ゲームがつまらなくなった話と、バトロワゲーが流行る理由と、格ゲーがウケなくなった理由

最近、あまりゲームをしなくなった。

とはいっても一日に一回はパズルゲームはやっているのだけど…

それはまぁ別として、昔は好きだったRPGもFPSもほとんど手を付けなくなってしまった。

その理由は、いくつか思い付く。


まず思い付くのは、最新の別ゲーに慣れるのがしんどいこと。

ARMA3とかやってみたけど、操作感が既存のFPSとは違いすぎて慣れずに止めてしまった。

BF5の操作感はよくあるFPSっぽかったので慣れるのは早かったけど、マップを覚えるまでの時間が耐えられずに止めてしまった。

次に思い付くのは、RPGなどの重厚な物語を自分でプレイするのがしんどいこと。

FF10とか大好きだったけど、今からあのレベルの濃いストーリーを自分でプレイするのがしんどいのだ。

これと同じ理由から、最近は映画を見るのもしんどくなってしまった。

昔は映画が大好きで頻繁にレンタルビデオ屋で旧作を借りていたけど、今はアマプラ契約しててもあまり映画には手を付けてない。


ここまではぶっちゃけ『老い』かなぁ……と自分でも思ってしまう。

世間一般の『大人』が新しいモノなどから離れていく理由だろう。

別にゲームの方がつまらなくなったのではなく、プレイヤーの方が変わってしまったことによる問題だ。


で、ここからは、それとは違うゲームの方の理由について。

以前、『ドラクエは鋼の剣を入手する頃が一番面白い説』について書いたけど、その説が生まれる根本的な理由はなにか?というと、ドラクエとか有名シリーズでは大体のアイテムや呪文などが有名化しすぎてシリーズ通して定着しているため、どのシリーズでも大体同じストーリー進行度でそのアイテムが出現するからだ。

これは逆に言うと、アイテムを見るだけで自分のストーリー進行度が読めてしまうということで、それが飽きに繋がるのだと思った。

僕がそれを初めて感じたのはドラクエ8だったと思う。

詳しくは覚えてないけど、確かはやぶさの剣か奇跡の鎧あたりを手に入れたぐらいでストーリーが終盤であることに気付き、なんとなく残念に感じて、楽しさが薄れた。

つまり、先が見えてしまったからワクワク感がなくなってしまった、ということだと思うし。恐らくだけど、そういった『仕組み』が見えてしまったのがダメだったのだ。


では『仕組みが見える』というのはどういうモノなのか、と言うと。

例えば某有名FPSゲームではプレイヤー数人でチームを組んで難易度別のPvE(プレイヤー対CPU戦)ステージクリアを目指すのだが、そのゲームのクリア方法は大体決まっているというか、身も蓋もないことを言ってしまうと『定められた正解行動をプレイヤーが取れるかどうか』で決まるのだ。

そしてゲームの難易度というのは上がれば上がる程『遊び』の部分が減って正解行動の道が狭くなり、より正確に正解の道を進める人だけがクリア出来るゲームになっていく。

難易度が低いモードでは正解の道から多少外れてもゴリ押しでなんとかなったり様々な手段でリカバリー出来るのだけど、難易度が上がっていくにつれ、ちゃんと正解行動を辿らなければクリア出来なくなる。

これが最も明確に出たゲームだと個人的に思っている某ゲーム。

あれは発売当初は難易度が高すぎて超激ムズゲーだと思われていたけど、プレイヤーによる攻略が進むに連れて、それが『決められた正解ルート探しゲー』だと明らかになっていったように思う。

要するに死に戻りしながら試行錯誤して正しい倒し方を探してね、というモノ。

今の時代ってしっかりとバランス調整出来てないとすぐに批判されて叩かれるからこういったシステムになるのは必然的だと思うし、現時点ではこれ以外に絶妙なバランスのゲームを作る方法はないような気もする。

