YouTuberもWEB小説家も、もっと誇りを持つべきかもしれない話

少し前にビートたけし氏の青年時代を描いた『浅草キッド』という映画が出て、その関係でこの辺りの時代のお笑い――というか喜劇とか漫才とか演劇とかの舞台エンタメについて語る的な特集が増えたことがあった。

その内容をかいつまんで語ると、当時の日本のお笑い、ショービジネスでは『浅草』という町がトップであったと。

浅草で一番の役者、芸人が日本のトップであり、その他のエリアや媒体で活動する人とは格が違ったという話。

しかしそれが変わったのがテレビの普及。

テレビが日本全国の家庭に置かれるようになり、広告収入も増えていってテレビ出演者のギャラも高くなり、テレビで活躍する人こそ人気でも収入でもトップになっていったし、それに伴ってテレビに出られる人の『格』が一番上になっていった。

そしてそれを上手く掴んだのがビートたけしという人物だったと。


似たような話は演劇にもあって。

昔は舞台俳優が格上だったり、映画俳優が格上だったり序列があったらしい。

アメリカでは今でも映画俳優が格上だとか。

(恐らく映画の方がギャラが高いので資本主義的にそうなっているのだろう)


結局のところ、多くの人を楽しませたり多くのギャラを貰える場所、人がトップであって、それは時代によって移り変わっていくモノなのだと思う。


◆◆◆


もう一歩、話を進める。


その昔、ニコニコ動画が人気だった頃の話。

あの頃のインターネット界隈というモノは今よりもっと明らかにテレビとかの主流メディアとは一線が引かれている時代であって。知名度は低いというかまったくないし、テレビしか見ないような一般人にはまったく知られてなかったわけで。だからこそニコニコ生放送なんかに芸能人が出たりすると放送が異常に盛り上がったりしたんです。

別にそれが大物でもなく、テレビでは珍しくない人……というか若手芸人が出ただけでも大盛り上がりだった。

それに、ニコニコの人気が上がってきてニュースなんかで『ニコニコ動画』の話題が出るだけでも大盛り上がりだったしね。


その時の僕ら一般視聴者の心境を言葉にすると、応援してきたインディーズバンドや地下アイドルが地上波デビューした時の気持ちとか。我々の界隈で言うなら、なろう黎明期に好きだったWEB小説の書籍化が決まった時の気持ちと同じような感じだった気がするんですよ。

『自分らは熱狂しているけどマイナーな存在』がメジャーに上がるその瞬間というモノは本当に興奮するし楽しいモノなんです。

ついに『メジャーしか知らない一般人に我々が(愛するマイナーなモノが)認知される日が来たのか!』的なね。

ニコニコ動画がメジャー化することにワクワクしたのです。


だけど!


だけどですよ。

今から考えると、そういう態度、考え方は本当に正しかったのか?

と、考えることがあるんです。


そう思うのは最近のYouTuberのメディア露出の仕方からなんですよね。

テレビとかに出るトップYouTuberって、普通にこれまでテレビに出ていたタレントとかと同じような役割で出て、同じようにバラエティのひな壇に座って――みたいな感じがしません?

要するに若手芸人とか若手タレントと同じ枠の仕事みたいな。

それ自体は全然悪いって話ではないんだけども『YouTubeというメディアでトップを取った人が本当にそれで良かったのか?』と感じるところがあるんですよね。

たとえば元プロ野球選手のイチローさんとか元ホストのローランドさんとか、一つの業界のトップを走っていた人間はそれ相応に丁重に扱われているというか、メディアへの出方を選別してそういう状態を自ら作り出している感じがするじゃないですか。

つまり自らが業界のトッププレイヤーならば既存メディアに出なくても構わないし自分のキャラを崩されるような変な依頼なら受ける必要はないと。普通にそう言えるわけです。

そうしてこそ『格』というモノが作られるんじゃないかと思うんです。


昔に僕らがニコニコ動画に出てきた若手芸人に熱狂してしまったことって、それって暗に『既存メディアの方が格上』と認めてしまっていたような気がするんですよね。

本当に当時のニコニコが(我々の中だけでも)既存メディアを超えていたのなら、仮にテレビスターが出てきても、そんなことはどうでも良かったはず。

むしろ邪魔者扱いしてもおかしくない。

でも若手芸人が出てきただけでも我々は熱狂した。

してしまった。

あの時の僕らは『もしかするとニコニコ動画はテレビを超えるかも!』なんて淡い期待に胸踊らせて言いながら、実際には既に敗北を認めていたんです。


『そんなんじゃ超えられるわけないよね?』


と、今から考えると思うわけですよ。

そして日本においては上記理由から『YouTubeがテレビを超える』ってのも実は幻想なんじゃないか、と最近は少し思ってきてしまっているんですよね。


◆◆◆


というところでWEB小説の話を混ぜて話していくと。


我々WEB小説家も似たような状況にあるんじゃないか?

と思うんです。


WEB小説よりラノベの方が格上だと無意識に思ってしまっている部分があるんじゃないか? とかね。

それに『WEB小説』と『ラノベ』というだけでなく『WEB小説』と『紙の小説』という分け方ならもっとそんな感じが強いかもしれないと。

そして我々もそれを受け入れてしまっているのではないか?

しかし本当にその態度が正しいのか? と考えるんですよ。

別に紙で本を出してなくても、WEBで1万人の読者を集められたら十分凄いことではないか?

有名文学賞の受賞作品よりWEB発作品がもっと売れてるならそれは凄いことで、それこそそれ相応に称賛されるべきなのでは?

