第38話 大団円

榎本の庄へ行ってみようと思い立ったのは、四月も終わりの、連休直前のことだった。もうすぐ国明の命日がやってくる。幸い五月の三日から五日まで、部活は休みだ。海神の祠へ行って、せめて花でも手向けたかった。



朝早く、ベージュのコットンパンツと生成のシャツに小さなリュックをひっかけ、藤木は家を出た。一人で出かけるということに家族はひどく心配したが、もう大丈夫だから、電話を入れるから、となんとか説得した。



電車を乗り継ぎ、藤木は小さな駅に降り立った。潮騒が聞こえる。


ただいま…


ホームに立って藤木は小さく呟く。吹きすぎる風が海の香りを運んできた。


小さな町の駅は閑散としていた。改札を出ると小さなロータリーになっており、並べられたプランターにはペチュニアが濃いピンクや白の花を咲かせていた。

藤木は祠へ続く海沿いの道を眺める。アスファルトの道の先には、初夏の海が晴れ渡った空を映してキラキラと光っていた。


ごぉっと電車の音が響いた。上り電車が駅に着いたらしい。ぱらぱらと数人、改札口から出てくる。ぼんやりと藤木はそれを眺めた。


「藤」


突然、名前を呼ばれて藤木は飛び上がった。それは愛しい男の声だった。だが、その男は八百年も昔にこの地で死んでいる。呆然と藤木は声の方を見つめた。人影が近寄ってくる。濃緑色の直垂に身を包み、髪をざんばらに降ろしたままの国明、そうだ、客のない時には折烏帽子を面倒くさがって髪を後に一つくくりにするだけで、秀次がそれをいつもたしなめるのに聞き流すばっかりで…


「藤、やっぱり藤か」

「……佐見…」


濃緑色のシャツとジーンズ姿の佐見国明だった。


「どうしたんだ、こんなところで」


半ばぼぅっとしたまま、藤木は答えた。


「別に…ちょっと来てみただけ…」


それから、残像をはらうように、藤木は軽く頭を振った。国明はもういない。それは嫌と言うほど思い知っているはずなのに、何故ここで、国明と過ごした場所で佐見に会うのか。佐見の顔を見るたびに、国明の死を突きつけられる。深い淵に落ち込んでいくような喪失感に襲われる。それなのに、よりによって何故。


「君こそ…どうしてここに…?」


ぽろりと口をついて出る。


「オレの母方の祖母がこの近くなんだ」


佐見の答えはあっさりしたものだった。


「言っていなかったか。小さな頃から遊びに来ていたから、案外この辺りには詳しいぞ」

「…そうなんだ…」


早く一人になりたい、気の抜けた返事をしながら藤木の頭にはそれしかなかった。一人になって祠へ行きたい、祠から館への道筋もなんとなくわかるはずだ。せめて館のあった辺りに立って皆の冥福を祈りたい。


「藤はなにか用事でもあるのか?」


突然聞かれて面食らう。答えようがなくもごもごと言った。


「え…別に…」

「そうか、だったら一緒に来ないか。今から歴史資料館に行こうと思っていたところだ」

「え、あの…」


佐見は藤木の様子には頓着せず、勝手に話を進める。


「小さい所だがなかなか面白いぞ。あぁ、バスが来た。あれだ」

「あの、佐見、だから…」


あたふたする藤木を引っ張って、佐見は目の前に止まったバスに乗り込む。ほとんど乗客のいないバスの、前方の座席に腰をおろしながら藤木は諦めたようにため息をついた。


「君って案外強引…」

「なんだ?」

「…別に」


藤木は佐見に気づかれないようまたため息を漏らした。妙に強引なところとか、ヘタに国明と似ないで欲しい。やりきれなくなる。

車体を軋ませながらバスが発車した。横では佐見が資料館の説明をはじめる。適当な相づちを打ちながら藤木はバスのフロントガラスの向こうを眺めた。砂浜沿いに松林が見える。藤木の耳にはいつしか館の松風の響きが蘇っていた。





歴史資料館は駅からそう遠くない場所にあった。町おこしの目玉なのか、バス停周辺の歩道は整備され、グレイの敷石が続く先には『歴史記念公園』と彫られた黒灰色の御影石がある。


「この先が資料館だ」


芝生と季節の花々が植えられた花壇の先に、白い塗り壁に瓦屋根の小さな建物があった。「入館無料」と書かれた木の板がかかっている。入り口をくぐると、中は薄暗くしんとしていた。受付テーブルの後に中年の女性職員が眠そうな顔で座っている他は誰もいなかった。


