『ファンタジーだから何でもアリ』は間違い。だから設定作りは難しい
ファンタジー小説の書き方に関する話でたまに目にする『ファンタジー小説だから何でもアリ』という考えがある。
これはファンタジー世界は僕らが生きている地球とはまったく違う世界なので地球の常識は通用しなくても不思議ではなく、どんなことが起こっても不思議ではないはずだから『何でもアリ』だろう。という感じの考え方だと思う。
この理論ついては僕も同意するし、そういう意味では『ファンタジーは何でもアリ』だと思っている。
しかし、最近この『ファンタジーだから何でもアリ』の理論を別の解釈で理解している人がいるように感じて、自分としては『ファンタジーだから何でもアリ』は間違いだ、というスタンスを取るしかなくなった。
そういった状況です。
なので現状、この『ファンタジーだから何でもアリ』の話には大きく別けると2つの解釈があると思っていて、それらは別のモノだと思っているし、それによって『何でもアリ』にしていい場合も『何でもアリ』にしてはダメな場合もあると思っているのだけど。どうもその2つを同じモノとして語る人もいて、話がややこしくなっているような気がしている。
なので、それについてまったり解説していこうと思う。
◆◆◆
昔、ロトの紋章という漫画が少年ガンガンで連載されていた。
これは国民的大人気RPG『ドラゴンクエスト』のロトシリーズの、恐らくドラクエ3→1の間に起こった話を描いたモノで、藤原カムイ先生が作画を担当されていた。
この当時、既に同じドラゴンクエストシリーズをベースとした、最近またアニメ化された『ダイの大冒険』も連載されていたけど、こちらはドラゴンクエストをベースにはしているものの、完全オリジナルストーリーで世界観的にもゲームのドラクエとはまったく関係のないモノで、『勇者アベル伝説』も含めてパラレルワールド的な扱いだったので、ロトの紋章が、公式がゲームのドラクエの世界そのものを描いた最初の作品だったと思う。
(ドラゴンクエスト4コマ漫画劇場等を除いて)
なのでロトの紋章の話の内容は正史であり、ゲームのドラクエ1・2・3と世界観がまったく同じはずで。
つまりロトの紋章の世界の物理法則や設定等はドラクエロトシリーズの世界のモノと同じ、と解釈していいと思う。
さて、この作品中屈指の名シーンである獣王グノン戦において、元神官のタルキンがメガン……ではなく、ベホマを使うシーンがある。
アリアハンで獣王グノン率いる獣型モンスターの大群を主人公の勇者アルスのパーティだけで食い止めるため戦い続け、怪我と疲労と睡魔に襲われながらボロボロになっている主人公のアルスに対してタルキンがベホマを使う。
その効果が劇的で、怪我も疲労も一瞬で完全回復させ、疲労からか眠りかけていたアルスが一瞬でシャキンと目を覚ました。このシーンは自分の中ではドラクエの世界観、世界設定を知るうえで重要な場面であって、当時の僕には凄く印象に残った記憶がある。
で、そのなにが印象的だったのかと言うと、ドラクエ世界の回復魔法には傷を治す効果だけでなく『疲労を回復させる効果』があることが分かったことだ。
◆◆◆
さて、冒頭で語った『ファンタジー小説だから何でもアリ』説における2つの解釈の話に戻るけど。
まず僕的には『ファンタジーだから何でもアリにしていい領域』と『ファンタジーでも何でもアリにしてはダメな領域』がある、と思っていますと。
確かにファンタジー世界なのだから地球とは常識や物理法則が違ってもいいし、我々が思い付かないような突飛な設定があってもいい。そこには大いに同意するし、そこは『何でもアリ』な領域なのだけど、それには超えてはならないラインがある。
そういう話。
で、具体的にそのラインはどこか、という話をすると『その作品で表に出た設定内かどうか』だと思うのだ。
『その作品で表に出た設定内かどうか』
とは『作中で確定された事象』或いは『その作品世界の中で確定されている事象から確定する事象』だろうか。
具体例を上げると。
上記のロト紋で『ベホマでは傷だけでなく疲労も回復する』というシーン。これが『作中で確定された事象』になる。
それに『ベホマが使えるならMPが続く限りマラソンなどが続けられるはず』というのが『その作品世界の中で確定されている事象から確定する事象』だと思う。
