえ見世物のように思っているのか、徐々に高度を下げてくるドラゴンを指差し嘲笑う。その異常さに、悪寒と苛立たしさを覚える。骨折の痛みと重量のある騎士の鎧がズシリとルィン・イングロールの体力を奪ってゆく。
「う、うるさいッ! ドラゴンなど剣――」
次の瞬間。黒く生臭い風が騎士ルィン・イングロールと魔女ケレブリアの目の前を吹き抜けた。ゴファ……! という黒い風が過ぎ去ると、再び草原と空が見え、そして真っ赤な血が噴水のように散った。
それが騎士の
「ぐッぁあああああああッ!?」
「キャハハ!? 腕が……無くなったねぇ? あのドラゴンはなぶり殺しにする気だよ! 流石は災厄竜、
地面に前のめりに倒れ絶叫する騎士に擦り寄ると、ケタケタと笑いながら魔女が鎖で縛られた両腕を乗せ、そして身を被せる。
「ヒヒ……! 私の魔力は
「くっ……おの、れ……!」
「痛いかい? 苦しいかい? どうだい、忌まわしい魔女と死ぬ気分は? えぇ? 神聖なる王国の騎士様よ?」
まるで
騎士ルィン・イングロールの視野は狭窄し、世界が闇で覆われる。
『ゴガァアアア……!』
上空で再び
「さぁ、どうするね、私と死ぬ? それよりも……生きたくはないかい?」
トクン……と停まりかけていた心臓が、強く脈を打った。
それは甘い悪魔の囁きだった。
「……生き……?」
魔女の言葉が、ただその一言が、堕ちてゆく意識の中で引っかかった。
騎士ルィン・イングロールの意識が、引きずり込まれそうになる闇の底から、地上を振り返った。
そこには光が見えた。太陽ではない。もっと淡く、邪悪で赤黒い、弱い光。
それは悪魔の眼の輝きかもしれない。
それでも、暗黒の虚無の闇の中では、光には違いなかった。
生きる……。
そんなことが出来るのか?
この絶体絶命の、絶望的状況で。
「なぁに、簡単さ。私と……『魔女の契約』を交わすのさ。そうすれば私の
まるで屍肉に食らいつくハイエナのように、うずくまる騎士の体の上に紫色のドレスを着た魔女が覆い被さる。
「ふざ……けるな! 誰が……お前に魂など……売るものか」
「死ねば終わりさぁ。それじゃぁ……愉しめないじゃないか? 私はね……まだ生きたいんだよ。この先百年も、千年もね……」
魔女ケレブリアの漆黒の瞳には、底知れぬ闇の炎が揺れていた。それは、正邪こそ違えど、生きることを諦めたものの眼ではなかった。
「お前もドラゴンに食われて……死ね」
「私はごめんだね。魔女と心中したとありゃぁ、名誉なんて残らないだろう?」
「う……」
「どうだい? ここは協力しあおうじゃ、ないか?」
騎士の耳に驚くほど柔らかい唇がふれる。金色の髪に碧眼の、美しい顔をした青年騎士の顔は苦痛に歪んだまま、それでも拒否の意を示す。
ふたたび熱い吐息が耳にかかる。肉の熱、湿った音。その艶めかしい感触に、思わず息を飲む。
「……お、俺は……」
身体の奥底で、闇の塊のような欲望が蠢く。
名家に生まれ、聖なる騎士として厳しい訓練に耐え、王国に忠誠を誓う自分が、押し込めていたもう一つの自分、闇の顔。
あらゆる見栄や地位をかなぐり捨てても、見苦しくとも生きたいと足掻き、貪欲に生を謳歌したいと思う、本能。そういった原初的な感情がルィンを突き動かす。
そうだ……、こんなところで死んでたまるか。
「生きたい」
ルィン・イングロールは、呻くように言葉を漏らした。白い魔女の顔に、ニィッと狂気と喜悦混じりの赤い裂け目が浮かぶ。
「じゃぁ決まりだね。キスをするよ、契約の証だ。そうだ……名前は?」
冷たい手のひらが、ルィン・イングロールの両頬を押さえる。
