4.夜の雑談
月明りを浴びてほのかに光る白い花を見て、アゼは満足そうな笑みを浮かべた。独り身で真面目なアゼの趣味は、花を育てることである。特に白い花を好み、百合の栽培ではいくつかの品評会で賞を受賞したこともある腕前だった。
従兄のジルの結婚式で自分で育てた花を贈った時、厳格なジルが人目も憚らずに感涙したのは良い思い出である。
「夜咲型も綺麗だな。もう少し肥料を変えて……」
アゼの目下の夢は、可愛い従妹の結婚式を自分で育てた花で埋め尽くすことだった。今のところ男の影もかたちもないのは少々残念だが、かと言っていざそういう話が出てきたら悲しいのも事実である。もう双子は大人だと頭ではわかっているのだが、幼児時代の記憶が消えない。
「……セルバドス」
唐突に声を掛けられて、アゼは背筋を伸ばした。隣室の出入り口が開き、そこから一人の男が下りてくる。肩幅が広いが背は平均程度で、それが余計に屈強そうなイメージを与える。短く刈り込んだ褐色の髪は、右耳の上に五センチメートルほど毛の生えていない場所がある。数年前に銃弾がそこを掠めた時からそのままなのだと、相手が言っていたことをアゼは覚えていた。
「起こしたか?」
「いや、ちょっと換気」
部屋の中から何かの匂いが漂う。アゼはその匂いに首を傾げた。
「香水?」
「飾り棚に置いてたの、間違って落として割っちまってさぁ」
「あぁ、なるほどね。てっきり女でも連れ込んでるもんかと」
「隊長に殺されるような真似なんかするかい」
少々北区の訛りがある男は、部屋の前にある石段に腰を下ろす。そして革のシガレットケースを取り出すと、その中から紙巻きたばこを一本抜き取った。
「吸うか?」
「いや」
「あぁ、そうか。大事なお花にヤニが付くもんな」
「葉巻なら偶に吸うけどね。お祖父様の付き添いでパーティ行くことがあるから」
「社交界ってやつだろ? いいねぇ、いかにもお上品なお家柄って感じで」
嫌味くささはなく男が言うと、アゼは困ったように眉を下げた。
「そんなんじゃないよ。古い家だから付き合いが多いってだけで」
「でも元貴族なんだろ? 俺の家なんて由緒正しき農民だぜ」
イシュー・オラリオンは冗談っぽく嘆いて見せた。同期である、この屈託のない男をアゼは友人として気に入っていた。西区の出身で、家は中規模の農園を経営している。アゼが西区に来た時に、土質の違いから思うような花が育てられずに落ち込んでた。イシューはそれを見て、西区で最適な肥料や栽培方法を教えてくれた。それ以来、二人は良き友として付き合いを続けている。
「そういえば」
イシューは煙を吐き出しながら思い出したように声を上げた。
「幽霊の話聞いたか?」
「幽霊?」
「第四小隊の方で噂になってんだよ。夜になると兵舎の上を飛び回る白い影の話」
アゼは少し離れた場所に固まっている兵舎の方に視線を向けた。西区には十個の隊が存在し、それぞれ銃器隊、補給部隊、剣撃隊といった「通称」がある。その中で第四小隊は「補助部隊」と呼ばれているが、それはあくまでも表の話だった。裏では皆が口を揃えて「休憩所」と言う。
第四小隊に所属しているのは、いずれも名家またはそれに連なる家の出身者だった。フィンでは徴兵がない代わりに、軍人であるということは一つのステータスとなる。
従って、自分の子息に箔を付けようと、多額の寄付金と「怪我をさせないでほしい」という要望と共に送り込む親が後を絶たない。そのような経緯で入った者は、例え親が名の通った軍人であれど、第四小隊に入れられる。
第四小隊には仕事らしい仕事はない。一応、「前線部隊の補助」という名目だけはあるが、実際にその役目が来たところで満足に出来ない者が殆どに違いなかった。
「今、何人いるんだっけ?」
「えーっと、三十人ぐらいじゃねぇかな」
配属されてすぐに、彼らは第四小隊の実態に気付く。やる気のある者は即座に異動願を出すし、自らの待遇に失望した者はそのまま軍を去る。だが、そのどちらの道も取らずに第四小隊に居座っている者は多い。
親の威光を笠にして、軍人としての務めを果たそうとせず、しかし軍人である地位は捨てない。そんな彼らのことを周囲は「あれは部隊ではなく休憩所だ」と揶揄していた。
「最初はミレインが言い出したんだけどさ、いつもの見間違いだって誰も相手にしなかったんだよ。けど、段々と目撃情報が増えてきて、もしかして本物じゃないか、って話題になってる」
「そんなに目撃情報があるのか?」
アゼが聞き返すと、イシューは楽しそうに喉奥を鳴らした。
「あのライオットが怯えながら報告してきたんだとよ。傑作だろ?」
「ライオット軍曹が? いつものように恫喝して幽霊を追い払えばよかったのに」
「セルバドスも意地が悪いな」
