『商業作品とWEB作品(主になろう系)はどこがどう違うのか?』は現代の創作には必要な問いかけ
まずここでの話を進めるために形式的に言葉の意味を定義するが。
とりあえず『商業作品=最初から出版社等が関わって作られた作品』『WEB作品=WEBの投稿サイト等で人気になって(書籍化された)作品』という前提で話すけど。
以前から何度か似た話は書いてきたが。
自分の中で『ライトノベルとなろう系(WEB小説)の違いはどこにあるのか』は結構重要なテーマだったんですよね。
本来ならWEB小説は単純にWEBに載せられた小説というだけだから、そこまで違いがあることの方がおかしいはずなのだが。例えば一見すると似たような形の作品でも明らかにWEB小説と商業小説では展開とか読者層とかが違うわけで、そこには大きな意味があるはずで重要だと思うのだけど。
自分としてはラノベとWEB小説に明らかに違いはあると思ってるし、それまでの時点でもそれなりに違いは言語化出来てたつもりだけど、最近そこから一歩踏み込んでちょっと思ったことがあって。
それは、
「君は世界を救う勇者になりたいのか?」
という主人公と読者への問いかけが重要なんじゃないの? ということなんです。
凄く抽象的な言い方だけど。
話は変わるけど、最近ちょっと自分好みの商業系の某ミステリー作品があって、デジタルで本も買って楽しんでたんですが。
でも、もう読まなくなったんですよね……。
その作品は、序盤は普通に主人公の身近で起きた事件やらの謎を解き明かす展開で凄く面白かったのだけど、暫くそんな展開が続いた後、いきなり『事件の裏には謎の闇の組織があり、事件に関わったことで主人公も組織と対立することに!』という展開になっていったんです。
主人公と闇の巨大勢力との対立展開です。
その瞬間「あっ……(もういいかな)」と思ってそっと本を閉じたんですよね。
どうしてそう思ったかというと、簡単に言えば「そういうの求めてなかった……」ってな話なんですけど、もっと創作の観点から考えていくと『君は世界を救う勇者になりたいのか?』という問いにぶつかると思っているんですよ。
つまり『それを読む読者に英雄願望があるのか』というか、読者が英雄譚を好きかどうか、と言い換えてもいいけど、それが好きか嫌いかの要素がかなり重要だと思っていて。
物語ってジャンルはなんであっても、まず問題が起こり、それを誰かが解決していくことで物語に起伏が生まれるわけで、やっぱり作中に『問題』自体は起こさなくてはいけないわけです。
重要なのはその『問題』に対する主人公の立ち位置とアプローチ方法であって、主人公にどういう形でその問題と関わらせるかによって物語の見え方やストーリーそのものが変わるわけなんですが。主人公というのは当然ながらその物語の主役じゃないですか? その物語の中心だからこそ主人公になっているわけで。なので古来からほとんどの物語で主人公は物語の中心に置かれていたし、作中で『問題』が起きるならその問題の正面に置かれ、先頭に立って問題解決するのが普通だったわけです。
主人公が物語の中心にいて問題を正面から解決するってのが大昔から物語の基本構造だった。
様々な童話でも古典でも大体そうなっているはず。
桃太郎で鬼を退治するのは主人公の桃太郎であって、猿や犬やキジが主人公になることはまぁなかったわけ。
というか、英語で『主人公』は『Hero(英雄)』とも呼ばれたりするわけだしね。
でも、上記のミステリー作品を読まなくなった話ですけど、僕は『多くの人々の命運がかかってしまうような状況に主人公が巻き込まれて責任を背負い込むストーリーは好きじゃない』んで読まなくなったんですが。
つまり、主人公が問題の渦の中心に強制的に巻き込まれて正面から強大な問題と対峙するしかなくなる的な展開があんまり好きじゃないんですよ。
でもこれ、そういう風に思ってる人って最近は地味に多くなっていると思うんですよね。
よく思い返してみてほしいんですけど、ラノベとか大手漫画レーベル作品とかに出てくる(主にバトル系とかの)主人公って、いつも大きな問題の元凶になるような人や組織やら存在と対決するしかない状況に最終的にはなってませんか?
