魔王と黒猫

日暮奈津子

魔王と黒猫

 むかしむかし、ある世界に魔王がおりました。

 魔王はちっぽけで生意気で無知蒙昧な人間が大嫌いだったので、毎日毎日、人間どもの街や国に戦争をしかけて滅ぼしていました。

 真っ正面から戦いを挑むだけでは芸がないので、人間どもの愚昧さを存分に発揮させてやろうと、ご立派で高潔で正義づらした英雄や皇帝達の心の闇に囁きかけてはその仮面を引きはがし、絶望して破滅への道を自ら転がり落ちてゆくのを見ては大いに笑っていました。

 今日も魔王は、そんな国王が見捨てた人間どもの住む街を、魔物の軍勢を率いて完膚なきまでに蹂躙しました。

 さして少なくもない数の人間どもが街には残されていましたが、強大な魔王の軍勢の前にはひとたまりもありません。

 申し訳程度に居残っていた守備隊もあっさり全滅し、凶暴な魔物たちに追われて、住民たちは虫けらみたいにちりぢりになって逃げてゆきました。

 あとに残ったのは、がれきの山。

 潰れた家に、壊れた家具に、割れた食器に、荷車に……それから、もとは何だったのかわからないような人形やおもちゃ達。

 ゴミくずみたいなものばかりが目の前に散らばっています。

「なんて汚らしいんだ」

 魔王はそう言って、ねじくれ曲がったかぎ爪の生えた大きな黒い手をぶんと一振りしました。

 たちまち、轟音とともに真っ黒な嵐が吹き荒れて、人間どもの残したがれきは全部どこかへ飛んでいってしまいました。


     *     *     *

 

 その夜、魔王の軍勢は、滅ぼしたばかりの街で勝利の宴を開きました。

 捕まえてきた人間の若い女たちを好き放題にもてあそんで、地下室にこっそり隠してあった酒樽を引っ張り出してきて浴びるように飲み干します。

「どうぞどうぞ魔王様も。とびっきりの美女とうまい酒をお持ちしました」

 もみ手をしながら人間の女と酒樽を捧げにやってきた魔物を、魔王はぎろりと睨みつけました。

「ふん。この俺がそんなくだらんものを欲しがると思ったか。俺はそんなものは嫌いだ。人間の女はうるさいし、人間の酒など臭くて飲めた物ではない。全部、貴様らにくれてやる」

「これはこれは、さすが魔王様は太っ腹でいらっしゃる」

 お追従を言う魔物を置き去りにして、魔王は国民を見捨てた国王の住んでいた城の跡地へ向かい、崩れかけた城壁の上に寝っ転がってごうごうと大いびきをかき始めました。

 魔物どもはそれを見て喝采し、宴はますます盛り上がりました。


     *     *     *

 

 ところが、魔王は眠ってはいませんでした。

 なんだかこのごろ、よく眠れないのです。

 眠たくないわけではありません。

 眠りたいのに目ばかり冴えて、ちっとも眠りにつけないのです。

 あんなにうまかった人間の肉もおいしくないし、酒も飲みたいと思いません。

 でも、まさかそんな様子を部下に知られるわけにはいきませんから、毎晩毎晩、大いびきをかいて寝たふりをしていたのです。

 今夜も、そうして城壁の上で、ただ横になっていました。

 すると、魔王の足元でこそこそと小さな気配がしました。

ーーなんだ? 生き残りの人間か? ばかなやつだ。お前などこの指先で簡単に潰してやる。

 ところが、そこにいたのは人間ではなく、もっともっと小さな子猫でした。

 黒い子猫は壊れた城壁をよじ登り、どういうわけか、魔王の顔の真ん前までやってきました。

 そして、そこで丸くなって、すうすうと寝息をたてて眠り始めたのです。

ーーこいつはいったい……

 魔王は呆れました。

 いくつもの街と国を滅ぼして、幾人もの英雄達を絶望の奈落へと叩き込み、何千何万もの人間を死に追いやった、恐怖の魔王の前だというのに。

 でも、そんなことは、この黒猫には関係ないことだったのです。

 ただ眠たくて、ここが寝心地が良さそうだったからなのです。

 そんな黒猫の寝息を聞いているうちに、魔王もいつの間にか眠りに落ちてゆきました。


     *     *     *

 

 翌朝。

 明け方近くまで祝宴を開いていた魔物たちがまだぐっすりと寝ている早朝に、魔王は一人で目を覚ましました。

 城壁の上に、ゆうべのあの子猫はいませんでした。

 かわりに転がっていたのは、もとが何だったかすら判らないぐらいぼろぼろになった黒猫のぬいぐるみだけでした。


     *     *     *

 

 そんなわけで。

 今日も魔王は、ちっぽけで生意気で汚らしくて無知蒙昧で大っ嫌いな人間どもを根絶やしにすべく、強大な魔物の軍勢を率いて、この世界に死と恐怖と絶望とを振りまいているのです。

 ぼろぼろになった、猫のぬいぐるみを握りしめて。

 


          (おしまい)

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魔王と黒猫 日暮奈津子 @higurashinatsuko

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