「この辺りは江戸時代の生活用品や農耕具が置いてあるんだ」


ペラペラのパンフレットを藤木に渡しながら佐見が言った。楽しそうに説明する佐見に藤木は苦笑を漏らす。


「君が歴史好きだったなんて、知らなかったよ」

「祖母が結構ここを気に入っていて、よく連れてきてもらった。そのせいかもしれんが、なんとなくここへ足が向くんだ」


照れくさそうに佐見がメガネを押し上げた。その仕草を藤木はぼんやりとした気分で眺める。

国明はこんな仕草はしなかった。メガネをかけていないから当然なのだが、改めて佐見は佐見なのだと藤木は感じた。


農機具のコーナーを過ぎ、ガラスケースの中の瀬戸物だの掛け軸だのの前を漫然と通り過ぎる。佐見はこの資料館のものには精通しているらしく、あれこれ説明した。藤木はその声をどこか遠くに聞いていた。国明と同じだが同じではない声は意味をなさずにただ耳を通り過ぎていく。ガラスケースの中身に目をやりながら、藤木の瞳は何も見てはいなかった。心は榎本の館へ、国明のいた場所へ飛んでいる。機械的に足を進め、資料館の一番奥の部屋にはいった時、佐見がいきなり藤木の腕を引いた。


「え、何?」

「こっちだ」


佐見はどこか嬉しそうだ。我に帰った藤木は引っ張られるまま部屋の正面奥のガラスケースの前へ連れて行かれた。


「結局、これを見にここへ来ているようなものかな」


促されるまま目をやった藤木は、そのまま愕然と立ち竦んだ。息を詰めたまま、ガラスケースの中を食い入るように見つめる。


これ…


藤木の周囲から音が、景色が消えた。一瞬、館の喧噪が耳に響く。ざぁっと海風の吹きすぎる音が聞こえた。


そこにあったのは、館で使っていた藤木の塗り椀だった。


白い布の上に固定された黒塗りの吸い物椀は、艶がなくなり煤けていた。所々欠けてもいる。が、テニスボールのような模様の螺鈿細工はまだ光を失っていなかった。国明の声がする。


『藤の一番好きな物を選べ』


黒い瞳が真っ直ぐに藤木を見ている。


『藤がよいと思ったのだろう?ならばおれもそれがよい』


それ、テニスボールみたいって思ったんだ…


「あ…」


伸ばした手が冷たいガラスに遮られ、藤木は我に帰った。鎌倉時代前期と書かれたプラスチックのプレートが照明をはじき、藤木は目を眇める。


何故これが…


両手をガラスについたまま、藤木はひたすら椀を見つめる。ケースの中は無機質な光で白々としていた。

立ち止まって展示物に見入る藤木を後から眺めていた佐見は、この時代に興味を持ったと思ったのだろう、あれこれ出土品の説明を始めた。


「ここは鎌倉時代前期の館跡発掘で出土したものが展示してある。この塗り椀はかなり高価なものらしい。神事に使われてたもので、海神への供え物を入れていたようだな」


違うよ、僕が使ってたんだ。これで貝の汁飲んでたんだよ…


「館の人々の使ってたのはもっと素朴なものだ。隣に展示してある」


佐見は熱心に説明を続けた。


「見比べるとこの塗り椀が特別だってよくわかるな。螺鈿細工の色はまだ失われていないし、この時代の意匠としては洒落ている」


だが佐見の声はただの音となって藤木の上を通り過ぎていくばかりだ。心が麻痺したように藤木はただ立ちつくす。その時、耳にふと、佐見の言葉が飛び込んできた。


「面白い模様だろう?テニスボールのようだと思わないか」

「えっ」


思わず振り向いた。佐見は目を細めて塗り椀を眺めている。


「子供の頃、はじめてこれを見たとき、テニスボールだと思った。そのせいか、なんとなくこの椀を気に入っている」


視線を感じたのか、藤木を見て照れくさそうな表情になり、それからまたガラスケースの中を指さした。


「あと、あの青磁のかけら、いい色だろう?」


示された物を見て、藤木は今度こそ動けなくなった。青磁のかけら、それは国明が藤木にくれた、母の形見だという青磁の陶片だった。見間違えようもない色と形、八百年たった今でもその色合いは褪せていなかった。