主人公らが戦わなかったらor負けたら世界が終わるとか、気が付いたら悪の組織に狙われていて戦うしかなくなってるとか、クラスの悪い奴と主人公が対立していく流れになっちゃうとか。
みんなが好きだった商業作品、大体そのパターンじゃないですか?
バトルモノでも、ファンタジーでも、意外と恋愛モノでも、スポーツモノでも大体。
それに対してWEB作品系の主人公ってそういう問題の渦中には寄り付かず、問題の外側にいるか。もしくは渦中にいたとしても中心ではない場所にいるか。とにかく主人公が重責を背負わされるような立場にない場合が多いと思うんですよね。
主人公がヒーローor勇者にならないとか、主人公が仲間をサポートする側のキャラとか。
勿論、全ての作品で当てはまると言うわけじゃなくて、傾向的にそういう作品が多いなって話ね。
ドラゴンボールの公式スピンオフに『転生したらヤムチャだった件』というタイトルそのままの内容の本があるけど、これとドラゴンボール本編の関係がWEB作品と商業作品の違いみたいなところがあるかなと思ったり。
最近、大手出版社の漫画にも『なろうっぽく見えるけどなろう系とはまったく違う』と感じる作品がいくつか出てくるようになってきましたよね。なろう系人気に乗っかってる感じでしょうか。
でも見てるとちょっと違和感あったんですよね。やっぱりWEB小説系とは方向性が違うと。寄せてるけどなんか違う感じ。
こういう商業作品って必ずっていうほど大きな問題が起きて、主人公をその問題解決の中心に置いてヒーローにしようとする気がするわけですよ
。なんか主人公にどういうバックボーンがあろうが結局は最終的に主人公が巨悪と対峙しなきゃならなくなるみたいな。
そこが違いなんじゃないのと思ってるんだけど。
個人的にこれがあんまり好きじゃなくなってきたんです。どれもそのパターンの作品ばっかりだから。今から考えると、だからこそなろう系が好きになったし、あんまり商業作品を読まなくなったキッカケのようにも思うんですよね。
でも、ストーリーを作る側の立場から言うと、主人公を問題の真ん前に立たせてしまいたくなる気持ちもまぁ分かるし……。
やっぱり主人公を問題に直接ぶつけて解決させる方が面白い展開にしやすいし、書きやすいんですよね。
たまに「スローライフモノは大体スローライフにならない」と言われるじゃないですか。タイトルとかあらすじにスローライフと書いてるけど、なんやかんやで問題に巻き込まれて主人公が色々と動いて、気が付いたらスローライフじゃなくなってるみたいな。
あれってどうしてそうなるかって言うと、やっぱ本当の本当にスローライフにしてしまうと山も谷もなくなってしまうからなんですよね。
かといって起こした問題に対し主人公を脇役として(つまりスローライフが維持出来る範囲で)関わらせるのって意外と難しいんですよ。
いや、正確に言うなら『難しい』んじゃなくて『脇役として問題に関わらせて尚且つ面白い話にするのがかなり大変』という話でしょうか。
やっぱり能力のある主人公が中心となって問題を解決する展開は書きやすいけど、問題を解決するには能力不足な主人公を上手く立ち回らせながら問題を解決させようとすると足りない能力をどう補うかのロジックを考えなきゃいけないから大変だし、能力が足りない主人公を問題解決の脇役として立ち回らせつつ、それでいて面白い展開を考えるのもしんどい作業なんです。
自作品の話になってしまうけど、極スタ(特に序盤)を書くうえで実は1番大変だった部分がコレで、主人公をそこそこの強さに抑えてる関係上、主人公単体では正面からの大きな問題の解決がまず出来ないから、その中でいかに主人公が活躍出来るか、面白い展開に出来るかのロジックを考えないといけなかったわけです。
上記の僕が読まなくなった某ミステリー作品の話に戻るけど。
この作品の途中から『謎の裏組織』が出てきて、主人公がそいつらの動きに巻き込まれていく展開になった。
これが個人的には好きじゃないんだけど。でも書く側の立場から見たらその展開にした理由は理解出来て……。
いや、だって主人公の身の回りの謎を解決していく展開を続けるのって限界があるじゃないですか? そんな身近に変な事件ばかり起こるわけないから主人公を無理にでも問題の方へ動かさなきゃいけなくなるし。そうなると主人公を日常とはかけ離れた方へ持っていくしかなくなると。