というのも、自由度が高く、複数のクリア方法が分かりやすく存在するゲームだと出来るプレイヤーから『ヌルゲー』とバカにされるし、プレイヤーにシビアな操作を求めすぎて難易度を上げたゲームだとクリア出来ない人が増えて人気が出ないし。それじゃあプレイヤーに難易度を選択させようとすると、低難易度でしかクリア出来ないと分からされたプレイヤーが虚しくなって止めてしまう。

特にこの最後の部分が厄介なモノで。よく「クリア出来ないなら難易度下げろ」的な話をする人がいるけど、そこで難易度を下げるとそれこそ『仕組みが見える』的な話になる。つまりゲームデザイナーに遊んでもらってる感とでも言うか、お釈迦様の手のひらの中というか。子供の頃、手加減してくれた父にゲームで勝った時のような虚しさに支配されてしまう。

なので『難しく見えるけど正解ルートさえ分かれば簡単』というシステムはどの層にも対応出来て素晴らしいと思う。

なのだけど……個人的には、やっぱりその『仕組み』が見えてしまったところで、なんとなく萎えてしまうのだ。


思えば最近のMMORPGに興味が湧かない理由もそこにある。

レベルキャップがあってレベル上げに限界があったり、装備品もレベル帯に合わせて用意されたりする。

ダンジョンもID(インスタンスダンジョン)化が進み、イレギュラーな要素が排除され、『正解行動』を見付けなければクリア出来ない。

(IDとは、要するに同じパーティしか入ることが出来ないダンジョンで、パーティごとにそれぞれ用意されるダンジョン。他人に邪魔されない)

どれも開発者が決めた正解ルートを見付けるゲームに見える。

なろうなどにあるMMORPGモノで、主人公だけが特殊なアイテムや裏技やらを手に入れて他の人より特別な存在になる的な展開がよくあるけど、現代のMMORPGではほぼほぼそういう要素は排除されてしまっている。

あんなモノは今やなろう系の中にだけある古の要素だ。

だからなろう系のMMORPGモノを読むと複雑な気持ちになってしまう。

「そんなモノ、もうないんだけどなぁ……」

とね。

しかし昔のMMORPGにはそういうモノも存在したわけです。

例えば某ゲームでは各地の城をグループごとに支配出来、城の中にあるダンジョンを独占出来たり(当然、ダンジョン内のアイテムも)。町の中でもPKが出来た時代は一部のグループが村を勝手に占拠し、侵入者を全てPKして他人がクエストを受けられなくしたりとか。初期から特殊なステ振りをしたプレイヤーに真の効果を発揮するアイテムとか。

こういったモノは管理がし辛いのでバランス調整が難しいと思うし、なにより特定のプレイヤーしか手に入らないモノがあるというのは、それ以外の大多数のプレイヤーのモチベーションを下げてしまうのだと思う。


MMORPGモノの小説ではそこのところの設定というか考察が弱いんじゃないかと思ってしまうことが多いわけですよ。

現実世界なら、ジェフ・ベゾスが世界一の大富豪になっていても、それが悔しくて歯ぎしりしたとしても、自分には自分の生活があるわけで、自分なりの生活をしなくてはならないから歯を食いしばって現実を生きるわけです。現実世界にリセットはないのでね。

でもゲームの中の世界で何らかの方法で超強いアイテムを手に入れた特別なプレイヤーがいたとして、自分が同じようにそれを手に入れる事が不可能なら萎える人が多いだろうし、やってられないから辞めちゃう人が少なくないわけです。