二人で笑っていると、「うるさい」と不機嫌な声が割り込んだ。一番右端の扉から出て来たのは、背の高い色白の男だった。シャワーを浴びたばかりなのか、豊かな緑色の髪は湿り気がある。
「ごめん、ヴィラ」
「悪い悪い、幽霊の噂で盛り上がっててさ。そんなに煩かった?」
「換気のために扉を開けていたんだ。雨季のせいか中に湿気が籠って堪らないからな。でも夜は声が響くのだから気を付けろ」
スターク・ヴィラは階段を下りてくると二人の間で立ち止まった。端正な顔立ちをした男だが、眉間に寄った皺がその魅力を半減してしまっている。学者の家に生まれたインテリで、「先生」という不名誉な仇名がついていた。
アカデミーの候補生であったという噂もあるが、本人が何も言わないので真偽は謎となっている。ただ、アカデミーに入れないからといって軍に来る者も珍しいわけではない。
「幽霊の噂か」
「先生としちゃ、鼻で笑うような代物か?」
「いや、幽霊そのものの存在は否定出来ない。しかし彼らを明確に定義つけられるものがないので、結果として見間違いや勘違いで終わってしまうのだと考えている」
スタークの思いもよらぬ言葉に二人は目を見開いた。
「肯定派か?」
「否定出来ないというだけだ。それにロマンがある」
「学者先生もロマンなんて感じるのか」
「恐らく有史上、学者はロマンチストの部類にいた筈だ。最も理論的でリアリストだったのは、農民だったとも言える」
「じゃあ一番のロマンチストは?」
「独裁者だろうな。現に幽霊の存在を明確に否定する為政者はいない。そうしてしまうと自分が死んだ後に何も残せなくなってしまうからだ」
理屈っぽい早口に、アゼは実家に住む叔父のことを思い出す。リノは自分が話したいことが見つかると、昼夜問わず喋り続ける癖がある。カルもその傾向があるが、流石に独り言は言わない。リノは壁を「有意義な対話相手」として何時間でも喋っている。
その点、スタークは常識の範囲内で話をしてくれるのでアゼとしては楽だったが、イシューはうんざりした顔をしていた。
「まぁどっちでもいいけどさ、噂話のことは知ってるのか?」
「ライオットが騒いでいたから知っている。あいつの小心は軍に入っても直らないらしいな」
「同郷だっけ。昔からあんな見栄っ張りなのか?」
「あぁ、親の七光りを着こなすことには定評があるが、悪い奴じゃない。役に立たないだけだ」
辛辣な言葉を笑いながら放つスタークに、イシューはわざとらしく肩を竦めてから口を開いた。
「俺が聞いた話じゃ、夜番のために外に出た時に見たらしいぜ。兵舎の屋根の上をミシミシ鳴らしながら歩いてたとか」
「なんでもこのあたりが昔、処刑場だったから……という噂まで流れている。もしそれが本当なら百人単位で出てもいいだろうに、せいぜい三人程度で終わりだ。つまらないな」
スタークは第四小隊の兵舎を見る。しかし今はそこに何も見えない。
「新人はまだ見たことがないらしい」
「新人って、イルアチュアの富豪のボンボンか?」
「そういう言い方は可哀そうだ。彼は真面目な方だぞ。そのうち転属願を出すかもしれない。しかし、幽霊を見ていない数少ない人間ということで、逆に嫌疑がかかっているようだ」
「嫌疑ぃ? そいつが幽霊の真似事してるとか?」
案外頭の回転が速いイシューに、スタークは満足そうにうなずいてから続けた。
「まぁこれは第三小隊が言い出したことだが。要するに悪ふざけじゃないかと言っているわけだな」
「まぁ有り得そうな話だけど」
「しかし、目撃者たちは一様にそれを否定しているし、隊長殿もそこまで自分の隊員が阿呆だと思いたくないのか、本腰を入れて調べるには至らないようだ」
スタークは髪を掻き上げながら、口角を吊り上げて笑う。軍人が幽霊に右往左往しているのが面白くて仕方ないと言いたそうだった。アゼはふと花壇に紙ごみが混じりこんでいるのに気が付くと、しゃがみ込んでその撤去を始める。軍で使用される火薬の包み紙が飛んでくるのは、よくあることだった。
「綺麗な花だな。またコンテストに出すのか?」
「いや、小さすぎるし夜咲タイプだからね。コンテストは昼間に開催されるから厳しいと思う」
「なるほど、昼間に見えなくては意味がないからな。そういえば実家の方には雨になると花弁が透明になる花があったが、あれはなんだろうか」
「スタークは南区だったね。多分、ファティンの仲間だと思う。雨の日には自分の体を隠す習性が……」
その時、イシューが「おい」と緊張した声を上げた。視線は第四小隊の兵舎の上へ注がれている。二人は只ならぬ様子に揃って視線を同じ方向へ向けた。
雪を払い落とすための急な傾斜のついた屋根の上で、ぼんやりと光る白い影が、四肢を捩じるようにして歩いていた。
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