そして、他のドラクエ(もしくはロト世界。少なくともロト紋シリーズの世界)の中でのベホマは同じように傷だけでなく疲労も回復出来るはずだ。という部分も恐らく確定するはず。
その部分は『基本的には』変えてはいけない、と思っている。
理由は、作品内で既にそう決まっている事(作者がそう決めたはずの事)とは違う事を書いてしまうと単純に矛盾が生じてしまうからだ。
『基本的には』と書いたのは、それを矛盾しないようにリカバリーする方法があるかもしれないから。
例えば上記のシーンでなら『ベホマに疲労回復効果を付与するかどうかを実は術者が選べていた』とか。少々強引ではあるけど矛盾を生まずに設定を変える方法があるかもしれない。
でも、そこの理由を説明せずに違う事(例えばベホマで体力が回復しない描写など)を後で書いてしまうと矛盾が生じておかしくなってしまうはず。
で、ネット上での様々な議論を見ていると、2つのベクトルで『ファンタジーだから何でもアリ』を論じている人がいるように見えて、噛み合ってない感があった。
つまり上記のロト紋の例で言うと、
①作者の考えた世界なのだから、回復魔法で疲労が回復する設定でも疲労が回復しない設定でも作者の自由
②作者が回復魔法で疲労が回復すると決めて作中に出したけど、別の場面で使った時は疲労が回復してなくても作者の自由
①は、その作品の設定やらルールに関しては、地球での常識や法則等に縛られることなく作者が自由に決めていいという話で。
②は、そうやって作者が決めて作品内に出した設定やルールを、後で覆すような内容にしてしまうことを『何でもアリ』としてしまうこと。
この2種類の明確に違う主張の人が『ファンタジーだから何でもアリ』という同じ主張をしていて、そのそれぞれ対する反論があって、更に①と②の両者の反論への反論もあって、①の主張の人が②に対して擁護or反論をしてたり、その逆もあったりでややこしい、というのが僕の感想。
もう完全にカオス。
個人的には①は完全に同意で、その世界のルールは作者が決めればいいのだから、矛盾が発生しないなら何でもアリで自由に設定すればいいと思うけど。②に関しては違うんじゃないかと。そう思うわけですよ。
②を簡単に言うと、作者が決めた設定を後で作者自身が破っているので。それは読む側からすると矛盾に感じるわけです。
その部分を『ファンタジーだから何でもアリ』として語ってしまうのは自分としては違うかな……というか、それってもう『ファンタジーだから何でもアリ』という話じゃない気がするというか『俺が作った世界なんだから好きにして何が悪い』的な話になってるわけでね。
ただ、更にややこしいのが、②のパターンで「○○は××ではないから矛盾してる!だから『何でもアリ』は間違いだ!」という意見があって、それをよく調べてみると、その指摘した作中に特に大きな矛盾はなくて読んだ人の勘違いだったパターンとかもあったり。
逆に明らかな矛盾があるのに作者側がそこを気付かずに進行させてしまっているパターンもあって。
もっともーっとややこしくなっている感じ。
だからネット上で『ファンタジーだから何でもアリ』という議論が始まると、個人的には『何でもアリ』派の意見でも『何でもアリではない』派の意見でも、それぞれに『それには同意だな』と思う意見がある反面、逆に『それは違うだろ』と思う意見もあったりするし。『それは同意だな』と思った意見の人が②を支持してたりするのを見たりするし。個人的にはSNS等でこの議論に下手に混ざるのは非常に危険だな、ってのが現時点での感想。
Twitter等の短い文章では意見をまとめるのがちょっと無理そうで、変なことになるのが見えているので。
◆◆◆
で、ここまでは要約すると『作品設定に矛盾を作ってはいけない』ということについて語ってきましたと。
でも……。
そうは言いつつ実際に小説を書いてみると、矛盾を理解しつつ『矛盾を押し通すか……』となる場面があったりするわけですよ。
「偉そうに語ってるけど、お前の小説にも矛盾あるじゃん?」と言われるかもしれないけど、分かって目を瞑って書いている場合もあったりするわけです。
例えば、ファンタジー作品あるあるネタの1つ『どうして兜をかぶらないんだ問題』とかね。