別にそのゲームにこだわる理由なんてないし。他の楽しいゲームをすればいいだけじゃないですか。歯ぎしりしながらそのゲームを続ける理由なんてないんです。

でも、多くのMMORPGモノでは、一般プレイヤーが『あーあ、やってらんねぇ。つまらないから別のゲームしよ。このクソゲー今日で引退だわ』とはならないんですよね。

それを考えちゃうからMMORPGモノはあまり好きになれなかったりね。


ちょっと話がズレてしまったかも。


◆◆◆


その昔、オンラインFPSといえば5vs5などの少人数の対戦ゲームが主流だった時代があった。

昔はそれはそれで面白かったのだけど、それが廃れた理由はかなり明確で、あのシステムでは撃ち合いの実力差がモロに出てしまっていたからだと思う。

あれらは狭いマップで行動が限定され、隠れる場所も限定的で、2勢力による少人数バトルだからイレギュラー要素が限定的。敵の意表を突くような行動がかなり制限されるので、ほとんどの場合、エイムが悪いプレイヤーが勝つ確率は限りなく低かった。

その点、R6Sなどは構造物の破壊とか多彩なスキルの活用などで戦略的自由度が上がって面白いとは思ったのだけど、それは別の話として。


結局のところゲームは勝てなきゃつまらない。

強いプレイヤーに延々と負け続けて絶対に勝てないことが分かってきて、それを工夫などで覆せないとなると、もう単純につまらないのだ。

しかし対人ゲームの場合、必然的に勝つ人と負ける人の二択になっちゃうし、強い人が多く勝つ以上、必然的に弱い人は多く負ける。

そして負けまくるとつまらない。

なので弱い人はどんどんつまらなく感じるようになっていく。

それを上手くオブラートに包んで分かりにくくしたのがバトロワゲーだと思う。

バトロワゲーは何十ものチームが競うけど勝つのは1チームしかなく、最初から『勝てない』のが共通認識としてあるから、勝てなくても『それが普通』という認識に意識をすり変えられる。

複数チーム対戦なのでイレギュラーな事態が起きやすく、撃ち合いが弱くてもポジショニングでカバー出来たり、タイミングが良ければ上手いプレイヤーにも勝てる可能性がある。

このバランスが大事なのだと思う。

上手いプレイヤーにもワンチャン勝てる可能性がある。

これが大事。

そしてイレギュラー要素が大きいと『メタ』とか『セオリー』は生まれても絶対的な正解行動というモノは生まれにくいので(勿論、後から考えた結果的な正解はあるかもしれないが)比較的自由なプレイが可能になる。

なので1つでも順位を上げることとか、1つでもキル数を増やすこととか、自分が好きなプレイスタイルを楽しむことを目的としやすい。


そういう観点から見ると格闘ゲームというモノは昔の少人数FPSよりもっともっと本当にシビアで、勝つか負けるしかない。

本当に純粋に実力勝負で、ゲーム内に弱い人への救済がない。

はっきり言えばここが格ゲーがウケない理由の大本だと思う。

そもそも昔の時代、格ゲーが流行った一因はネット対戦がなかったから(あるいは限定的だったから)なんじゃないかと。

つまり、それぞれのゲーセンにそれぞれそのゲーセンの主たる最強プレイヤーがいて、良くも悪くも沢山の最強プレイヤーがいて、それぞれがそれぞれの小さな山で大将になって楽しむことが出来た。最強プレイヤーが別の地域のゲーセンに遠征に行くなんてほとんどの地域では起こらなかっただろうしね。

例外なのが東京とか大阪で、オジ格ゲーマーの話を聞く感じでは都市部はゲーセンの数が多いので複数のゲーセンに通えたし、最強プレイヤーが遠征することで地域全体のレベルが上がり、結果的にプロ格ゲーマーが東京大阪付近出身者に集中したのではないかと思う。

話がズレてしまったので戻すと。

やっぱり基本的にゲームは勝てないとつまらないのだ。

だけど格ゲーには勝ちと負けしかない。

強いプレイヤーは勝つし弱いプレイヤーは負ける。

弱いプレイヤーは面白くない。

「それは弱いのが悪い」

というのは正論なんだけど、それではゲームは多くの人々には受け入れらないという話で。しかし今の格ゲーにそういった救済要素を入れようとすると格ゲーが格ゲーじゃなくなっていくし、既存のファンが減りかねない。

