五月 空洞です
礼は、放課後、半紙に向かっていた。
ゴールデンウィークが終わったばかりで、まだイージーモードなので、放課後、書道部に来ている人は、礼と、大会に向け作品を仕上げている高三の吉永と板倉の三人だけだった。4月は、初々しい一年生が入ってきて、学校は一気に華やかになる。しかし、5月に入り、皆が部活に入る頃には学校は落ち着きを見せていた。
「均衡」
礼は呟いてみる。
異物が入った時、一度、拒否反応を示すのは学校という組織においても同じことで、最初は、今年の一年は生意気だの、二組にイケメンがいるだの様々な噂が流れる。しかし、時間が経つと角というものはとれて、噂も消えてしまう。学校という組織の一部に吸収されるのだ。このイメージが頭に浮かぶ時、礼は必ず、"ハウルの動く城"にでてくるガラクタでできた城を思い出す。
この一つの部品がかけたらどうなるのだろう
と、礼は時々考える。
頑丈なように見えて実は脆いもの
そんなものが溢れているのではないかと礼は思う。
礼は半紙に筆から水滴になって墨汁が落ちるのをみて、一画も進んでないことに気がついた。硯で軽く筆の墨汁を落として、筆を置くと軽く息を吐いた。
何が威風堂々だ
礼は自分が模写しようとしていた文字に毒づく。
書道部は月、水、金曜日の放課後、17時30分までの間の、好きな時間にきて、冊子にある手本を真似たり、作品を作ったり、気が向いたら顧問にアドバイスをもらいに行ったりする、ゆったりとした時間の流れる場所だった。顧問の前田先生は、リラックスした状態でないと、芸術は生まれないと言う。前田先生は生徒からまえじーと呼ばれる初老の芸術科教員で、昔は展覧会にも出展した書道家のようである。
礼は手本のまとまった冊子をめくった
初志貫徹、有言実行、快刀乱麻、質実剛健...
一つ一つの言葉が重く、礼は冊子を閉じる。時計はまだ16時30分をまわったところだったが、書道セットの片付けを始めた。片付けを終え、立ち去ろうとしたところへ吉永が声をかけた、
「岸田、もう帰る?」
礼は、急に呼ばれたことに戸惑いうまく返事ができなかった。
「岸田...でいんだよな?」
「はい、岸田です」
「これ、新しく入った橘に渡しといてくれる?」
そういって、6月に行われる書道のコンテストのチラシを吉永は礼に差し出した。
「あれ、橘と同じクラスだよね?」
「はい...ですけど、橘くんは部活に結局来てないし出ないんじゃないですか?」
礼は少し不満な顔をして答えた。
「ほら、まえじーが芸術の扉がなんちゃらってうるさいから持っていっといてよ」
まえじーは"芸術の扉は万人に開かれてはならない"と、どこからとってきたのか分からない格言をよく口にするのは礼もよく知っていた。
「分かりました」
礼は素っ気なくチラシを受け取り、そのまま教室を出た。
グラウンドから運動部の生徒の声がするのを聞きながら、礼は校門を出る。
岸田...
礼は呼ばれ慣れていない苗字を小さく繰り返す。
礼は三月まで"望月"だった。両親が離婚し、母親に引き取られたので、母親の旧姓の岸田に変わったのだった。礼の父親が他に好きな人ができて...つまり浮気が原因だった。これまで礼は家族が円満だと思ったことはなかった、喧嘩も絶えなかったし、笑いあった思い出も少ない、でも、不恰好なりに均衡は保たれていた気がしたのだ。しかし、ある時、携帯の着信があまりにも続くので、礼の母親が携帯を父親のもとに持って行こうとしたら、そこに表示された女性は礼の母親の知らない女性であった。この時、一つのピースが外れてしまった。一つ外れると二つ三つと崩れ落ち、三ヶ月もしない間に、礼の父親は出て行った。最初から均衡なんてなかった、ただの、中が空洞の筒のようなものだったんだ礼は思った。
皮肉にも礼の父親が好きだったバンドも最後のアルバムで"空洞"と歌い解散してしまった。
空洞、空洞、空洞
礼の頭の中で何度も響いている。
だが、名前が変わったからといって、礼の学校生活が一変することはなかった。礼は目立つタイプの人間ではなく、もともと礼の名前を知っている人など限られていた。ただ、誰にあてるでもない気持ちを礼はもてあそびながら礼は毎日を過ごしていた。
坂を下り、大通りに出て、そのまま歩いて行くと川をこえる。川沿いには桜並木が続いているが、もちろん、花はもう散っていて緑の若葉が茂っている。その下に礼は橘守の姿を見つけた。守は、川沿いにあるベンチに座り、景色を見るわけでもなく、ぼんやりと周りの景色を見ていた。その表情は憧れとも、失望とも異なり、あたかも風景の一部のように馴染んでいた。
礼は
"Natural"
だと思った。
クラス、部活が一緒だといっても、礼は守と個人的に話したことがなく、普段なら素通りしていただろう。チラシは明日にでも、机の中にでも入れておけばそれで済む話だ。しかし、その時は礼は投げやりで、どうでもいい気持ちだった。礼の足は守に近づいていて、すでに守の視界に入っていた。
守は虚ろだった目を顕微鏡のピントを合わせるかのように機械的に動かし、礼の方を見た。
「俺になんか用事ある?えっと、、岸田?」
礼は、我に帰り、守に名前を呼ばれたことに驚いた。
「あ、えっと、部活...でないの...?今日とか明日..」
礼はバラバラになった言葉を発した
「うん」
素っ気なく守は返す。何か話さなければと、沈黙を埋めるために礼は言葉を続けた
「...何してるの?」
「時間潰してる。まだ親にはバスケやってることにしてるから時間調節かな」
守はベンチから立ち上がり、ズボンを払いながら答えた
「じゃあ。また」
「あ、これ」
礼は、チラシのことを思い出し、バッグからチラシを出した。
「まえじーから」
守は受け取ると軽く頭を下げて立ち去っていった。
礼はしばらく動けなかった。まるで文化祭の後のように、嵐が去った後の静けさが礼を包む。
空洞、空洞...
また音楽は、リフレインし始める。
しらない 葵羊(アオイヒツジ) @toto
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