epigone
淡島ほたる
parade.
あの、白い花の降る夜道。甘ったるい花の匂いがして、すんと息をすったあの日。月明かりに照らされたあの道で、私はスワローに言われた言葉を反芻する。思い出せば思い出すほど、スワローの輪郭はゆるく溶けていく。溶けて溶けて、きっとすこし時間が経てば、忘れてしまうんだろう。
彼の残していった言葉たちは、はた迷惑な置き土産のようだ。
一
細い道をいくつか折れ、白い花の咲きみだれる教会を右に曲がったところにラウンジ『晴天』はある。
緑に色づく蔓草にうもれた建物の二階だ。一階には質屋が入っていて、夜あけに帰り支度をしていると、店主の怒鳴り声が聞こえてきたりする。なんだかこの建物は社会の縮図だなと思いながら、そそくさと通報したことがいままでに何度かあった。けっこう治安がわるいのだ、このへんは。
かんかんかん、と螺旋階段をのぼる。年季の入った銀色の扉を開けてバックヤードに入ると、数種類の煙がまじった匂いがした。同僚にはなぜか喫煙者が多い。そりゃあストレスがたまるからだよ、と喫煙者に属するオーナーは笑うけれど、そんなに単純なものなのだろうか。
「おはようございまあす」
挨拶をしたものの、だれもいなかった。買い出しにでも行っているのかもしれない。荷物をおろしてふと部屋を見回すと、あまりの惨状にげんなりした。化粧品、脱ぎちらかしたドレスにヒール、櫛、白い毛布。ワインの空き瓶、酒の入ったグラスにクッキー。いつものことながらオフィスルームはひどい散らかりようで、自宅よりも緊張感がない。
はあ、とため息をついて、とりあえず近くにあったグラスを洗う。翡翠色のグラスには、底のほうに溶けかかった氷がしずんでいる。さっと中身を流して手を拭いてから、黒いテーブルに置かれている日誌をひらいた。連絡事項のほかにらくがきまで書いてあるこのノートは、日誌というよりほとんど雑記帳みたいなものだ。
書かれてあることのたいていはろくなものじゃない。クレームだとかクレームだとかクレームだとか。『あの子の対応が冷たかった』『もうすこし露出させろ』『時間外に対応してくれない』など。くだらなすぎるからだいたいは見ないんだけど、きょうは特別だ。昨夜のオフィスルームがとても騒がしかったから。どうやら今夜、年に一度の上客がやって来るらしい。
きょうのページをひらく。ずらりとプリントアウトされた顧客情報をみながら、こんなに簡単に知れてしまうのも考えものだ、と思う。うちの店はプライバシーにかんして心底だらしがない。それなのに毎日かなりの数の客が来るから謎だ。
「なになに? 団体四十名、来店目的は視察、ね。ほほお、なかなかの屑とみた」
後ろからよく通るきれいな声がして、振り向くとユーマだった。ユーマは、「おはよ」とわたしににっこりほほえみかける。彼女が身につけているすみれ色のブラウスから胸元がちらりと見えて、わたしはぎゅんと視線を上にあげた。目の毒だ。
わたしがこの店に来る数年前から働いている彼女は、気さくで話しやすくて、そしてかなりの毒舌だ。
「軽蔑ものね」ユーマは日誌をまじまじと眺めると、ひらいたままテーブルに戻した。
「これ、オレンジマフィン。差し入れでもらったんだよ、食べる?」
小さな水色の紙袋を揺らしながらユーマが訊いた。頷きかけて、でももうすぐ開店しちゃうな、と思い留まる。首を振ると、じゃあ終わったあとに食べな、と手のひらにひとつ可愛いマフィンがのせられた。
お礼を言って受け取ると、「あ、思い出した。この人たちさ、毎年このごろになると来てんのよ。男前がずらりとね。今回は幹部が十人か、ふうん」そう言って彼女が名前を読み上げ始めたので、わたしはあわててノートを閉じた。
「ユーマ。こういうの、あんまり音読しないほうがいいんじゃないの?」
一応たしなめると、ユーマは「リエンは心配性だねえ。だいじょうぶだいじょうぶ、こんな店に来る時点でお里が知れてるでしょう」と元も子もないことを言う。
「えー、団体四十名様。 飛行船を乗りついで、今夜二十二時にこちらに到着予定。視察ってことにはなってるけど、ほとんど物見遊山だね。純粋に気持ちよく飲んで帰ってもらえたらそれでいい」
上客だから、くれぐれも失礼のないように。