それにそういった救済システムの一部らしい、ダメージを受けると逆転要素を得られるシステムはプロに不評っぽいし、グラブルのワンボタン必殺技は初心者救済以上に上級者がもっと強くなったという評価もある。


じゃあそれぞれのプレイヤーが自分と近いレベルのプレイヤーとマッチング出来るシステムを作ればいい、的な話もあるけど、これでは根本的には解決しないってのが自分の意見。

最初の方にも書いたけど『ゲームの難易度を下げてクリアしても虚しいだけ』という考え方は少なくはないと思う。なので低いランク帯で勝っても、それが続くと楽しくなくなっていく可能性が結構あると考える。

(そして勝って、ランクが上がって上の世界でボコられるのもつまらない)

「いや、それを言うならバトロワゲーにもランクシステムあるじゃん!」

っていう話もあると思うけど。

バトロワゲーは上にも書いたように最終的な勝ち負け以外の部分を楽しむ要素があるけど、格ゲーは最終的には勝ちか負けかの要素に集約されていく違いがあると思う。


マイケル・サンデル教授の話にもあるが、メリトクラシー(能力主義社会)は最終的には地獄のような社会になっていくらしい。

どういう話かと言うと。例えば身分制社会等の世界であると、能力以外の部分(つまり身分とかコネとか)でその人の成功と失敗が決まってしまうことが多いが、しかし一般人は「俺が成功しなかったのは社会のせいだ」と言い訳出来る。

逆に能力主義であると、能力がある人はその他にどんな問題があろうとも能力によって成功出来る。それはそれで素晴らしいことだけど、能力が低い人はどう転んでも成功出来ないので、未来も希望もなくなってしまう。そこにはどんな言い訳をする余地も残されていない。その人が成功しなかったのは全てその人に能力がなかったからだから、能力が低い人はただただ絶望に沈むしかない。後で飲み屋で友人に愚痴ることすら出来ないのだ。

これらのメリトクラシーの問題は最近世界で分断が加速している理由だとマイケル・サンデル教授は語っているが、それはまた別の話として。

この話が格ゲーの話とどう関係してくるのか、というと。

結局のところ、ゲームには(ゲームだけではなく、社会でもだが)、『言い訳が出来る要素』と『ワンチャン下剋上要素』が重要なのだと思う。

完全に実力で勝負が決まってしまうと絶望的な世界になるので、例えば顔や性格で上に気に入られたり、運が良かったり、コネがあったり、要領が良かったり、誰も気付かなかったコツを知れたり等(これらはゲームの話ではないけど)、なんらかの別の要素で実力を覆せる必要があり、負けた時にも言い訳出来る要素が重要になる。

バトロワゲーなんかは『降下地点をかぶせられた』『良いアイテムが取れなかった』『漁夫られた』等々、言い訳の余地は色々とあるし、上で書いたようにワンチャン要素もある。だから負けても『今回は仕方がなかったな』と諦めて次に行けるが、言い訳出来る要素がなくなると単純に『自分が下手なだけ』という事実を突き付けられて単純に面白くなくなってしまうから難しい。

それが5vs5等の昔の少人数FPSでは、これも上で書いたけど撃ち合い重視のシステムで、少人数で2チームバトルなのでイレギュラー要素が少なくなるため『言い訳』出来る余地がバトロワゲーなんかより圧倒的に小さかった。なので『負けたのはエイムが悪かったから』という結論に達しやすく、だからこそ弱いチームメイトにヘイトが向きやすく荒れやすく、暴言が飛び交いやすいのだと考える。要するに『言い訳』に使えるポイントが『弱い味方』という要素しかないという話。

それが良い状態とはまったく言えないけど、少なくとも責任を別のモノに押し付けて自分の精神を安定化させることは可能だ。

繰り返すが、それが良い状態とはまったく言えないが、その言い訳すら出来ないとなると、やっぱりどんどん精神的にキツくなってしまう。なので言い訳が出来る余地があるということは、ある意味でのガス抜きであり、重要だと思う。

