第5滴 グレン2
「邪険にされていたことは分かっていた」
「邪険?」
10年ぶりに見る姫の姿に、昔の面影はない。美しく透き通るような金髪は、血塗られた紅に変わっていた。少し虚弱さを感じさせていた白すぎる肌は、赤黒い硬い皮膚に変貌していた。
「君の父上のことだよ。君の結婚相手とはいえ、彼は僕のことを鬱陶しがっていた」
「何の話? ねぇ、せっかく会えたのにどうしてそんなに怖い顔をしているの?」
姫が1歩ずつ、僕に近づいてくる。醜く曲がったその口の端から、腐乱臭が漂っていた。その牙で、姫は自分の父親を手にかけたのだ。ずっとずっと、自分を虐げていた存在を。
「……僕は、自分が疎ましがられていたことくらい分かっていた。だけど耐え抜こうと思えたのは、プリシア――君がいてくれたからだ」
姫が僕の顎をなぞった。赤い瞳が、文字通り血走っている。
「かわいそうなグレン――もう、我慢することなんてないのよ。私たちを縛るものは何もない。さぁ、あの時の約束を果たしてちょうだい」
「王子!」
ココノエが叫んだ。甘えるような声はあの頃から変わっていない。
「自分を保っていられたのは――君が、君らしくいてくれたからだ」
「何ですって?」
鞘から、光の剣を取り出す。その眩しすぎる光は、魔族の瞳をくらませた。
「ぐっ」
「プリシア――いや、吸血鬼よ! 僕は今ここに、貴様を討伐する!」
剣先が、目標に向かってまっすぐに伸びている。
僕の決意と、同じだ。
「どう――して?」
プリシアが、心外だとでも言いたげに僕に言った。
「どうしてそんなものを私に向けるの? 私は、約束を果たしに来たというのに」
「……」
「あは、分かったわ! サプライズのつもりなんでしょう? 私を試しているのね。平気よ、どんなことがあっても、怖気づいたりしないわ。グレン、あなたさえいてくれれば、怖いものなんて何もない」
「吸血鬼。貴様は光の魔法が錬成されたこの剣が恐ろしいはずだ」
「え――」
剣を強く握った。チチ、と小鳥がさえずるように、小さく啼いた。
「……本気だよ。僕は君を、殺さなければならない」
「どう――して?」
同じ言葉を繰り返すその瞳は、焦点が合っていない。
「君が一番よく分かっているはずだ。君が――魔族だからだよ」
剣を構える。至近距離なうえに、吸血鬼は茫然自失だ。外しようがなかった。
僕は、吸血鬼の首に向かって、剣を――。
「魔族……? 人間? そんなものが一体何だっていうの?」
「なっ!」
右足を踏み込んで斬りつけさえすれば、すべて終わるはずだった。しかし、僕の脚は、長く伸びた吸血鬼の腕に絡めとられて動かない。
「手足が――伸びた?」
「そ、そんな能力を持っていたのか! 王子、ここは私が――」
「手を出さないでくれ、ココノエ!」
ギリ、という鈍い音が足元で響いた。僕を絶対に離さないという意志、部外者を寄せ付けない信念とでもいうべきものを感じた。
安心するがいい、僕も付き合ってやる。
「これは、僕の問題だ」
「王子……」
「人間だろうが、魔族だろうが、そんなことなんてどうでもいい! 大切なのは愛し合うこと、希望の未来へと歩んでいくこと、そうでしょう?」
「それは違う。あの頃、僕たちはまだ幼かった。恐怖に打ち勝つ方法も、この世界の理も、大人になるということがどういうことかも、なにも分からなかった! けれど、長い年月を経て、僕は分かったんだ! 君も分かるべきだったんだ! この世界の裏と表、してはいけない禁忌のことを!」
「嘘よ、うそ――」
吸血鬼の紅い瞳から、涙が流れる。その色は、黒く濁っていた。
「……僕はもう、君を愛することはできない」
「……あなた、グレンじゃないわね?」
吸血鬼の邪気が増大する。縛られている右足から、蟲が這うように悪寒が上ってきた。
「……!」
「グレンは私の婚約者よ。大事な大事な、世界にたった1人の王子様――私が生きてこられたのは、彼との約束があったからだった――16歳になれば、正式な大人として認められ、婚姻を結ぶことができる――そのために私は戻ってきたのよ。グレンと私だけの、平和な国をつくるために!」
吸血鬼が、もう片方の手で、僕の心臓をつかんだ。痛みの理由を考える時間すらなかった。
「グレンはどこ? グレンを、どこに隠した!?」
「君は、変わってしまったんだね……」
「グレンは私に剣なんか向けない! 私を否定することなんて絶対に言わない! あなたは偽物よ、まがいものよ!」
「あの頃の僕らは、もうどこにもいない」
「くっ」
吸血鬼は白銀の剣に咬みつくと、顎で勢いをつけ僕の後ろへと放った。力なく回転した剣は、なにかの道しるべのように真っ逆さまに柔らかな土の上に刺さった。
「王子!」
ココノエの声が聞こえる。大丈夫、僕は魔法薬を注入している。そう口にしたつもりだったけれど、聞こえているかは分からない。
「グレン、グレン――愛しているわ。私のものに、なって」
再び吸血鬼の眼から光が消えた。呼びかけるその名は、僕に向けられていないことくらい分かっていた。
彼女は夢を見ている。醒めない、美しすぎる悪夢を。
あるいは、僕もそうかもしれない。
「ねぇグレン?」
甘えるような声で、吸血鬼は言った。
「あなたも薬を注入しているの? あなたも、私を拒絶するの?」
「当たり前だ。僕は君を殺しに来た」
「だったらなぜ、そこで固まっているの? なぜ、もがいて逃げ出そうとしないの?」
分からなかった。自分の気力が尽きてしまったのか、人間を虜にするという吸血鬼の能力のせいなのか、分からなかった。身体にも心にも、力が入らなかった。
「分からない」
「何が夢で、何が真実か、あなたには分かっているの?」
「分からない」
「誰が人間で、誰が魔族か、分かっているの?」
「分からない」
「何が正しく、何が間違っているか、分かる?」
「分からない」
「何が愛で、何が孤独か、分かる?」
「分からない」
「確かめてあげる」
彼女の紅い舌が、僕の首筋を這う。
大丈夫、薬を注入したはずだ。彼女の愛は、僕には届かない。
あれ――でも、本当にそうだったろうか?
本当に僕は、薬を――。
「あなたを、吸いつくしてあげる。骨の髄まで――最後の、1滴まで」
考えるのが面倒になってきた。僕の意識は、ただまっすぐに――。
彼女の紅い瞳に、吸い込まれていた。
呪血ノ姫 @moonbird1
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