「ここの展示物の中でオレは一番好きだ。ただのかけらなんだがな」


何のかけらなのかはわからないそうだ、とか、中国からの渡来物だ、とか佐見が説明している。だが、藤木の耳にはもう入らない。


国明…


あれは藤木の宝物だ。国明が藤木にくれたのだ。


あの時、そうだ、あの時は半分だけ現代に帰った僕が泣いて、母さんを呼んで泣いて…


次々と蘇る光景。藤木は凍り付いたようにガラスケースの中を見つめる。


国明が僕を抱きしめてキスしてくれた。その夜、国明があの陶片をくれた。お母さんの思い出を話してくれたんだ。


板戸を開け放した廊下で、月が出ていた。抱きしめてくれた国明の腕の感触を藤木はまだ覚えている。


あれは僕のものだ。


気が違いそうだ。ガラスケースを叩き割って、あれは僕の物だと叫びそうになる。


返せ、それは僕が国明から貰ったんだ、僕の物だ…


「オレがこの茶碗を割った」


国明の声がした。藤木はぎくりとする。国明ではない、佐見だ。


「子供の頃、茶碗を割った」


何だ、何の話だ。佐見は何を言っている?


「いや、これにはただの陶片としか書いてないから、茶碗のかけらなのかどうかははっきりしないんだが、夢の中のオレは茶碗を割って、それがこのかけらなんだ」


話しているのは誰だ、佐見なのか?


「それからオレはこのかけらをお前にやったんだ」


変な夢だった、と背中の男が言う。藤木は振り向くことができない。国明の声で、国明の話を何故佐見がする。


「子供の頃から通っていたから、そんな夢を見たんだろうな。お前は秀峰のジャージを着ていたり時代劇のような格好をしていたりで、オレはオレでやはり武士のような格好をしていた。他にも色々たくさんいたような気がする」


藤木は小刻みに震え始めた。何だ、いったい誰なんだ、ここにいるのは誰だ…


「…佐見…?」

「ん?なんだ」


喉の奥がカラカラだ。声が緊張で掠れる。


「茶碗…割ったの…?」

「いや、だから夢だと言ってるだろう。ここの展示物は鎌倉時代前期のものだぞ。実際にオレが割れるわけがない」


それから佐見は、夢の話は終わりとばかりに中国との貿易の話だの渡来物の話だのを始める。ぐらぐらと目眩がしそうになるのを藤木は堪え、もう一度佐見、と呼んだ。


「なんだ」


すぐに返事がある。ここにいるのは佐見国明だ。


「佐見…その夢の話…」

「あぁ、つまらんことだ。気にするな」


佐見は背後で気まずそうに言葉を濁す。藤木はそれでも畳みかけるように聞いた。


「夢で僕にあのかけら、くれたの…?」

「まぁな…」


がくり、と藤木の膝から力が抜けた。慌てて佐見が抱きとめる。


「ふっ藤」


藤木が顔を上げると、黒い瞳にぶつかった。心配そうに藤木を見つめている。


「藤、顔が青い。外へ出よう」

「佐見…」


これは佐見だ。他の誰でもない佐見国明だ。だけど、いったい今、この男は何を言った。


よろけそうになるのを佐見に支えられ外へ出る。五月の陽光がまぶしく目を射た。花壇の側のベンチに腰掛ける。


「待ってろ、なにか飲み物を…」


立ち上がろうとする佐見の腕に思わず藤木は縋った。佐見が驚いた顔をして藤木を見つめる。


「あ…ごめ…」


ハッと手を離した藤木の隣に佐見はまた腰を下ろした。藤木はうつむき、拳を握りしめた。


そんなはずはない。


グラグラと目の前が揺れる。


国明は死んだんだ。僕の目の前で。


ふっと、黒灰色の空の下を吹き抜けた風の匂いがした。蒸し暑く湿った風、藤木は体を震わせた。鎧の朱、鈍い銀色、黒い瞳、国明の朱、国明の…


振り払うように藤木は頭を振った。目の前には青々とした芝生が広がり、ピンクのペチュニアや白いマーガレットが咲き誇っている。降り注ぐ五月の陽光は明るい。だが、藤木の五感は麻痺したように何の刺激もとらえていなかった。血が下がって指先が冷たい。それなのにこめかみはひどく脈打っている。心臓の音がやけに耳障りだ。藤木はカタカタと震える体を自分の両腕で押さえつける。その時、佐見の心配そうな声が降ってきた。