それが凄いと称賛され、それ自体が意味を持つ環境になる必要があるのではないか。

だから『WEB小説として評価されること、それこそがステータス』という流れを作者も読者もサイト側も全体で作っていかないと『WEB小説』という存在は一生『既存の小説(とか既存の環境)の劣化コピー、下位互換』というような位置付けで終わってしまうような感じがしてるんですよね。

昔、テレビが劇場からショービジネスの王座を奪ったように、WEB小説も『既存の小説』を超えていくにはどこかの段階で既存の小説とは関係なく『WEB小説こそが良い』という流れが必要だし。そうなるには我々自身が自分達の『WEB小説』というモノにもっと誇りを持っていかないとダメなのではないかと。

同じようにYouTuberに関しても、どこかのタイミングで『YouTuberとして成功することこそがステータスで、他のメディアなんてどうでもいい』という意識を作らないと一生既存メディアの下に位置付けられてしまうような気がしている、という話なんです。

で、そんな新しい世界観を醸成する中で重要な一要素が『そrでお金を稼げるのか』なのだけど、大金を稼いでいるはずのトップYouTuberがそういう感じになっていないのであれば、やっぱりお金だけでは足りないのだと思う。


どういう形でか、とにかくWEBのクリエイターが誇りを持てるような流れを誰かが作り出していくしかないんだと思うわけです。

マズローの欲求5段階説から考えると第四段階の『承認欲求』を得られる環境とでも言うべきか。

恐らくYouTuberにしてもWEB小説家にしても、この承認欲求の部分が足りてないんだろうな、っていう感じが個人的にはするんです。

つまり、世間からまだ十分には評価されておらず認められてない的な感じがあると。

そういった感覚があるからWEB小説家もYouTuberも『WEBで人気があるから満足』とはなっていない。なれていない。

だから紙の本を出すこと自体や有名な賞に憧れを抱いたり、既存メディアに出たがったりするのではないか。


少し話は逸れるけど。

昔から有名だった某個人投資家が少し前から大手メディアに出たりYouTubeを始めて情報発信をするようになったのだけど。彼って資産が数十億とかだし、年利益は余裕で億超えてるし、金銭的にはコメンテーターみたいな方法で稼ぐ必要なんてゼロなわけです。

むしろ拘束時間が長すぎて金銭効率的には割に合ってないまであると。

仮に彼が事業をやっているとかならそれも『宣伝』という答えで全て納得出来るのだけど、個人投資家には宣伝なんて必要ないですからね。

でも、わざわざ労力かけてメディアに出続けている。

その理由は簡単に推測出来るわけで。それはいくらお金が積み上がっても、それだけではそれ以上、欲求が満たされることはないからなんだろうと。

恐らく彼には上記のマズローで考えると第3段階の『社会的欲求』と、その次の『承認欲求』が足りていないのだろうと思う。第2段階の安全の欲求まではお金があれば簡単に満たしやすいけど、第3段階からはそうはいかないんです。

マズローの欲求5段階説によると人間は基本的に5段階の欲求の下層から順番に満たそうとしていく。つまり第1段階の『生理的欲求』がある程度満たされて第2段階の『安全の欲求』を求めると。

人はまず生理的欲求を満たすことを望み、食欲とか生きるために必要な欲求を満たそうとし。その次に安全や安定した生活が出来る環境を求める。で、生きることが出来て安全と安定が得られて、そこで次に第3段階の社会的欲求でコミュニティへの参加を望んで家族や友人なんかを求める。そして第4段階で承認欲求を求めるようになって他人からの承認、つまり直球で言えば称賛なんかを得たくなる。

単純に投資でお金を稼いでいるだけでは第2段階までしか満たせなくて、個人投資家という自分一人で完結する仕事ではどんどん社会性を失っていくわけで、自分から積極的にメディアに出ていかないと人とも会わないし人から認められることもない。

それではどんどん孤独な世界に入っていってしまう。

そうならないために彼は積極的にメディアへの露出を増やしているのだと推測出来るわけなのだけど。

よくこういった個人投資家とか実業家とか、そこそこ名の通った人がやるメディア露出とか情報発信に対して「本当に○○億円稼いでるならそんなことしなくていいじゃん」的な発言をする人がいるし『詐欺』だと決めつける人もいるけど、そういう人ってかなり上記のような観点を見逃していると思ったりするんですよね。

お金があれば人生全てが上手くいくってわけじゃないからね。


上記の例では、人生の中でマズロー的な、より高位の欲求を満たす必要性を書いてきたのだけど。タイトルに戻って話をすると、やっぱりYouTuberもWEB小説家も、もう1段階上の欲求を満たせるように業界を変えていかないと結局は既存メディアの下位互換で終わってしまって尻すぼみになるのではないか? という懸念があるわけです。

結局は上位メディアに行くための踏み台であり、草刈り場で終わってしまうと。

そうならないためには僕ら自身が業界に誇りをもたなければいけないし、誇りが持てる環境を作り出さなきゃいけないのではないかとね。


そうは思うのだけど、言うは易く行うは難し。

どうすりゃいいんだ? ってな話ですよね?

でも、タイトルに書いたように、一人一人が誇りを持つということが最初の一歩なんじゃないか? と、ちょっと思ったんです。

だから一人でも多くの人にそれを意識してもらうことが重要。

なのでこれを書いたことが僕個人にとっての最初の一歩なんじゃないか、と感じていたりします。

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