とすると『日常の枠を超えた謎の勢力が主人公を事件に巻き込んでいく』という展開にするのが1番簡単というか、スタンダードな考え方なわけです。
どこぞのちびっこ探偵とか有名探偵の孫みたいに出かける先々で殺人事件と遭遇する特異体質にしてしまうのもいいけど、やっぱそれは不自然ではあって、ある程度の割り切りをもって不自然さに目をつぶって書く形になるだろうし。
昔かなり参考にしてた某創作論の本に「獅子は我が子を谷底へ突き落とし強くするが、創作者も我が子である主人公を谷底へ突き落とすように大きな試練を与える必要がある。その谷底から這い上がってくる過程こそが面白い物語なのだ」的なことが書いてあったんですね。
つまり主人公には大きな問題をぶつけるのが創作の基本だって話なんだけど。
これを自分も昔はかなり意識して参考にしてたし、今でも物語の構造論としてはこれが正しいと思っているけど……。
しかし主人公に問題をぶつけるにしても、別に大きな流れの中央に置く必要はないと思うわけです。別に異世界ファンタジーだからといって主人公を強大な敵とぶつける必要はない。
例えばだけど『俺TUEEE系』とか主人公は大きな試練なんてないように全てを蹴散らしながら進んでいくじゃないですか? まぁ実のところ、こういった最強チート主人公モノとかは『世に多くあるテンプレ的な物語の試練をチートであっさり乗り越えていく』という一種のパロディ的な構成なのだから『主人公に試練が与えられてないのではなく、与えられてはいるけど主人公が強すぎて試練になっていない――というネタをやっている』というのが正解なんだけど。
別にそれも1つのやり方だと今は思うんです。
最近日本でもハリウッドの脚本術的な書籍が脚本家やら小説家を目指す人に人気だったりするけど、このハリウッド型脚本術を緩く解説すると『物語』には一定のパターンがあり、そのパターンは神話の時代から普遍であって、それぞれいくつかのパターンに分類出来ると。
物語は3つのパートから成り立っていてそれを三幕構成と呼び、1章で主人公が置かれている状況の説明をして、2章で主人公に問題をぶつけて葛藤させ、3章でそれを解決する。
つまり、日常を生きていた主人公が人生を変える転機が訪れ、葛藤しながらもそれを乗り越えて成功を掴む流れ。
この中にもいくつかの細かいパターンがあって、面白い物語はそれらのパターンに当てはまるから物語を作る時はそのパターンを勉強して逆算して作れば面白い話になるっていう形。
なので結局のところ上記の『主人公を谷底へ突き落とせ』ってことなんだけど。
じゃあそんなハリウッド式メソッドが完全無敵な完璧戦術なんですか? という話で、最近のハリウッド映画が新しい面白い映画を量産出来てますか? というとかなり疑問があるじゃないですか?
「凄い理論があったとしても誰でも凄いモノが作れるってわけじゃない」ってのは当然の正論ながら、そんなに凄い理論があってお金も人材も集まるハリウッドという環境で新しいモノが量産されないならその理論にもどこか穴があるはずだと思うんですよね。
なのでハリウッドの脚本術も今の時代は妄信しない方がいいのではと感じるところ。
とにかく今の時代『主人公をさも当たり前のように谷に突き落とす展開』を望まない人が昔より増えてる感があるんですよね。
単純な『英雄譚』というモノの需要が減っているというか、人の好みが多様化してニーズが分散している感じで。それが生産がし易いWEB系コンテンツ(主にWEB小説)で生産されて消費されるサイクルが形になっているのが今なんだと思う。
今から考えると一時期の『日常系』のブームもそういう人が増えてきてた流れの一端だったような感じはするのだけど。
なので今の時代の物語って英雄譚的に主人公が率先して問題を解決しなくても別にいいんじゃないの? って思うんですよね。
だから物語に対する考え方を『こういうのが面白いんだ!』っていう固定観念を捨てて一度リセットして最初から考え直してみてもいいんじゃない? って思ったわけです。
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