「真っ青だぞ。少し横になれ」


ガンガンと動悸がうるさい。佐見は何を言っているんだろう。言葉の意味をとらえられない。音だけが耳に響く。国明の声と同じ音、藤木は首を振った。


「そこの受付でタクシーを呼んでもらう。座っていろ」


再び立ち上がろうとした佐見の腕を咄嗟に藤木は掴んでいた。顔を上げられない。心臓は激しく打っているのに体の芯は冷え冷えと凍り付くようだ。グラグラと崩れそうになる世界の中で、佐見の夢の話を聞きたい、その思いだけがはっきりと意味をなした。それ以外、頭に浮かばない。


「その…夢の話…聞かせて…」


絞り出すように藤木は言った。ガチガチに強ばった指が佐見の腕を強く握る。佐見の戸惑う気配がした。


「藤?」


困惑する佐見にただ藤木は俯いたままその腕を掴むばかりだ。


「どうしたんだ、藤」

「聞きたい…佐見…」


声が掠れる。早く聞かせて。何かが壊れてしまいそうだ。佐見の腕を強く握った手は傍目にもわかるほど震えている。しばらくの間、佐見は途方に暮れたように藤木を見ていた。だが、藤木の様子があまりに尋常でないと思ったのだろう。佐見はぽつぽつと話し始めた。


「たくさん人がいたな。そのくらいしか覚えていない」


うーん、と唸る。


「全部曖昧だから、話すことはほとんどないんだが…」


佐見は難しい顔で空を睨んだ。


「藤だけが秀峰のジャージというのが変だろう?」


空を睨んでいた国明が、ふと表情を緩めた。


「オレや周りが時代劇のような格好といっても、着物じゃないんだ。この資料館の影響だろう、鎌倉時代の武士の服装とか展示してあるから」


佐見は肩をすくめた。


「直垂、とかいうやつか、あれだ。オレはなんだか濃い緑っぽい直垂を着ていた」


雷に撃たれたような衝撃が藤木を貫いた。思わず顔を上げる。愕然と藤木は隣に座る男の横顔を見つめた。


ここにいるのは誰…


耳鳴りがひどい。足下が揺れる。


「はっきり覚えているのは、そうだな、オレが子供の頃、青磁の茶碗を割ったことと…」


誰なんだ…


息ができない。ぐるぐると世界が回る。はっきり見えるのは目の前の男だけ。


「割った茶碗のかけらをお前にやったことくらいだから…」


君は誰なの…


「すまん、本当に覚えてないんだ。」


佐見は困ったように笑った。藤木は呆然と目を見開いたまま瞬きもしない。


「どうした?藤」


神様…


佐見が首を傾げる。藤木はひたすら佐見を凝視した。


「どうかしたか?」

「は…八百年…」


ぽろりと震える声が漏れた。佐見が目を瞬かせる。


「八百年たとうと、千年過ぎようと…」


藤木は言葉を続けられなかった。息が詰まる。佐見を見つめることしかできない。佐見はじっと藤木の目を見つめ返した。黒い瞳にふと、何かが浮かぶ。呟くように佐見が口を開いた。


「おれの魂はおぬしを求め、そして見つけだす…」


…あぁ…神様…


藤木と国明しか知らない言葉。


「これからどんなに時を経ようと…」


二人だけの睦言。


「…おぬしはおれのものだ。」




海風が吹いた。館を吹きすぎる風だ。



国明



藤木は目を閉じてその風を受けた。潮騒が聞こえる。馬のしわぶき、武具の音、館の人々の声、そして自分を呼ぶ声。



見つけた、国明…



とうの佐見は、自分が呟いた言葉に驚き目を見開いている。


「…何」


佐見は口を押さえて黙り込んだ。藤木は目をあけてどこか呆然としている男を見る。胸に熱いものがせり上がってきた。


また君に会えた。


目の前がぼやけた。佐見の、国明の顔がぼやけてくる。


「ふっ藤っ」


我に帰った佐見が顔を覗き込んできた。


「藤っ」


ひどく慌てている。


「どうしたんだっ」


どうしたって、あぁ、僕、泣いているんだ。


「藤、どこか痛いのか、大丈夫か、藤」


ぽろぽろと涙をこぼす藤木に佐見は狼狽えた。


「おっおい、藤、本当にどうしたんだ」


名前を呼びながら藤木の頬の涙を指で一生懸命拭う。


あぁ、相変わらず…


涙を拭ってくれる手が温かい。


八百年たっても相変わらず心配性だよ、君は。


「国明…」


藤木はもう堪えきれなかった。堰を切ったように涙が溢れ出す。


「国明、国明…」


藤木は佐見にしがみついた。


「ふふ藤?」

「くにあきっ…」


藤木は激しく嗚咽を漏らした。


「…藤…」


佐見がそっと腕を回してくる。泣きじゃくる藤木の背を優しく撫でた。


中学校の入学式、桜並木の下に立つ佐見に、何故あんなにも惹かれたのか今ならわかる。ちらちらと舞い散る桜の花びらの中で濃緑色の直垂が黒い学生服に姿を変えた。本当はあの時、互いを見つけていたのだ。