最近のFPSが大人数化方向に進んでいるのは一人あたりの影響力を大人数化で薄めて責任の所在を分かりにくくすることが目的なのでは?と思ったりするが、それは別の話として。


そういったゲームより更にワンチャン要素と言い訳が出来る余地が少ないのが格ゲーだと思われる。

格ゲーは1vs1なのだから負けを誰かの責任にすることが不可能だし、イレギュラー要素も低いので下剋上も起こりにくい。負けたのは完全に自分の責任。メリトクラシー的な世界観。

これが格ゲーがウケなくなっている根本的な理由だと思う。

それが悪いとかそういう話ではなくて、そもそも最初から大多数の人に受け入れられるようなシステムではないのだと思う。


では、これも格ゲーの一種だと言われているスマブラはどうかというと。

皆さんご存知の通り、対戦人数を増やして『アイテム』という要素を追加してある。

これによってイレギュラーな事態が増え、弱いプレイヤーでもワンチャンあるし、負けても『仕方がない』と思える要素になる。

個人的には格ゲーがカジュアル層に受け入れられるには、こういったイレギュラーな要素を増やすことが必要なんだろうと思うけど、そもそもそれをやると既存の格ゲーファンが納得しないだろうから難しいんだろうなとも思う。


前に某格ゲープロが『どうして格ゲーをやろうと思ったのか』という質問に対して『当時は格ゲーしかなかった。格ゲーが最先端だった』というような話をしていたと記憶している。

あの当時、格ゲーは新しい概念の新鮮なモノであって大人気になったし、初心者でもレバガチャで楽しめる余地がまだあった。

そして、あの時代はまだスマホはないしインターネットすら限定的な頃。人々のコミュニティはリアルにしかなくて、学校とか社会の表のコミュニティに馴染めなかった人はゲーセンに集まった。なのでそこに集まった僕らは最先端である格ゲーというモノを遊んだし、格ゲーこそがコミュニケーションだったし、ゲーセンがコミュニティだった。

だからこそ当時は格ゲーをやる人が増えたのだと思うし。だからこそインターネット上にSNSなどのコミュニティが出来るようになってゲーセンというコミュニティが必要なくなってしまった今、ゲーセンは衰退したし格ゲーも人口が減ったのだとも思う。


数年ぐらい前、アリアナ・グランデなどがフォートナイトでLIVEイベントをやったりした頃から、ビジネス界隈では『ゲームがコミュニケーションの場になっている』という話が出て盛り上がったらしい。

どうやら最近の若い子らはフォートナイトや、今の日本ならAPEXなどにログインし、友達とボイスチャットをしながら普通にゲームをするのは勿論のこと、ゲームをせずにただただ喋っていたり、友達だけでゲームルームに入ってレースしてみたり自由にコミュニケーションを取りながら遊んでいるらしい。

それとは少し違うが、FF14で麻雀機能が追加されてゲーム内でプレイ可能になり、それからゲーム本編をそっちのけでFF14内で麻雀をする人が世界的に増えたらしく、これもゲームがゲームとしてではなくコミュニケーションツールとして使われた一例として語られている。

最近はFacebookがMetaに社名を変更し、メタバース(3D空間に作られるもう一つの世界)に注力すると宣言したのだけど、これもその流れの1つで。つまりインターネットの世界に空間を作り、コミュニティを作ると。

上記のフォートナイトらの例を見ると「スカイプとかDiscordでも同じことが出来るのでは?」と思うかもしれないところだけど、どうやらそういう話ではないらしく。単純に『ボイスチャットがしたい』という需要があるわけではなく、仲間が(仮想上でも)同じ空間にいる、ということに意味があるのではないか、と考える。

しかし、ぶっちゃけMetaがやってるメタバースの『Horizo​​n Worlds』が公開されて、そのPVを見た感じでは「こんなもんどこに需要あんねん!?」というのが本音だった。けど上記の流れを考えていくと、そういったバーチャル上のコミュニティ空間にも意味があるように感じた。

