どこにも行けない

佐古間

どこにも行けない

 ひみつ道具をひとつ使えるなら、何を使いたい?

 ぽつりと零された問いかけにかき氷を食べる手を止めた。しゃくり、氷の軽い音がして、銀のスプーンはどんどん冷たく、指先を凍らせていく。

 なに? どうかしたの、唐突な質問に首を傾げれば、彼はにこりと笑ったまま、どうする? と問いの答えを急かしてくる。細くなった瞳がじっと私を映すので、それで、仕方なく答えを探した。

 ガラスの器はすっかり汗を掻いて、私の体温が氷をじわじわ溶かしていく。さくさく、無意味にスプーンを動かして氷の山を崩した。苺シロップがしみ込んで、溶けた氷と混ざり合う様を見るのは、いつも少し不思議な心地がした。単に苺のジュースになっていくだけ、のはずなのだけれど。

「どこでもドアかな」

 ややあって答えると、そう、と彼は頷いた。君ならそういうと思った、と、それで軽く笑う。いつも遅刻ぎりぎりだものね、と、わかった風な口で。

「じゃあ君はどうするの? 何を使う?」

 余裕ぶった様子が少しだけ腹立たしくて、そっくりそのまま質問を投げ返した。彼は間髪入れずに、タケコプター、と答えてみせる。にこにこ、楽しげな瞳のまま、空を自由に飛びたいからね、と、歌のフレーズを使ったりして。

 それで何と答えたのだったか。君らしいね、と、彼と同じ反応をしたような気もするし、それきり何も言わなかったかもしれない。どうしてそんなことを聞いたの? と、質問に対する疑問を投げたのかもしれなかった。

 ただ彼はじっと私がかき氷を食べるのを見つめていた。しゃくり、さくさく、氷の崩れる軽い音。寒がりな彼は暑い日だというのにカーディガンを着ていて、その彼のために、買い換えたばかりのクーラーは電源を消されたまま。扇風機の風は私が全身で受け止めていたような気がする。

 汗を掻いていたのは私とかき氷の器だけ。彼がなぜそんな事を聞いたのか、結局答えは教えてくれなかった。





 雪虫が飛んでいた。歩くたび、ぽつり、ぽつぽつ、コートに当たっては死んでいく。今日見た彼の顔は、昨日より随分痩せこけて、青白さが増していた。

 どれくらい悪いの? と、問うたのは私にデリカシーがないからだ。彼はぼんやりとした表情で、そうだな、もう長くないみたい、と、それだけを答えた。病院までの道のりは気分が重く、けれども病院から帰る道はいつだってもっとずっと重たかった。

「かき氷が食べたいな」

 布団に包まったままの彼が、ぼんやりとした声で言う。私が首を傾げると、氷が食べたい、と、もう一度。食べちゃいけないんでしょう? と、名前の横に下げられた食事制限の札を見る。彼はふいに頬を膨らませて、かき氷は食事の内に入らないでしょう、と呟いた。

 おなか減ったの? と、それで問う。彼が今、どんな食事を摂らされているのか、実際に食事の現場に立ち会ったことがないためわからないが、病院食は栄養が管理されている分、味気なく感じると聞く。彼は普段から薄味嗜好だったけれど、物足りなく感じることもあるのかもしれない。数秒待って、彼は緩く首を振った。

「おなかは減ってない。喉が熱いんだ」

 喉が熱い、と、彼の口から聞くのは些か不思議な単語のような気がした。喉が熱い、喉が熱い? 寒がりで、真夏だってカーディガンを着ていた彼が。

「たまには我儘を言ってもいいと思わない?」

 それから、彼はにこりと笑う。いつもの笑みだ、よく見る。柔らかいその顔を見ると、私は大抵何も言えなくなってしまって、自然と言葉に従ってしまうのだった。

 買ってくるねと言って、コンビニになら氷菓くらいあるだろうかと足を向ける。病院内は静かだ、自分の歩く、靴の音だけが響いているように感じた。かつかつ、耳障りな音。

 院内のコンビニは一階にあった。入り口横の使いやすい配置。閉店間近の時間だからか、人は少なく店員もまばら。まっすぐにガラスケースの前に向かって、氷菓がないか探した。

 苺のかき氷、ひっそりと隠すように置かれたそれを二つ、とって、レジへ行く。会計はすぐに済んだ。かき氷二つで二百七十六円。お釣りと品物を受け取ると、なんだか妙な気がした。

 彼のためにかき氷を持っていく、日がくるとは、思ってもいなかった。いつだって彼が私にかき氷を持ってきて、暑いんでしょう、食べなよ、とにっこり笑うのだ。真夏、クーラーを切った部屋の中で、扇風機の微風だけを頼りに涼む私を見かねて。

 特に希望したことも、文句を言ったこともないけれど、いつだって出てくるのは苺のかき氷で、だからたぶん、彼は苺が好きなのだろうと思っている。彼の好物を私は良く知らない。