「……ルィン・イングロール」
「あぁそうかい。ルィン、いい名だ。……契約……汝、閉じよ、瞳を、闇を見よ、この者の名を、捧げ、心臓を、共に――これからお前は私のものだ」
邪悪な呪文の詠唱とともに、仰向けなったルィンの顔にキスが降ってくる。
黒髪のレースに隠された内側で、密やかに唇が重なり合う。
「……ッ!」
重なる唇の温度は冷たい。
一度触れた唇が、離れ、
「ダメだね、もっとだ。もっと深く。生きたいのなら、
ゴゥウウ……! と上空を黒い影が覆い尽くしてゆく。ルィン・イングロールの閉じかけた瞳に、巨大なドラゴンが急降下してくるのが映し出された。
けれど、魔女ケレブリアはそんなことなど意に介す風もなく唇を再び重ねる。
ルィン・イングロールの冷たい下唇を、薄紅色の唇が咥える。わずかに開いた隙間から赤く湿った舌が入り込む。押し開け、こじ開けて探す。
「ん……ッ!」
闇の底に堕ちた者が、救いの手を求めるように、ルィン・イングロールの舌がそれを絡め取った。
触れ合う熱と粘液の重なりが、更に熱い熱を生む。
ドクン……と心臓の脈が早くなる。何か別の、熱い手で鷲掴みにされているかのような急激な心臓の変化をルィン・イングロールは感じていた。
「ん……く!?」
「あぁ、いいね……これが……
「心臓が……身体が……熱い、ぐぁああああ!?」
「あぁ、私の心臓へ、ようこそ」
次の瞬間――
周囲の土と草が、まるで竜巻のように渦を巻き、爆発したかのように吹き飛んだ。そして禍々しい紫の光が、地面から立ち昇った。光は魔法円を生み、その中心には魔女ケレブリアと、両足で確かに立ち上がったルィン・イングロールが、いた。
「こ……これは!? 傷が……脚が……!」
折れていた骨は治り、食い千切られた右腕は黒い別の腕が生えて置き換わっている。鋭いトゲに覆われた腕には、鋭いツメがあり、まるで悪魔の手のようだ。
『ゴギャアアアッ!?』
二人の直上まで急降下していた
「おやり、私の……ルィン」
「は……アアアアッ!」
一閃。
黒き腕を振るうと、紫色の光の刃が
二撃。
十字を切るように、むき出しになった心臓を縦に
『――ギッギュガァアアアアアアアアアアア!』
断末魔の悲鳴とともに赤黒い
ザァ……! と血の雨が降る中、金髪の青年ルィン・イングロールが、黒髪の魔女ケレブリアと向かい合う。
少女のような魔女の背丈は、頭2つ分ルィンより低い。
「気分は?」
「……最悪だが……熱い。生きている……」
自分の右腕を見て、無感情にも思える表情で瞳を細めるルィン。
「ルィン、今日からお前は私と魔女の心臓を共有する、闇の眷属さ。だが、私が死なない限り、お前も死なない。だからこの先、百年も私を守り続けるのことだね。キャハハ!」
「……悪くない、それより。世界はこんなに……色に満ちていたのか」
興味なさげにそう言うとルィンはドラゴンの躯と、遥か彼方まで続く草原を見回した。平静を取り戻した空には小鳥が舞い歌う。そして、黒い腕で華奢な魔女の身体を抱き寄せる。それは折れそうな程に細く、柔らかな肢体だった。
「欲しいのかい?」
「生きている証だから」
再び唇を重ねる二人を包むガリナヴァル王国の空は、淡いアメジストのよう。
黒い光を宿しはじめたルィン・イングロールの瞳には、草原をわたる風の色と、生を謳歌する生き物たちの輝きが映っていた。
Fin
魔女の心臓 たまり @tamarishowyu3000
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