単純にボイスチャットを繋いで相手の声を聞くことに意味があるのではなくて、バーチャルでも同じ空間の中にいて、一緒になにかをすることに意味がある。いや、なにかをしなくても、一緒にいることに意味があるのかも。


数年前までの格ゲーのオンライン対戦は単純で、ランクマなら自動マッチングボタンを押すだけだし、特定のプレイヤーと対戦するならリストの中から探して申し込む的なシステムだったけど。最近出た格ゲーではバーチャルゲーセン的な空間を作っているモノが増えてきた。

自分のアバターを動かして対戦台に行き、そこに座って対戦スタートするみたいなね。

これは恐らく、上記の流れから見ても、格ゲーでもゲームをコミュニケーションの場としようとしてみたのではないか?と思っている。

実際、某プロゲーマーの放送を見ていた時。その人が対戦部屋に行くと別のプロゲーマー(のアバター)が偶然いて、そこで「おっ!○○じゃん!こいつ倒そう!」みたいな感じの流れになって盛り上がったのも見た。

やっぱり視覚化されたからこその面白さってのもやっぱりある。

恐らくだけど、ストリートファイター6もそういったシステムを入れてくるんじゃないかと思っているし、そうやってコミュニケーション要素をゲーム内に入れることでまたあの頃のゲーセンのようなコミュニティが出来て盛り上がる可能性もあるんじゃないか、なんて思ってる。


◆◆◆


最後に僕が格闘ゲームを観戦するのは好きだけどプレイはしない話を書いていくと。


その昔、子供の僕らが近所のゲーセンで格ゲーをしていた頃の話。

明らかに格ゲーが上手い人と下手な人がいて、上手い人がどうして勝っているのかは当時の僕にはさっぱり分からなかったし、上手い人は本当に魔法使いみたいな感じというか、サッカーで言うところのファンタジスタみたいな感じで、常人には理解出来ない凄いプレーで勝っているように見えましたと。


これはこの当時の漫画作品とかでも似た話が出来るのだけど。

例えば峠にハチロクの亡霊が現れたり首都高に幻のZが出たり、めちゃくちゃ速い伝説のゼファーがいたり。あるいは料理漫画に秘境でとれる幻の○○と呼ばれる食材が出たり、麻雀漫画でオカルトと強運の伝説の雀士がいたり。

こういうのって当時は情報を知ることが困難だったから僕らはそれに夢を見られたのだけど、今となっては技術の進歩と情報の氾濫によってそれらのモノが否定されたり答えが見付かっていたり情報をすぐに見ることが出来るようになっていると。

つまり、過去の車がどんなに名車でも現代の車の方が速いと結論が出てしまっているし。幻の食材なんて調べればどこでどれぐらい生産されているのか大体把握出来るし、なんならGoogleMapで生産地まで見れてしまう。プロの雀士が表の大会でしのぎを削り続けている今では、流れやツキより理論と確率がどうやら正しいということになってきている(面倒なので、あえて曖昧に書いてお茶を濁しときますが)とかね。


格闘ゲームの話に戻すと。

あの時の僕らが地元のゲーセンで見たファンタジックな凄いプレイも、今となってみればその強さの理由はなんとなく理解出来るようになってきた。今の時代のプロ格ゲーマーの試合解説等を見ると、強かったその仕組みがやっと把握出来てきたからだ。

例えばダルシムのドリルは相手の下半身に当てると反撃はくらわないけど上半身に当たってしまうと反撃をもらうとか。エドモンド本田のスーパー頭突きは先端を当てると安全だけど距離が近いと反撃を受けるとか。空中くらいの時だけ出来るコンボとか。自分がゲージがあって相手にゲージがない時限定の連携とか。特定のキャラが特定の行動をした時だけ使えるコンボとか。そういった○○の時は××みたいなネタが恐ろしい数あって、それらを全て覚え、それがその瞬間にパッと出せることがそもそもの前提で、その対処法を知らないと一生相手に強い行動を連発されて負けることになるわけで。

