リアリティショーの終焉と、コンテンツのあり方が問われる時代の始まり

昔、車で聞いた、とあるラジオの中で語られていた話だ。

ある女優さんが子供の頃に出た青春学園ドラマで主人公をいじめる悪役を演じたら、撮影場所まで電車で通勤している最中にいきなり知らない男から声を掛けられ、「○○ちゃんをいじめるな!」と詰め寄られて罵倒された、と。

これは今から30~40年前ぐらい前の話で、この頃はリアルに『現実とドラマの中の区別が付いてない人が一定数いた』のだ。

冗談みたいではあるけど、あの時代にはそういう話がよくある。


そして、これはどこで聞いたか忘れたしソースもちょっと出てこなかったけど、アメリカでは映画で起こった内容が実話だと思っている層が一定数いる、という研究結果があったと記憶している。

つまりインデペンデンス・デイのように宇宙人が地球に侵略してきて、それをアメリカ軍と勇敢なアメリカ人が撃退したという歴史がガチであると考えている人が一定数いるらしいのだ。


ここまでの話を「いやいやいやw」と感じる人も多いだろうが、例えば昔、プロレスが『プロレス』だと認識されていなかった時代、ヒール役は本当にヒールだったし、ヒーロー役は本当にヒーローだった。だからこそ力道山が試合後に対戦相手と飲みに行って批判されたし、八百長だのやらせだのという言葉が飛び交ったのだと思う。


今から考えたらこれらの話は『嘘だろ?』ってな話ではあるけど、その当時はテレビの中のフィクションとノンフィクションの境目が分からなかったのだ。その時代はそういうモノで、そこに関して彼らを責めることは出来ない。

勿論、『分からなかったから』といっても誰かを侮辱、罵倒するのは悪いことで、そこは別に考える話であると強く言っておきたいが。

仮にアマゾンの奥地の電気も通ってないような場所に住む部族に現代のドラマとか映画を見せたとしても、それがリアルなのかフィクションなのか彼らは今でも判断出来ないだろう。

子供が戦隊ヒーローやアニメキャラに憧れて真剣に将来の目標にするように、蓄積がなければ判断出来ないモノなのだ。

判断出来るだけの材料が、その積み上げがなければそうなってしまう。


さて、今の時代、今の日本で、流石にドラマに殺人鬼役で出た役者を本物の殺人鬼だと信じる人はいないとは思うが、しかしリアリティショーの場合はどうだろうか、と考える。

現状、リアリティショーが本当にリアルなのか、それともシナリオのあるショーなのか。それは分からない。

ただネットを見ていると「あんなの台本に決まってるだろ」というような意見が多く見られる。そりゃ勿論、リアリティショーにも台本があるのかもしれないけど、それの証明はされていないと思う。リアリティーショーを作っている側も明言していないし。

つまり現時点ではどちらとも言えないはずだ。


そもそも、リアリティショーとは『リアル』がウリで、リアルであることを楽しむモノではないか。

台本があろうがなかろうが、そんなことは極論どうでもよくて、そんなモノをすっ飛ばしてそれが『リアル』であると認識して見るのが正しい楽しみ方なのだ。

だとすればだ。リアリティショーで放送された内容で出演者個人の印象や評価が大きく変わってしまうのは至極当然と言えるはずだ。

それが『リアル』として、出演者の個人を出していると視聴者は考えるからだ。

例え実際には台本があろうとも、そんなことは関係がない。

そういう見世物として作られているモノを見て、そういうモノだと感じただけなのだから。


繰り返すが、だからと言って他人を中傷していいという話ではない。ということは強く言っておきたい。


つまりのところ、リアリティショーというのは非常に危険で恐ろしいモノなのだ。

そういうことに今回、気付かされてしまった。

それは『SHOW(ショー)』なのだから、制作側は面白くなるように切り貼り編集してウケる形にする。それはバラエティとしては当然ではあるのだけど、しかしそれで影響を受けるのは出演者個人になる。その結果、出演者が思いもしない印象を視聴者に与える場合もあるし、意図とは違う内容になるかもしれない。


それは本当に恐ろしい。


以前、某YouTuberがドッキリ企画を批判されて、「俺の動画見てる視聴者ならこれが(事前に打ち合わせのある)ネタだと分かるだろ」ということを言っていた。

しかし個人的には、それは言わない方がいい話だと思っている。

ドッキリというのはリアリティーショーの一種だと考えられるからだ。

ドッキリに台本があるかないか、事実がどちらにせよ、それが台本のないリアルであると信じて見るから面白い。なのに演者が『台本がある』と明言してしまうと面白さの前提が崩れてしまう。

『リアルである、という建前』は崩してはいけないのだ。

その前提を崩してしまうと全てが無味無臭になってしまう。

だからこそリアリティーショーをやる場合はある種の覚悟が必要になるのだろうと思うのだけど。

……まぁ、このあたりの話は色々とアレな感じで表現が難しいので止めておこうと思う。


◆◆◆


かつて、プロレスが『プロレス』であるという共通認識が生まれた時のように、いつかリアリティショーにもそういう共通認識が生まれるようになるかもしれないし、そうなればリアリティショーでヒールを演じても出演者は視聴者のヘイトを買わなくなるだろう。

しかしそれはリアリティショーの終焉の時だ。

なぜならその時、リアリティーショーは『ドラマ』になるのだから。

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