9.「契約にありません」
これは書いたらマズい話なんだけど、実はこの時に至って、なんとまだ契約が締結されていなかった。
そりゃそうだ。なにを作るかはっきりと決まってなかったんだから。
そして仕様はともかくとしても、ここに来てようやく企画の全貌が固まり、「開発機能一覧」が作られ、バックデート(※)によって契約が締結されることとなった。
それぞれの機能の開発期間と人月コスト(※)を見積もり、総予算を決める。もっとも、予算上限はある程度決まっているので、無理はできない。ある程度余裕をもった計画でなければ、会社にも利益が出ない。
の、だが。
「いや、あの見積もりがまたヤベーって」
深夜のオフィスでまた、眞山が毒づいた。
夜21:00のオフィスに残っているのは、相変わらずプログラマが数名、そしてデザイナーたち。プランナーはいない。
「なにがヤバいの?」
「盛ってる。それもかなり」
「……それは仕方ないんじゃない? 会社的には利益をとらなきゃいけないわけだし……」
「いや、うちの開発能力の方を盛ってる」
「……は?」
つまり、こういうことだ――眞山たちプログラマが算出した開発期間とコストの見積もりを、大幅に削った数字で先方と契約を結んでいるというのだ。
「なにがなんでもこの仕事だけは落とせないから!」
というのが経営陣の言い分。契約面の条件にはリリース後、上がった利益の一部が支払われる条項も含まれている。ある程度赤字を出したとしても、それで回収が可能だというのが経営陣の目論見らしい。
「……だからって、1カ月かかる機能を2週間でやれって言われてもなぁ……」
「人員の追加は?」
「さすがにそれは橋多さんが掛け合ってるけど。でも、1人で1カ月かかるものを2人でやって半分になるわけがないんだよ」
「まぁ、そりゃそうだ」
一説によれば、プログラミングのような作業は担当する人物の能力によって、最大で10倍近く能率が違うのだという。
そうでなくとも、そもそも2人以上で分業するのが不可能な個所なども多いし、新しく入った人員にプロジェクトの状況を教えたり、プログラムの構造をレクチャーするためのコストもある。
「Excelだけで見積もりされちゃたまらないよ」
そうやって眞山はボヤいたが、この後に起こったことを考えればこの状況はまだましだったと言わざるを得ない。
* * *
「てめぇ、それでもクリエイターか!」
会議室から伊佐崎の怒号が聞こえてきた。
これは伝聞ではなく、俺が自分のデスクで実際に耳にしたものだ。
「いやしかし、これはさすがに……」
伊佐崎の前で身体を小さくしつつも、河原さんが反論を試みる。それを遮り、再び伊佐崎の怒号が飛ぶ。
「面倒だからやりたくねぇってか!? ふざけんてんのか!!」
――後から河原さん本人に聞いたところによると、見積もりになかった「主人公たちの拠点となる空中要塞のフル3D描画」を要求されたらしい。当然、見積もりにはないものなので断ろうとしたのだが、伊佐崎がそれに対して突然キレだした、という――
「……契約に無い話だからって言ってんのに、クリエイターのプライドがどうとか言われてさ……」
河原さんがそう言った時の力のない笑顔が痛ましかった。
「……契約違反じゃないですか普通に。それどーするんですか?」
「ねぇ。どうしたものか」
河原さんの達観した表情は「もうどうにでもなれ」と語っていた。
実際のところ、現場レベルのプランナーでは対処できない話だ。当然、この話は問題として上層にあげられた。
――ところが。
「……本当にすいません、あいつマジ気の効かないやつで……」
ディレクターの田山が、伊佐崎に謝罪して河原さんを一方的に悪者にし、なし崩しにその仕様を受け容れてしまったのだ。
「コミュニケーションが大事、か……」
田山は伊佐崎と飲み歩いては、ガモノハスのメンバーの悪口を吹きこんで自分を売り込むことに余念がなかった。伊佐崎の言ったことにはすべて「いいっすね!」と喰い気味に賛同し、伊佐崎の要望はすべて現場に丸投げした。
そして社内のスタッフには「いや~、仕方ないよねぇ、プロデューサーが言うからさぁ~」という態度をとる。
確かに、大したコミュニケーション能力かもしれない。
その一方で、河原さんの評価はどんどんと下がっていった。しかし、実際に仕様について話し合いをしているのはほとんどこの河原さんなのだ。
空中要塞の3Dモデルの件を仕方なく受け容れ、河原さんはそのシーンの仕様について、伊佐崎と話し合いながらまとめていった。
「……で、このシーンで街での買い物メニューがありまして……」
「うん、で、この仕様の意図は?」
「……え?」
「意図だよ、意図」
「……いや、メニュー画面ですから、意図とかそーいうのは……」
「いや、意図が明確になってなきゃだめでしょ」
伊佐崎はたびたび、ガモノハス側のプランナーにこういうことを要求したらしい。困惑する河原さんに、伊佐崎は言った。
「それじゃ、この仕様の意図について、レポート提出して。Word2~3枚くらいで」
そうして、仕様書がないことに憤るプログラマたちの横で、プランナーたちは伊佐崎に提出するレポートを書くことになった。
次の締切、α版プログラムの提出は、残り3カ月。
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※バックデート
…実際の日付よりも契約日時を巻き戻して記載すること。
4月10日に合意して締結された契約でも、3月1日と記載すれば3月に遡ってその契約の内容が有効になる。
※人月コスト
…開発に際し、「1人の人間が何カ月かかるか」という形で見積もりをすること。
たいていの場合、会社ごとに1人月=○十万円という形で単価が決まっており、これにプロジェクトの総人月数をかけたものが「予算」となる。
当たり前だが、1人月かかる機能の開発を30人がかりでやれば1日で終わる、なんてことはないのである。
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