以前、某プロゲーマーが『格ゲーはボクシングと将棋を合わせたようなモノ』的な発言をしていたけど、言い得て妙だと思う。


分かりやすい話をすると。

スト5で相手キャラをダウンさせた場合、攻撃側は相手が起き上がってきたところに『打撃』と『投げ』の2種類の攻撃から1つを選んで仕掛けることが出来る。打撃と投げでは防御方法が違うので守備側は攻撃側がどちらの攻撃をやってくるのか予想して『防御』か『グラップ(投げ抜け)』を選択しなくてはならない。が、守備側は、攻撃側の『打撃』と『投げ』の両方に勝つけどガードされたら終了という『無敵技暴れ』という選択肢がある。これにより攻撃側は『打撃』と『投げ』の選択肢に無敵技暴れを防ぐための『防御』という選択肢が追加され、攻撃側と守備側が3つの選択肢からどれを選択するのかの読み合いが完成する。

……のだけど。

ここに守備側に『遅らせグラップ』というテクニックが入る。

遅らせグラップとは、ガードした少し後にグラップを入力することで、相手が打撃ならガードして、投げならグラップが発動して抜けられる、両方に対処出来る方法なのだ。

それだけ聞くと最強の対処方法に思えるが、攻撃側が『打撃』も『投げ』もしてこなかった場合、守備側が『投げ』を出してしまうという弱点があり、攻撃側は守備側が出してしまった『投げ』を後ろ下がりで避け、すぐにまた前に戻って反撃するという『シミー』が使われるようになった。

が、更にここで『早めグラップ』というテクニックが生まれる。

早めグラップとは、遅らせグラップより少し早くグラップを出すことにより、打撃をガードし、投げを抜け、更にシミーをしようとする攻撃側が投げ範囲外に下がる前に捕まえて投げることが出来ると。

長くなりすぎたのでこの説明はここまでにするけど、他にも『遅らせ打撃』や『早め遅らせ打撃』や『垂直跳び』とかいくつか選択肢があるらしい。


この『早めグラップ』を動画で解説していた某プロゲーマーの人がその動画内で語っていたけど、ランクマで上に行くまで誰も対処出来なかったとか、海外の有名プロゲーマーも対処出来てなくてイラついてたと。

つまりのところ、こういった『ネタ』を知らないと、そもそも読み合いのジャンケンに参加することが出来ないってことになる。

相手は『グー』『チョキ』『パー』の選択肢がある中で自分は『グー』の選択肢しか持っていないのにジャンケンをするわけです。しかも自分は『グー』しか持っていないことには気付けない。相手はそれを把握した段階で『パー』を連打してきて終了と。

この仕組み。

これに関してはこの『仕組みが見える』ことそのものが問題ではなくて、『仕組みが見えた』こによって『これは無理だわ……』という感覚になっちゃったってなところなんですよね。

なんというか、格ゲーでの強さの根源にあるモノは昔の僕らが見たファンタジックなモノではなくて、情報と理論と、それを実際に瞬時に行う身体と頭の出来なんだなって今は物凄く感じていて。あの頃に見た近所のゲーセンの猛者が強すぎて異次元に見えた時よりもずっと、そのやってる内容が見えてきたからこそ今の時代の格ゲー猛者達の方が異次元に見えてきていて。

『これは自分には無理だな』と思っちゃうわけです。


これが僕が格ゲーを見るだけでやらない理由。

あの頃の僕は、なにも分からずともゲーセンで楽しくレバーをガチャガチャしてたけど、今となっては歳をとって余計なモノが沢山見えてしまい、そんな純粋にはプレイ出来なくなってしまったんだな……ってのが今のどうしようもない、しょうもない感想。


◆◆◆


今回は色々と書きたい話を最初から話していったら物凄く長くなってしまった。

過去最高の11000文字オーバー。

でも、なんとなく僕が今のゲームに対して思ってることは全部書き終えた気がするね。

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