創作するなら「小説・漫画・映画・ドラマなんかをよく見ろ!」と言われる理由を論理的に考える
少し前、某小説家の人がテレビのインタビューで「面白い作品を作るにはどうすればいいか?」という感じの質問に対して「アウトプットするにはインプットが必要」「どれだけ感性が鋭い若い頃に映画とか小説とかを見てインプット出来るかが重要」というような内容を答えられていた。
逆に作家の中には『インプットは不要』という意見の人もいるらしく、有名どころでもそういう話をする人もいるが、そういう意見の人でも『子供の頃に色々見てるからそれで十分』という意味であって、インプットは一切合切まったく必要ないという意見の人はいないと思う。
個人的には『インプットは必要か』という問いには『当然、必要!』だと答えることにしているのだけど、じゃあ実際インプットにはどんな効果があるんだ? というところをちょっと自分の経験とかを思い出しながら論理的に紐解いていこうかと思ったわけです。
◆◆◆
順番に思いつくところから書いていこうと思うのだけど。
『時代劇』
これに関しては明確で。
偉い人の話し方(偉い人に対する話し方)を学べたのが物凄く大きかったと思っている。
ファンタジーでも国王とか貴族とかが出てくる話を書く場合、丁寧語とか尊敬語ともちょっと違う古臭い言葉遣いがかなり合うのだけど、これをすんなりと書けるようになるには日本では時代劇で学ぶのが一番適していると思う。
なろう系でもよく貴族とかが出てくるシーンがあったりするが、その時に出てくる貴族を『冒険者上がりだから堅苦しい言葉遣いが苦手』とか『脳筋だから細かいことにはこだわらない』とか『庶民派だから礼儀とかには煩くない』とか、そういう設定にする場合が多いように感じるけど、あれってそういう古めかしい言葉で会話を成立させるのが難しいことが一因なのでは?とちょっと思ってる。
というのも、自分も書く側の立場になってみたら困ることがちょっとあったし。時代劇をずっと見てなければ書きにくかっただろうなと思うシーンは多い。
個人的にはなろう系では『偉い人に対する呼び方』に違和感がある作品がよくあって。
例えば王のことを「王様!」と呼んでしまってたりね。
王様という呼び方は凄く子供っぽい印象になるのだけど、だからそれを大人のキャラにやらせると凄くヌケて見えちゃうんですよね。
同じように王子のことを「王子様!」と呼ぶのもキツいものがある。
勿論、子供っぽさを演出するためにわざとそういう呼び方をする場合もあって、そういうのは良いけど。
ナチュラルにそういう感じになってる作品は内容が面白くても違和感が強くなってしまうから、かなり重要だった。
なので王は『陛下』で王子は『殿下』で宗教指導者なんかは『猊下』とか、この辺りの敬称を自然の身につけるにも和洋問わず時代劇が適してるのだと感じる。
『小説』
これに関しては、小説を書く時の描写方法を学ぶという部分が大きいと思う。
小説を書く場合、どういった場面にどういった書き方をすればいいのか、とか。そういうのを学ぶのには同じ小説を読むしかないと感じる。
僕が個人的に気にする範囲で言うと、文末の文字が連続して同じ文字が続くと単調な印象になりやすいため、意図して調整して言葉を変えたりしているし。逆にわざと同じ文末にして単調さを出すことで静かな空気感とか、集中している様子とかを表したりしている。
例えば、
①『僕は剣を振り上げた。そしてそれを振り下ろした』
②『僕は剣を振り上げて、それを振り下ろした』
③『僕は剣を振り上げ、それを振り下ろした』
④『僕は振り上げた剣を振り下ろす』
内容は同じ文だけど、上げた剣を振り下ろすまでの間のタメを①では長くして、スローモーションのような見せ方にして④にかけて短く素早くするような文章にしてみた。
読んでみた時の印象も少し違うはずで、そういうのを使い分けて読者の頭の中のキャラの動きをコントロールしていくのだけど、こういうのは小説を多く読んで、文字での様々な表現方法を頭に入れてないとすぐには出てこないのではないかと思う。
『自分が書きたいジャンルの創作物』
これは流行を掴む意味で大切なんだろうと思う。
それは流行りモノを書くための流行を掴むための作業というだけではなく、そもそもなにが最新なのかを知らないと自分が書きたいモノが最近なのか古臭いのか定義出来ないわけで。
例えば自分では新しい斬新な作品を作れたと思っていても、自分が知らないだけで似た作品は他にもあって、そのジャンルのファンからしたら古臭いとしか思えない的なことになる可能性もあると。
なので自分の好きなジャンルの流行の流れぐらいは掴んでおく必要がある。
『映像作品』
個人的に思うのが、創作する時、その場面場面が頭の中に浮かんでますか?という話で。
自分の中では、小説書いてる時はその場面が頭の中で浮かんでいて、カッコいいカメラアングル(視点)とかも想像しながら書いてるんですよね。
戦闘シーンなんかも主人公の動きと相手の動きを武道なんかでよくある演舞のように物理的におかしな点がないように構築しながら書いてるというか。
2人が話すシーンでも、そこになにがあればカッコよく見えるかとか、どこから相手が出てきたら映えるのかとか、視点(カメラ)はどこに置くかとか、こういうのって多くの映像作品を見て頭の中に場面のストックがないと難しい気がしてるんですよね。
『映画』
約2時間で終わる映画はその中に起承転結を上手くまとめているため、恐らくだけど物語の大きな起承転結のサイクルを一番手っ取り早く接種可能な媒体なんだと思う。
それに映画は予算の掛け方もテレビドラマとかより大きい傾向にあるわけで、他の媒体よりも作り込まれていることも多い。
お金がかけられるということはカメラアングルの自由度も高くなるわけで。例えば上からの視点で撮影するにはクレーン等が必要になるし、ありえないシーンを撮影するにはCGで作らなきゃいけないから、お金がある方が様々な映像が作れるはずで、映画はその点でも優れている可能性が高いと思う。
なので、質の良い作品のインプットには一番効率が良いというか、大量摂取に向いているのだと思う。
時間効率としては小説とかの方が良い可能性はあるが、小説とかと違って受動的に見れるのも大きくて、見るだけで頭に入ってくる映像というメディアは見るための消費カロリーも少なくてすむし、やっぱり大量摂取向き。
小説を書く経験値は1つの物語を完結まで書かないと上がらないという人がいるが、インプットによる経験値の獲得も起承転結全てを見ないと稼げないような気もするし、そういう面でも優れているのだろう。
過去、様々な作家とか監督とか漫画家とか脚本家とか、とにかくシナリオメイカー的な役割の人の体験談を見た感じ、一番よく出てくる意見は『とにかく映画を見ろ』だったと思うので、やっぱり一番映画がインプットには適している気がする。
『漫画』
作家にとって漫画を選んで読むことに漫画にしかない特別な意味があるか、というと、これはちょっと分からない。
当然、漫画家さんが漫画を読めばコマ割りとか場面の切り取り方とかは学べると思う。でも小説家とか脚本家がそれを活かせるのかは分からない。
強いて言えば、実写作品では予算の関係上実現出来ないシーンも漫画なら自由自在であること。映像化出来る作品は一部であることを考えると、映像化されてない名作を読む意味はあるかもしれない。
上で書いたように、カッコいいシーンの見せ方とかカメラアングルの上手さは小説でも活きるというか、書く時にはシーンを頭の中に浮かべながら構築していくわけで、漫画の見せ方も参考になると思う。
『WEB小説』
作家さんの中には「インプットするなら名作を」という人がいるけど、個人的には『名作でなくてもインプットする価値がある』と思ってる派。
というか『人気のある作品』というのは『人気のない作品』があるから相対的に人気があると分かるわけで『その作品はどうして人気が出たのか』を考察する場合、言い方は悪いかもしれないが『人気が出なかった作品』との対比によって導き出すのが一番分かりやすいと思っている。
そういう意味では小説投稿サイトというのはうってつけの場で、書籍化される人気がある作品から全く人の目につかない作品まで色々とある。
それらを色々と混ぜて読んで、その対比によって良い作品の形を見つけていくのはかなり良いトレーニングだと思ってる。
実際、自分も色々と読んでて「こういうのはダメだな」と感じた事はかなりあって、それが参考になってる部分はかなりあるので、色々とWEB小説を読むのは重要だと思う。
『海外作品』
別のところでちょっと書いたけど、最近ちょっと韓国漫画と中国漫画を読んでるのだけど、これを見てると国によってまったく作品の方向性が違うんだなと改めて気付かされる。
日本作品でもなくハリウッド的でもないナニカをすごく感じる。
今のアメリカ作品ってアメリカ作品というよりグローバル作品という感じで、あれでアメリカ作品の色を見るってのがちょっと難しい感じがするというか。
もう少し言うと、ディズニーはアメリカのモノというより『ディズニーアニメ』という固有ジャンルというか独特のモノで、グローバルすぎてそれではアメリカ独自の傾向が出てないように感じるし。ヒーローモノも日本でいうところの戦隊シリーズみたいなモノで出版元も作者も少なく多様性がないからそれをもって傾向を議論出来るような数がない感じ。