君はとっくに僕を見つけていたんでしょう?国明。

そして僕は生まれる前から君に恋していた…


頬に当たる感触は固い直垂から柔らかい綿シャツに変わったが、背を撫でる手の温もりは変わらない。藤木は佐見の胸にしがみついたまま、声を上げて泣いた。今度こそ離れない。ずっと一緒にいる、一緒に生きる。


「国明の…側にいる…いるから…ずっと…」


途切れ途切れに藤木は言った。


「見…見つけてくれて…ありがと…くにあき…」


後は声にならず、ただ泣いた。


一方、藤木の切れ切れの言葉を聞いた佐見は、耳まで真っ赤になって固まっていた。だが、背を抱いた手には力が込められる。海から吹いてくる五月の風が優しく二人を撫でていった。









ようやく泣きやんだ藤木は、今までと打って変わって明るい表情だった。大泣きして目元が赤くなっていたが、本人は全く気にしていない。にこにこと身を寄せてくるので、佐見はあたふたと焦っていた。


「さっき泣いたカラスがもう笑ったか」


気恥ずかしさを誤魔化すようにそう言って、佐見は自販機で買ってきたお茶をベンチの藤木に渡す。


「ありがと、佐見」


お茶のペットボトルを受け取りながら藤木は感慨深げに呟いた。


「君が自販機使えるようになるなんてねぇ」

「…は?」


ぽかんとする佐見に、藤木はにこにこする。


「何でもないよ、国明」


ぼん、とまた佐見が赤くなった。国明と呼ばれるのが恥ずかしいらしい。


「ええっと…だな、藤、お前、オレの名前を…」

「ん?何?国明」


上目遣いに見上げて名前を呼べば、佐見は何も言えなくなる。赤い顔のまま慌てて目をそらす佐見の横顔を見つめながら、藤木は心の中で小さく言った。


いつか話してあげるよ、八百年前の僕達のこと…


まだお互いの気持ちを告げてもいない。だが、今はそれでもよかった。一緒にいられるだけで今はいい。これからゆっくり気持ちを通わせあおう。


でも、もう君はとっくに僕のこと、好きだよね。


くす、と藤木は笑みを零した。心地よい海風が藤木の髪をサラサラと散らす。榎本の館に吹いていた風を思い出し、藤木は遙か彼方を見つめた。公園から緩い下り坂になった先には、初夏の海が広がっている。沖の方では波が白く光をはじいていた。


「ええっと…だな、藤…」

「ここ、気持ちいいね」


もぞもぞと居心地悪げに話しかけようとした佐見に藤木は微笑みかけた。


「あっあぁ、そうだな」


佐見はまた慌てて顔を海の方へ向ける。くすっと藤木は笑みを漏らした。


「波も静かで、いい眺め」

「この時期は凪いでいる日が多いんだ」


地元だ、と言わんばかりに佐見が答えた。


「だが、この辺りの海は秋がいいぞ」


藤木は目を見開いた。佐見は海風にふかれ、気持ちよさそうに言う。


「秋の海は格別の風情がある。おれは秋の海が好きだ」


この男は…


藤木は泣きたいような、笑いたいような気分で胸が一杯になった。佐見は、榎本国明だったことを忘れているくせ、あの頃と同じことを言う。桜若葉の丘で交わした言葉を今、佐見は再び口にする。藤木は頷いた。