そう締めくくった店の主であるサンザに、わたしたちはそれぞれおざなりな返事をした。どんなお客にもせいいっぱいの対応をしろ、くらい言ってくれたらいいのに。わたしはすでに憂鬱な気持ちになりながら、ぱたぱたと
店内は暗いから、化粧は濃いめにしておくこと。頬紅はあかるめに。お客様に、はっきりと認識してもらえるように。
先輩からおしえられたそのしきたりを、わたしは軽やかに破っている。うまれつき真っ青な髪の毛はおろして、毛先だけをゆるく巻く。白に塗った顔をなるべく隠すためだ。深い紫のアイシャドウを、まぶたの上にすこしだけのせる。
「リエン。きみ、死人みたいだよ」
いつかオーナーにそう笑われても、わたしは聞かなかった。彼はときどき配慮に欠ける部分があるものの、ほかの人よりもはるかに欠陥品であるわたしを雇ってくれている時点でかなりのお人好しだ。
となりで煙草をすいはじめたユーマが、わたしの肩にもたれかかった。ふわふわと柔らかな金髪を揺らしながら「言われなくてもわかってるよねえ」と同意を求めてきたので、サンザにばれないようにこっくりと頷く。ユーマがすこし動くたび、みずみずしいホワイトジャスミンが香った。煙草のけむたさがまじって、空気が妙な具合になる。わたしはこっそり窓を開けた。
「あ。リエンも、すう?」
訊かれて、わたしは首を横に振った。お客にすすめられたら貰うときもあるけれど、自分からはあまりすわない。
彼女は、そう、と短く答えて煙を吐きだした。横顔が春の夕方のようにすずしげだ。おなかがすいたとき用のチョコレートをひとつ摘まんで、わたしは化粧を再開する。ユーマはあいかわらずきつめの煙草をすぱすぱとふかして、ありとあらゆる自身の信条、お客の悪口、偏見のたぐいを口にした。
「きのう来たピンクのシャツ羽織ってるちょびひげ、なぐってやろうかと思ったわよ。リエンもなんかされたら任せな。やってやるから」とても頼もしい女性なのだ。
わたしはユーマの清々しさがすきだった。臆さずになにもかも言ってしまえることすべて、まぶしかった。したたかで、素直で、ほかのものを寄せつけない。いつかわたしがそれを言って、彼女が「リエンと結婚しようかな」とまじめな声音で返したとき、それもいいなと本気で思って、そのあとふたりで笑った。
からんころんとベルが鳴って、木の扉が開いた瞬間、どっと客が流れこんでくる。いっしょに寒気も連れてくるから、さむくてさむくて、たまったもんじゃない。
「毎年ながら葬列みたいなんだよねえ、あの星の服は。ていうか、ここで雇ってるボーイと見分けがつかないから困るわ」
まーあっちの星の異性はみんなそろって男前だけど、とユーマは猫のようないたずらっぽい笑みをもってつけ足した。
たしかにこれは、とわたしは目を見張る。何十人という黒服の人間が列をなして入ってくるさまは、圧巻で異様だ。
「ハロー、リエン」
肩を叩かれて振り向くと、サンザだった。彼は普段よりもずっときれいにととのえた長い顎髭を撫でながら、「いつもよりぐっと顔色がわるいけど、大丈夫かい。死ぬんじゃないの」と失礼なことを言った。
「死にはしません。大丈夫です」
わたしが憮然として答えると、「ふふん、そんな顔じゃあないんだよねえ。まあいいや。あっちの席に着けばいいから。おそらく彼は、静かな人だ」そう耳打ちされ、はいと答えて伝票をつかんだ。
サンザが指さした方向―—壁ぎわの一番奥のソファで、つまらなさげに座っている銀髪の若い男がいた。わたしはとりあえず、「どうも」と笑ってその客の横に腰を下ろした。えんじ色のソファーがかすかに軋む。
この店は、こういうところがだめだと思う。ひとつずつボタンを掛け違えたような趣味のわるさが見えかくれしているところ。
ちょっと時代遅れの型のシャンデリア、やけに光がつよめのミラーボール。それから、とっくに壊れているのにそのままになっている、場所をとるだけのジュークボックス。
男は、狐に似ている。
目が細くて、鼻筋が通っていて、唇がうすい。そして、青みがかった瞳が揺らめいている。冬の夕方に焚いた、けぶる火みたいに。こういう人はきっと楽だ。あまり話さないし、こちらを詮索してこない。
「リエンといいます、あなたは」
そう尋ねると男は「スワローテイル」と短く名乗った。長いからスワローで良い、とも。