 病室に戻ると看護師が来ていた。半分程閉じたカーテンの向こうで、看護師が彼に声をかけている。体を起こそうとしているのか、それとも倒そうとしているのか。私にはわからない。

「あ」

 動くたび、空気でひらひら揺れるカーテンのせいで、彼の顔はいまいちはっきり見えなかった。邪魔をしてはいけない気になって、近くに寄らず病室の真ん中で立ち止まる。彼の声がこちらに気づいたように短く上がり、それから強い、咳。

 看護士がばたばたと慌ただしそうに処置をする。点滴を入れ替えて、体制を変えて、熱を測る。喉が熱いと言った彼の言葉を思い出した。

 氷、と、声をかける気にはならなくて、一瞬彼の瞳と線が合う。私は黙って踵を返した。

 病院を出ると雪虫が飛んでいた。病院までの道のりは足が重いが、病院からの帰り道はもっと重い。食べもしないかき氷が二つ入ったビニールもある。がさがさと音がうるさい。

 暗い空はどんより雲が覆うだけでなく、もう日が落ちてしまったようだった。雲のせいで星は見えない。頬にぽつりと当たった雪虫は、それだけで死んでしまうのだ。





 ひみつ道具を手に入れるにはどうしたらよいのだったか、と、近頃そんなことばかりを考えていた。暗い部屋で一人過ごすのは空しい。引き上げた彼の荷物はご家族の元へ戻っていった。私は所詮、血の繋がらない他人だ。

 気づけば夏が来ていて、汗を掻く私は何故かカーディガンを着ていた。薄手のカーディガン、代わりに部屋のクーラーを入れた。夏の時期にクーラーを入れるのは随分久しぶりな気がして、電源を入れるとかたかたと少しだけ機械の音が響いていた。

 かき氷を食べなくなった。喉がずっと熱い、熱いのだけれど、どうしたら良いのかわからない。苺の香りを見つけるたびに、どうしようもなく脳裏に彼の瞳が蘇った。まっすぐ私を見ている。カーテン越しの瞳。しっかりと見つめ合って、私はどうしたのだったか。単純な話、逃げ出したのだった。

 秋のあの日、かき氷を持って逃げ帰ってからずっと、彼の顔を思い出せない。瞳の強さばかりが先に立って、いつも見た笑みも、少し困った様子も、怒った眉の感じも、よく思い出せなかった。そうしているうち、次にまじまじと見た彼の顔は人形のように瞼が閉じられていたので、私の記憶はそれで上塗りされてしまったのである。

 カーテン越しの瞳の強さ以外、彼を思い出すすべがない。ないのだけれど、思い出したいと思っているのか、果たして自分でも疑問だった。

 ひみつ道具を手に入れるにはどうすればよいのだったか。簡単な答えをいつまでも探し始めている。ひみつ道具などないと知っているのに、どうしたって探してしまう。

 ドラえもんはどこから来るのだったか、引出しの中を幾つも幾つも探して、暗闇に手を入れて落胆を繰り返す。

(ひみつ道具をひとつ使えるなら、何を使いたい?)

 彼の声は耳にじっと残っていた。暑い夏の日、苺のかき氷を食べる私に問うた彼、あの日のことだけはやけに鮮明に覚えている。彼の顔は瞳以外ぼんやりとしてしまうのだけれど。

(私はどこでもドアが欲しい)

 いつも遅刻ぎりぎりだものね、と、彼は笑った。そう、いつも遅刻してしまう。

 彼と待ち合わせをするたび、私が少しばかり遅刻をしたり、時間ぴったりに来たりするので、数分前に待っている彼はいつも困った様子で出迎えてくれた。苦笑に近い顔、それがあんまり好きじゃなくて、早く行こうと頑張るのだけど、いつだってどうしてかぎりぎりになってしまうのだった。

 掌に当たる引きだしの底。彼の机の二番目の引きだし。彼の荷物が幾つか入っていたけれど、ご家族にお返しした後は机だけが私の手元に残ってしまった。机は、彼と私と一緒に買ったものだったので。

(ひみつ道具なんてないよ)

 そんなことは知っている。知っているのに探さずにはいられなかった。いっそ処分してしまえばいいのに、それも出来ずに置いたまま。クーラーの効いた部屋に机を置くのは妙な気分になって、せっかくつけたクーラーの電源を切った。

 空を飛びたいからね、と笑った彼の顔を思い出せない。遅刻するから、の理由以外に、彼は私にひみつ道具の理由を聞かなかった。どうして聞いてくれなかったの、と、今になって文句を言う。彼に届くことはないけれど。

 同時になぜ私はもっときちんと理由を聞かなかったのか、後悔をして顔を歪めた。彼の顔を最後に見た時も、今も、涙なんて出やしなかった。黒い服を着こんだ私を見て、ご家族は彼によく似た、何とも言えない顔をしていたけれど。

 彼は私に何も残せなかったし、私は彼に何も持たせてあげられなかった。ただそれだけのことで、彼は望み通り空を飛んで、私はどこにも行けないまま。

「ひみつ道具なんてどこにもないよ」

 声に出せば記憶の彼がