2024年に小説が消えても驚かない話【過去からの必然性から考える小説の未来】

最近、Twitterで見て改めて納得した話があって。

それは本屋さんからの話で『一昔前は暇つぶしとして本を読む需要があったが、今はあまりない』という話。

昔は通勤通学などの電車内とか、なにもすることがなくてただ電車に揺られている時間というものがあった。だから本、雑誌、新聞などを購入し、その時間を潰すことにしたと。

確かに昔の自分を思い返してみると、通学なんかで電車を使っている時には少年誌を買ってた記憶があるし、子供の頃に旅行なんかに出掛ける時は駅や空港で小説を一冊買ってもらってそれで時間を潰していた。

他にも旅行にガジェット系の雑誌とかゲーム雑誌を買って読んでた記憶がある。


これが変わったのがいつの時代の話か、となると難しいのだけど、恐らく携帯やスマホが出てからの影響が一番大きいはず。

携帯電話の頃は確かに多少のアプリとかはあって多少暇は潰せたようにも記憶しているが、それも『多少』だったし。スマホに関しても、出たばかりの頃はまだアプリも充実してなくてやれることはそこまで多くなかったはず。

iPhoneが日本で最初に発売されたのが2008年で、KindleのAndroid版が出たのが2010年らしいので、日本人の生活様式が変わったのは恐らくこの10年ぐらい、だと考える。

ちなみに携帯ゲーム機についてだけど、初代ゲームボーイの発売が1989年らしいし、ゲームボーイ系は爆発的に売れて普及していたため、厳密に言うなら電車の中とかでの暇つぶしとしてゲームをすることはもっと前から可能だった。が、昔から、ぶっちゃけある程度の年齢になると人前で携帯ゲーム機を使ってゲームをすることに少しハードルがあったと認識していて。多くの人があんまりそういうのはしないようにしていた感があって。この雰囲気は今でもあると思う。

電車内とかでスマホやタブレットでゲームをしている人と携帯ゲーム機でゲームしている人とでは受ける印象が違うと思うんですよね。仮にやっているゲームが同じモノだとしても。

誰もはっきりは言わない、ただの雰囲気みたいなモノだけど。

だから携帯ゲーム機を持っている人でも大人だったら外ではやんない感じ。

そういう認識、ありません?

電車内でチョコを摘むのとポテチを食べるのとでは印象が違うみたいなね。

それ以前に、そもそも昔はゲーム自体『大人がやるもんじゃない』的なふんわりとした空気感があったと思う。

だから昔は一定以上の年齢になると表で暇をつぶす時にでもゲームをすることはなかったと感じる。

で、消去法的に書籍類に行き着いていたと。当時は。

まぁそんな感じがあって昔は通勤通学では多くの人が書籍類を読んでたのは間違いないのだけど、今となってはそんな人はまず見かけない。

仮に書籍類を読んでいる人がいたとしても、それは電子書籍と。


そうなってくると『暇つぶし』としての書籍類の需要は明らかに激減していることになるし、それはもう書籍の必要性が一部なくなってしまったという話なわけで、それはもう生活様式が変化してしまっているので対処のしようがない状況ではないかと感じているのが本音だったりする。


◆◆◆


それでは、生活様式の変化で書籍の需要が変わってしまった、という話をベースに小説というか『物語』というモノそのものを中心に過去から振り返って考察してみたいと思う。


まず大昔の原初の物語というモノは恐らく口伝であったはずで、それが文字の成立によって文章で残すことが可能(壁画とか)になり、木や竹に書き残すようになり、紙の量産によって比較的重要度の高くない文章でも残せるようになった。

この段階において一番効率的に物語を書き残す手段は明らかに文字で、文章によって物語を紡ぐ形であって。そのシステムのこの時代における良さは恐らく複製のしやすさにあったと思う。

文字で書かれてあるのだから、それを書き写すだけでいい。

絵の場合、物語を絵で表現しようとすると時間も製造コストもかなり上がることは確実だし、手書きでの複製がかなり難しくなるし、複製する人の技術も高くないといけないわけで、絵は物語を紡ぐ方法としてはこの時代には適してなかったと思われる。

それから後に印刷の技術が生まれるのだけど、そこに入ってようやく絵入りの物語の量産が可能になってくる。

画家に絵を発注する手間とコストはあるものの、印刷用の木版を作ってしまえば刷るだけなので小説に近いコストで作れたのではないかと想像出来るし、むしろそうなると絵を入れない理由がなくなってくる。絵が入る方がウケるのは当然だし。

日本では絵入りの小説はかなり昔からあったっぽいし、江戸時代には浮世絵(木版印刷)+文章で作られた『草双紙』という形態が流行って子供から大人まで楽しまれていたらしいが、これが現代の漫画の元になったとかなんとか。


しかしここで時代の転換点があったのではないか、と考える。

それは活版印刷の登場。

活版印刷とは、それまでは木や金属の1枚の板に文章や絵などを彫り込んで凹凸を作り紙に印刷していた凸版印刷的なモノから、1つの文字だけが彫られた活字――要するに1文字の印鑑みたいなモノを並べて文章を作り、印刷したら解体してまた別の文章に組み直せるようにしたもので、それでコストが低下し印刷までの速度も上がったと。

これによって西洋では1400年頃に爆発的に本の流通が広がり、価格が下がったことで中流層にも学問が広がったりして革命的な影響があったらしいのだけど。

日本に関しての話をすると、明治時代から活版印刷による書籍が広がってきたらしいが、ここで活版印刷の問題点から書籍類に大きな変化が起こったのではないか、と想像する。

というのも活版印刷はいちいちその文章専用の型を作るのではなく型の文字を入れ替えられることが最大の特徴でありメリットだったので、文字だけの書籍の印刷には最大の効果を発揮するが絵の印刷には向かなかったと。

つまり、活版印刷による文字だけの印刷物と従来の凸版印刷による絵入りの書籍とではコストに大きな差が出来てしまい、絵入り小説が存続出来なくなってしまったのではないかと思う。

実際、上記の江戸時代に人気だった『草双紙』は明治時代に入ってから衰退していって消えたらしい。


つまり、どういう話がしたいのか? というと。

そもそも今の『小説』と呼ばれている文字ベースの物語の紡ぎ方は単純に当時の技術とコストの問題によって成立しただけのモノなのではないか、という僕の推測。

『文字だけで物語を紡ぐという大昔から行われてきた手法がある』と多くの人が知っているから勘違いしやすいだけで、現在の文字ベースの小説というスタイルが定着したのは活版印刷の普及後であって、活版印刷が低コストで文字だけによる印刷物の量産を可能としたから文字だけのコンテンツが成立していただけなのではないかと。

それが100年とか200年とか続いたから文化として成立して浸透しただけで、別に文字だけで(ラノベとか挿絵がある小説も含め)物語を紡ぐ必要性は現時点においては本来まったくないのではないか、という話なんですよ。

今では文字でも絵でも写真でも関係なく印刷出来るオフセット印刷が存在しているので、もうそこに縛られる必要性はなくなっているわけで、そうなってくるとそろそろストーリーの紡ぎ方は次の形態の表現方法に移行してもいいのではないか――

いや、合理的に考えるなら『小説』という枠にとどまる理由なんて本来ないのではないか?

と考えるわけです。


◆◆◆


じゃあ次の表現方法がどんなモノなのか?

という話になるけど、個人的には漫画に近づくのではないかと想像していますと。

基本的に小説→漫画→動画と進むごとに受動的にコンテンツを吸収出来るようになるため、コンテンツを楽しむためのハードルが低くなって読者が増えるんですよね。動画はただ画面を見ているだけでストーリーが入ってくるけど漫画は自ら見て読まないといけないし、小説は読んで理解して自ら想像しないといけないから消費カロリーが高いわけで。なので文字媒体から絵の方に移行していくのだろうと思うのだけど。

でも、そうはいっても「俺は絵なんて描けねぇから!」という人が大多数だと思うが、恐らくそこはAIによって解決されるのだろうなと思ってますと。

最近、落合陽一氏の話で、想定以上にシンギュラリティが近づいていて、あと1年2年でシンギュラリティは起こると、そういう予想をされていて。自分も最近はそういう気がしてきてるんですよね。

つまり、我々に関することで言えば、小説家がAIを使って比較的簡単に表紙絵や挿絵を作れてしまう時代に数年で入るのではないか、という話です。


しかし最近話題の画像作成AIについて、まだ実用段階にないと思うのは、例えば『ラーメンを食べている女の子』と指定すれば問題なく『ラーメンを食べている女の子』の絵や写真を生成して出力してくれるぐらいには高度なソフトになっているらしいけど、現時点ではキャラの指定や構図の指定などの細かい要望には答えられないみたいなので、お遊びとしてはともかく実用性はまだ低そうであると。

でもこれがもしキャラの指定や構図の指定、細かい手の動きの指定とかが可能になったとしたら?