「うん…知ってるよ…」

「話したことがあったか?」


きょとん、と佐見が藤木を見る。藤木は目を伏せ、胸に迫るものを堪えた。


「うん、そう…」


しっかりと目を上げ佐見に答える。


「ずっと、ずっと昔に…ね」


藤木はにっこり笑った。佐見は釈然としない顔つきだ。記憶をたどるように首を捻っている。


「ね、佐見」


藤木はふと思いついて辺りを見回した。


「どうした」

「この辺りって、すっかり変わっちゃって昔の面影ないけど」


佐見はまたぽかんとした。


「…昔?」

「そう、昔」

「…そっそうか?まぁ、確かにこの辺りの公園や道路はここ十年でずいぶん整備されたな」


わけがわからん、といった表情の佐見は、それでも律儀に己を納得させている。


「うん、それでね」


藤木はにこにこと笑った。


「古い桜の木とかない?近くの丘みたいなところに山桜の並木があったはずなんだ」


ますますぽかん、とした顔になりながら、それでも佐見は公園の向こうを指さした。


「あっちに遊歩道と展望所がある。山桜の名所だ。なんでも一番古い木は鎌倉時代からのものだと説明書きにあったな」

「そこへ行きたい。」


藤木はベンチからすっと立ち上がった。


「行こう、国明」


ごく自然に藤木は佐見の名前を呼ぶ。しばらく呆気にとられていた佐見はふっと苦笑を漏らした。


「そうだな」


佐見もベンチから立ち上がる。


「花の季節ではないが、行ってみるか」


若葉緑の中、初夏の陽光を受けて、黒髪の青年は藤木に向かって手を差し出した。


「藤」


直垂姿の若武者の姿がそこに重なった。


藤木は悟った。あの不思議な一ヶ月は、今、この時のために存在したのかもしれない。臆病ではじめから恋を諦めていた自分に、何を捨てても失えないものがあると知らしめた。己の存在をかけて人を愛することを知った。もう揺るがない。伸ばされた手を藤木は取った。


ねぇ、佐見。


心の中で藤木は語りかける。


君に話したいことがたくさんあるよ。


どんなに君が立派な当主だったか、君の一族のこと、忠興のこと、秀次のこと。


藤木は思う。八百年の時を経て国明に出会うことができたのだ。もしかしたら、忠興や秀次、国忠や祐則達も側にいるのかもしれない。姿形は変わっても、きっとそうだ。あの大切な人達もきっと藤木の側にいる。


「どうした、藤」


並んで歩きながら佐見が顔を覗き込む。藤木が首をかしげると、佐見が優しい笑みを浮かべた。


「さっきから笑っている」


ふふ、と藤木は佐見に微笑み返す。佐見が繋いだ手にきゅっと力を込めた。


「藤は笑っている方がいいぞ」


藤木もしっかりと佐見の手を握る。


「うん、君はいつもそう言ってたね」


目をぱちくりさせる佐見に、藤木はまた笑いかけ、それからまっすぐ丘へ続く道を見上げた。青空に桜若葉が眩しい。手を繋いで二人は歩く。

薫風がざぁっと若葉を揺らした。まるで八百年の時を吹き抜けてきたように。

最後の葉っぱを揺らした風は、またいずこともなく吹きすぎていった。








後日、藤木は形見と思い定めたスマホの電源を入れてみた。だがファイルの中に、榎本の館で取った画像は存在していなかった。録音されていたはずの国明の声も消えている。


これでいいんだ。


不思議と納得できた。


国明を見つけられたんだ。だからこれでいい。


藤木は再びスマホの電源を落とす。やはりこれは形見だ。もう使うことはない。階下で健太の声がする。


アニキ、佐見さんだぞーっ。あ、佐見さん、入っててください。すぐアニキ、呼んでくるんで。


今日は佐見と一緒に新しいスマホを買いに行く。佐見のスマホも壊れたというから、一緒に買いにいってお揃いにするのだ。藤木は大事に、その古いスマホを引き出しに仕舞った。弟がドアをノックする。


「アニキ、佐見さん、待ってるぜ」

「今行くよ」


藤木はパタパタと階段を下りた。玄関に佐見が立っている。藤木はにこっと佐見に笑った。


「お待たせ。行こう、国明」

「あぁ」


現代での二人の恋ははじまったばかりだ。






どんなに時がたとうと、僕達はきっと繰り返し恋をする。姿形が変わっても、きっと互いを見つけだす。


『これからどんなに時を経ようと、おぬしはおれのものだ。おれもおぬしだけのものだ…』


人は人と思いをつなげ、広がっていく。愛おしい人達、大切な仲間達、八百年、千年、どれだけ時が過ぎてゆこうと、人の営みが続く限り、思いもまたつながっていくだろう。


「ねぇ佐見、どうして僕のこと『藤』って呼ぶの?皆『藤木』なのに何故?」

「…お前をはじめて見た時、花のようだと思った。藤木という名だったから花の名で呼ぼうと思った」

「うん」

「なっなんだ」

「知ってた」


慈しみ合う人の想いが永遠の真実となった、これは一つの物語。


おわり

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時渡り風 イーヨ @eyoeyo40

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