『ディズニー』『マーベル』という団体の傾向はあっても『アメリカ作品の傾向』は見えにくい、という感じがある。
でも韓国漫画や中国漫画は日本と同じように多数の作者と多数の出版社によって色々と出されているから傾向が見える気がして。
まったく日本とは違う、特に中国作品を見てると日本人やアメリカ人なんかが考える『面白い』という感覚は必ずしも世界の他の国と同じとは限らないとかなり感じるのでおすすめかもしれない。
自分の中の概念はちょっと変わるかも。
個人的に中国作品に感じた傾向での大きなポイントは。力ある人間はその力を思うままに存分に振るい誇るのが当然であるというような空気感と上下関係の厳しさだろうか。
故に主人公を含めた強者が傲慢さや傍若無人とも取れる行動を取ろうとする場面が多く見受けられる。恐らくだが上下関係が厳しいがために人と人の関係において『どちらが上位か』という綱引きが常に行われている感じで、相手に対して何かで譲ると相手の下位に置かれる事になって上下関係が決定してしまうため、常に強い姿勢を見せる必要があるから傲慢とも取れる強い態度が必要になるんじゃないかと思う。
つまり娯楽作品の主人公がおとなしかったり無駄な争いを望まないようなタイプで争いを穏便に収めようとした場合、主人公が何かを譲歩した時点で係争相手より下位に落ちたと読者に認識されかねないため、そうならないよう『主人公は対立した相手を容赦なく叩き潰さなければならない』ようになっているのが中国作品の傾向な気がしてる。
主人公は常に自分の力を誇示するために常に強い態度で相手と接してないとあちらの読者にはウケないのではないかと思う。
『神話・伝説・童話』
ハリウッドの脚本メソッドとかだと、いくつもの神話の構造を解析して面白いストーリーをいくつかのパターンに分類し、そのパターンに当てはめてストーリーを作る的なモノがある。
つまり神話とかって大昔から今まで語り継がれているわけで、それは面白い話だからそんなに長く語り継がれているのだから、その作品らには人を惹きつける普遍的な要素がどこかにあるはずであると。
なので大昔から伝わる話なんかを読んで構造を考察するのも役に立つのだろうと思っている。
『古典作品』
神話とかまでいかなくても古い作品。
持論なんだけど、流行ってのはその字のように流れがちゃんとあって、いきなり何の脈絡もなく新しい流行が生まれることはないと思ってる。
1人の人間では全貌を調べきれないからいきなり脈絡もなく新しい流行が生まれているように見えるだけで、実際はその流行が生まれるまでに前段階の流行があって、前段階から見ればどうしてそんな流行が生まれたのかその理由が理解出来ると考える。
例えば19世紀後半にSF界隈でタイムトラベルという概念が生まれたわけだが、それがあったから数年後にHGウェルズがタイムマシンという『時間を越えるための機械』なんていう新しい存在を生み出せたし、そこでタイムマシンという概念が出来たから今現在様々な作品でタイムマシンが創作物で当たり前に使われるようになっていると。
そんな感じに古いモノを知ると現在までに繋がる流れが認識出来るようになるから方向性が見えるようになると思う。
どうしてその作品がウケたのか、評価されたのかが、その作品に連なる過去の作品を知ることにより浮かび上がってくる感覚はある。
◆◆◆
個人的な見解ではあるけど、自分にとってのインプットとは『自分ならこうする』を見付けることだと考えている。
「この作品、好きなんだけど、この部分はちょっと納得がいかないな。自分が書くなら絶対こうするのに」
これを探すことがインプットの本質なんじゃないかと思う。
よく大物作家がインタビューで「◯◯に影響を受けた」と言っていたりするが、この『影響』の部分がこれなんじゃないかと。
好きな作品があって、それを丸々写し取ったらコピーになってしまう可能性があるけど『好き』の中にも『好きじゃない』部分はあるはずで、それを自分色に変えることでそれが『個性』になる。
どんなモノでも完全にゼロから作り出すってのはほぼ無理なので、やっぱり自分がそれまでインプットしてきた『好き』の中にあるモノがベースになっていくはず。
これは誰でもまず変わりはしない。
なのでインプットとは、自分の『好き』を集めることと、その中の『好きじゃない』部分を認識し理解すること。
そしてアウトプットとは、その『好きじゃない』部分を自分なりの『好き』に染めて表に出すこと。
これなんじゃないか――というのが現時点での僕の結論。
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