スワローテイル。
たしか、どこかの星で渡り鳥を意味する言葉だったなと、埋没していた記憶を引っぱり出す。ずいぶん昔に学校でおそわった。黒と白のすがたをしている、賢い鳥。たぶんあの鳥のことだ。
いい名前ですね。そう言おうとした矢先だった。スワローが仕立ての良いネクタイを鬱陶しげにゆるめながら、「なあ」と呼びかけた。
「いっこだけ訊いていい? 他はあんたに、なにひとつ興味ないからさ。大丈夫だから」
なにが、大丈夫、だ。感じわるい。売られた喧嘩なら買ってやる。そう意気込んだわたしを見透かしたように、スワローは短く息をついた。
「……リエン、だっけ。あんた、
彼がいたわるように尋ねたので、わたしはちょっと面くらった。見下されるのも同情されるのも慣れているけれど、スワローのいまの声は、どちらにもあてはまらない気がした。腹が立つよりさきに、わたしは答えに窮してしまう。スワローの長い前髪からのぞく、するどい眼光のせいだ。
「……初対面のあなたに話す意味が、わかりません」
膝にお行儀よく載せた手がかすかにふるえる。なんでこのいけすかない男に、わたしの過去を話さないといけないんだ。こいつに気を遣われるのなんか、まっぴらごめんだ。
「ああ、あんた、そこで怒るんだ。分かりにくいね」
ふっと彼の表情がゆるんだ。わたしだって意味が分からない。思わず手に力が入る。
「訊かれたくないことを、初対面の人間に、それもきらいな人に訊かれたら、だれだって怒りますよ」
そうね、とスワローは頭をがしがし掻く。
「怒らせるつもりはなかったんだけど。気に障ったなら、ごめん」
そっちから訊いたくせに、そんな謝り方をするだなんて、どこまでも勝手だ。
あれ、とわたしはスワローをまじまじと見つめてしまった。心なしか横顔が困っているようにみえる。こんなやつにも、良心のたぐいがあるのだろうか。もっと困ればいい、とわたしは心の中で念じた。
「俺は、お暇するから。あんたは少し休んだほうがいいよ」
彼が立ちあがった瞬間、シトラスの匂いがふわりと鼻を抜けた。どこまでもいけ好かないやつだ。どうせなら匂いがきついことで有名な銘柄の香水でもくれてやろうかと考えたが、さすがに礼節に欠けるだろうと思いなおした。
扉をぐんと押すと、夕方よりも濃い冬の香が胸に飛び込んできた。夜のあたらしい空気を肺までたっぷりとすいこむ。スワローはわたしの脇をするりと通り抜けて、さみいな、とつぶやいた。手をすり合わせている。
「あれ、なんでついてきたの」と不思議そうに訊く彼に、「不服ですけど、見送りも仕事だから」とそっけなく返す。スワローは起き抜けのような目をしたまま「ふうん、おまえも大変だね」とそこまで感情のこもっていない声で言った。
世界のすべてを知っているような顔をしているくせに、このひとはまだなにも知らない。やけに湿度の高い風のなかで、わたしは彼の目をみた。夜光にひかる、刃のような瞳を。
「わたし、何度あなたに会っても、優しくできる気がしないんです」
「いいよ、べつに。ていうか敬語いらねえよ。どうせ歳もたいして変わんねえだろ」
装ったドレスが風に揺れる。群青色の裾が邪魔だ。ふと、わたしは魚みたいだと思う。
スワローはちがう。スワローは、きっと自由だ。自由なくせに、なんでそんな瞳をするの。なんでそんなに、餓えたまなざしをするの。
「……もう、来ないで。あなたに会いたくないの。二度と」
じぶんの心臓あたりに両手をあてて、深くふかく息を吸って、言った。スワローを見ていると、思い出してしまう。慎重に奥底へ仕舞いこんだものを、開けられてしまうような気がするのだ。
彼は柔らかく笑って、そうか、とこぼした。
空から金色の星が零れてくる。淡い闇を裂くような光が、視界に灯っては消える。点滅して失って、また光って、そして。
「なあ、また来るわ」
そう言い残して、スワローはあの夜から遠のいた。黒い影が離れてゆく。
涼しげな三日月のもとで、彼が一瞬だけ透きとおってみえたのは、気のせいだろうか。わたしは不本意ながら、彼のことをすこし、ほんのすこしだけ、焦がれているのだ。
epigone 淡島ほたる @yoimachi
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