さっきの『ラーメンを食べている女の子』の絵に対して、AIに『正面から見た構図にして』と言葉で指示したら、3Dゲームでカメラ視点を動かすように正面から女の子を見た構図に絵が切り替わったり。

『女の子の目線はカメラ目線で』と言葉で指定したらすぐに修正されたり。

『背景をラーメン屋からワンルームマンションにして』と指定したら女の子を残して背景だけが切り替わったり。

この辺りは現時点でも技術的には突破可能なはずで、来年にもそんなソフトは出来てくると思う。

そうなってくると文字だけで物語を表現する合理的な意味はもうなくなってくると思う。それこそ小説は伝統芸能というか、古典芸能的な領域に入るのだろう。

そういう時代がもう来てもおかしくない段階にはあるはず。


上記のような細かい指定が可能な描画AIが出来たら小説家が自力でAIを使って挿絵を作る時代に突入すると思うし、それはもう来年とか再来年ぐらいにまで近づいていると思うが。

そこからもう一つ進んでコマ割りとか服装の指定とかが可能になってくると、それはもはや漫画そのものの生成も可能になってしまうはずで、そこまで来ると恐らく多くの人がコンテンツ業界のシンギュラリティに気付くというか、はっきり言って多くの作家にとって小説という形にこだわる必然性が完全になくなってくるはずで、それが誰の目にも明らかになるはず。

つまり、自分の小説の『挿絵』をAIで作れるだけなら、言ってもそこまで大きな波にはならない可能性はあるが、物語全体をAIが絵として書いてくれて漫画のような形態を誰でも比較的簡単に作れるようになったら文字だけでストーリーを表現する合理的必然性が本格的に消える。

そうなってくると大変革が起きるだろうと。

はっきり言って今は「私は小説というスタイルが好きだから小説を書いているのだし、これからも小説を書き続けます」と言う人も、そんなことは言ってられなくなるかもしれない。

ぶっちゃけ自分で書いてても悲観的になりそうな話になるけど。

現状、小説にしろ漫画にしろ、書けるのは『それなりにスキルを持った人』なわけですよね。

漫画だと勿論『絵』が描けないとダメだし、小説にしたって文章で物語を表現するには独特なスキルが必要で、仮に良い物語の原案があって設定やらが作れたとしても、そこからそれを絵や文章にして出力するスキルがなければ評価されないのが現状だと思います。

しかし、もし上記のAIが完成したとすると、その出力するためのスキルがほぼ必要なくなる可能性があると。

(厳密に言うならカメラワークとかコマ割りとか、キャラの細かい仕草とかの違いだけでも大きく印象は変わるはずで、そこが作者に求められるスキルになるとは思うけど)

以前に三谷幸喜さんが鎌倉殿の13人の特番だったと思うけど、そこで語っていた話で、彼は文章でストーリーを表現する小説的なモノを書くのが苦手だから脚本家をやっている的な話をしていたと記憶している。

つまり、小説が書けなくても漫画が描けなくても素晴らしい物語を作れる人は存在しているわけで。これまでそういう人は映像の世界に行くか或いは原作者という曖昧なポジションになっていたわけだけど、そういった人が一気に表現方法を得て表に出てくるようになると。

そうなると技術がブレイクスルーして完全にゲームチェンジ。状況が完全に変わって小説は落語とか歌舞伎とかみたいな古典芸能の域に一気に進むのだろうと思うし、表現方法の上手さよりストーリー構築の上手さが問われるような世界観に、小説とか漫画とか脚本とか色々含めた『ストーリーテラー』の業界が変わっていくのだろうと想像している。


突拍子もない話のように聞こえるかもしれないが、今の描画AIの性能を考えると2024年ぐらいにはそれぐらいのシステムが出来上がっていても不思議ではないと考える。

そして、その先にはアニメや、もしかすると実写ドラマもAIで作れるようになるのではないか、という予想もしているけど、それはまた別の話として。

とにかくあと数年で小説界隈も激変するんじゃないか、と考えていると。


『そんな変化は起こらない』


と思う人もいるだろうけど、自分としては『文字で物語を紡がなくてはいけない理由』が消えてしまうことは重大な変化を起こすと思うのだけど、どうだろうか。


――なんて、そんなことを年末に考えてしまう今日このごろ。

もはや「3分待ってやる」と言った後のムスカに転生したような気持ちで時を待つしか我々には残されていないのかもしれない。

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