思えば姫路の片田舎の中学校で感じたあの閉塞感とはなんだったのか

最近、ふと中学時代を思い出すことがある。

良い思い出もあれば悪い思い出もある、あの場所。

兵庫県の姫路市にある、あの公立中学校で僕はどちらかと言わなくても劣等生だった。

そこが魔法科高校なら良かったけど、残念ながらそこは高校ではなく中学校で、実は最強でもなくリアルの劣等生だ。


今の若い人達、あるいは都会に住む人々には分からないかもしれないけど、当時はまだ地方では『良い学校に行って東京の良い大企業で働くのが人生最良の道』というような風潮が残っている時代。それ以外ではスポーツ選手になるか芸能界に入る道ぐらいしか輝いている道が見えなかった、そういう時代。

しかし、時は既にバブルが崩壊した後。

これが高度経済成長時代なら大体の人は真面目に働けば明るい未来が見えたはずだけど、そんな未来がないことは僕らでも薄々、気付いていた。

それでも『良い学校に行って東京の良い大企業で働くのが人生最良の道』という価値観は残っている。

そして親達はこう言った。


「真面目に勉強して良い学校に行きなさい。そうすれば良い大企業に行ける――」

「――けど今の時代、真面目に勉強して良い学校に行っても良い大企業に行けるかなんて分からないけどな」

「そして良い大企業に入れれば将来安泰だ――」

「――けど大企業に行っても将来どうなるか分からないけどな」


奇妙、奇天烈、摩訶不思議、奇想天外、四捨五入、出前、迅速、落書、無用だけど、そう言うのだ。

つまり、親の世代も急な時代の変化に答えを持ち合わせていなかった。

バブル崩壊の不況を認識していながら、価値観は自分達が若い頃に生きた好景気時代のまま。

親世代も訳が分からないまま、それを上から押し付ける、そんな時代だった。


それでもエリートコースの人間はまだよかった。

彼らにはそんな時代でもまだ選択肢があるのだから。

しかし僕達、劣等生に残っているのは田舎の小さな町でくすぶる未来だけ。

エリートコースを歩めそうになかった僕らは、閉塞感に満ちていたのだ。


所謂『エリートコース』の奴らは大体が本当の優等生で、性格も良い奴らだったけど、学校外で遊ぶような関係にはあまりならなかった。その時は頭の中では気付いていなかったけど、今考えてみるとやっぱり子供同士でも生きてる世界観が違うことはなんとなく感じていた気がする。

やっぱり、物腰というか、普段話題にする内容とか、話し方とか、身だしなみとか、その子の家とか親の雰囲気とか、遊びに行った時に出てくるお菓子とか、子供でもなんとなく心の中で聞こえてしまうものなのだ。


『お前とは違うのだぞ』と。


そんなエリートコースの奴らの中にも一部、本当に嫌な奴らもいた。

自分より格下だと思えばあからさまに見下してくる奴らだ。

中には、どストレートに「俺はお前らみたいなバカとは違う」と言い放つ奴もいた。

彼は顔も良く、スポーツも出来て、身長もあり、勉強も出来た。

残念ながら、中学生の自分でも勝てる要素がないのはよく分かっていた。

仮にそいつの胸ぐらを掴んで、その鼻っ柱を(物理的に)へし折ってやればワンチャン『腕っぷしの強さ』ぐらいは勝つことが出来たかもしれない。しかし、それで一体どうなるというのだろうか。

十中八九、こちらが暴力的な問題児扱いをされ、より悲惨なことになる。彼の暴言が理由であっても、全てこちらが悪いような雰囲気になることはなんとなく感じていた。

それに、そこで返り討ちにあったりしたら最悪だ。惨めすぎて目も当てられない。


でも、彼は相手が勉強が出来ない『バカ』であっても、本当に悪い奴らが相手だとそんな暴言は吐かなかった。そのことが余計に腹立たしくもあり、羨ましくもあり、より一層、そういった『悪い』奴らに近づく理由にもなってしまったと、今から考えれば思う。

しかし、そんな奴らにも自分は、良くも悪くも染まれなかった。

いとも簡単にラインを踏み越える彼らを見て『ありえない』と思ったし、そこに混じって一緒にラインを飛び越えられるとは思えなかったからだ。


そして『普通』の友達がいた。

勉強も普通。運動も普通。そこまで目立つタイプでもなく真面目で、気の良い奴らで、彼ら彼女らといると安心出来た。

しかし彼ら彼女らの関係性の中での僕の立ち位置は、微妙に『悪い奴ら』寄りだったのだ。

自分が『真面目で気の良い奴ら』ではないことは自分が一番よく知っている。

彼ら彼女らのように、普通に真っ当に平凡に当たり前の人生を歩んでいくことは出来ないだろうと、今から考えればその当時から薄々感じていた。


「お前はあいつら(悪い奴ら)とつるむような人間やないやろ?」


中学時代にお世話になった先生によく言われた言葉。

その当時は『俺のなにが分かるんや?』と思って曖昧な返事しか出来なかった気がする。

が、確かに当時の僕は悪い奴らとつるむタイプでもなかったのだ。

しかし、エリートコースでもなければ普通枠でもなかった。

結局のところ、中途半端だったのだ。

エリートコースの嫌な奴も『普通』の彼ら彼女らには暴言を吐かなかった。

エリートにもなれず、真面目に普通にも生きれず、悪い奴らにもなれない。そんな人間だと見抜かれたから、いとも簡単に奴に舐められた。


あの日あの時の閉塞感について考えてみると、結局はそこに行き着くのではないかと思う。

中途半端だから自分の立ち位置に迷い、中途半端だから目指すべきロールモデルもなく、自分で道を探すしかなくなった。

しかしそんな道はどこにも見えない。

だから閉塞感を感じてしまう。

しかしどのカテゴリにも入れない中途半端だからこそ今の自分がある、と言える段階までやっと来た感じがするのだ。

中途半端だからマイノリティで、逆にそれが個性となる。

こんな中学時代がなければ小説なんて書けてないと思う。

普通に生きてれば普通に人生を送っていられただろうし、エリートになれたならエリートコースを爆進しているだろうし、悪の道に走っていたらマトモな人生にはなっていない。

中途半端だから、人が進まない方向に足を進められた。


そう考えると、あの中学時代も良い経験だったのかな? とちょっと思えるようになってきた今日このごろごろ。

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