鎧と盾と重装装備を揃えつつ何故か兜はスルーする作品ってあるじゃないですか(自分のことを棚に上げ)。でもビジュアル化された時の見栄えを考えると兜はない方が映えるので、そこは無視するみたいな。
後は「この場面で○○に言及しないのはおかしい!」みたいな話とか。
確かにその場面では○○の話を入れた方が自然なのは分かるけど、会話の流れとか作品のテンポを考えると○○を入れない方がキレイにまとまる、みたいなことがあって、泣く泣く○○を削ることはよくあったり。
無理に○○を入れると会話が不自然になるから入れにくいとかね。
でもこれは実際の人との会話でもあるでしょ? ○○の話をするべきだけどタイミングが合わなくて結局は言えなかったみたいな。
だからよく考えてみるとそこまで不自然ではない話だとも思うけど。
あと、それに『変だと思わせる伏線にしている』場合もあったりね。
矛盾した話を書いているけど、それは後で回収するための伏線だったりとか。
そこは矛盾しているけど、実は意味があるけど、言えないんだ的な。
他には、
例えば2021年の大河ドラマ『青天を衝け』のエピソード24で印象的なシーンがあって。
そのシーンでは、江戸時代にフランスに行った主人公の渋沢栄一が凱旋門の上に登って景色を見て「これが……パリ……」とパリの凄さに圧倒されると。
確かに映像として、シーンとしては印象的な演出になるし。元々は尊皇攘夷派で外国には戦争になってでも屈するべきじゃない的な考え方の主人公がフランスのヨーロッパの技術や文明を見て、外国と敵対するのではなく学んでいかなければ危ういと気付いていくその一歩としては良い演出ではあるのだけど……。
しかしそのシーンって冷静になって考えてみればちょっとおかしいわけですよ。
地図で見たら分かるように、凱旋門ってパリの中心地にあるわけです。
そこに登ってるということは、それまでにパリの街並は十分に見てきているはず。
つまり普通に考えるなら、凱旋門の上から眺めるまでもなく、既に十分パリに圧倒される場所はあったはずなんです。
例えば、船から降りたばかりの時とか、パリの町中に初めて入った時とか、なんかそういうタイミングならおかしくないと思うけどね。
でも、ドラマの中の印象的なシーンとしては凱旋門の上から見下ろした方がやっぱり映えるのは分かりますよね。だから演出のために多少のおかしさに目を瞑って見栄えで押し通したんだろうと。
で、結果的にはそれで正解だったんだろうと思うじゃないですか。
◆◆◆
なので!
結論を言うと、設定作りってめっちゃ難しいんですよ。ってな話。
よく『ファンタジーだから、自由だから簡単に書ける』的な話をする人がいて。まぁ実際そういう書き方もあるんだろうけど。自由だからこそ本来はしっかりと詰めておかないと世界観が破綻することがあったりするんです。
プロの作家さんでも『ファンタジーは簡単』と言う人もいるけど、あれは鵜呑みにするべきではないと思ってる。
そういうタイプの人は、苦もなくそういった設定を頭の中に構築出来ている天才タイプの人か。書いてる作品が細かい設定が必要ないタイプの作風――つまり狭いエリアの中だけで展開される話とか、魔法や不思議アイテムのない地球に近い設定とか、そういったタイプの作風の方だと思う。
上記ロト紋の話とか、あの一つの描写で回復魔法の様々な使い方とか想像出来ちゃうわけじゃないですか。
あの一つの設定でも展開に大きく影響を与えるはずなんですよね。
つまり、僕らはスポーツしたり普段の生活でも体力配分を考えて動くでしょ。全力で動いたら体力がなくなるから競技に合わせたペースに落とす的な。
でも、回復魔法で体力が回復するなら体力配分を考えなくてもいいかもしれなくて、それはつまり僕らの常識とはまったく違う動きが可能になったりね。
色々とやれることとか前提がそれで変わっちゃったりするから難しいんですよ。
だからファンタジーが簡単ということはないし。ファンタジーだからなんでもアリではないし。なんでもアリにするなら、それによって変わる部分をしっかり把握しなきゃならないので難しい。
そういった話です。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます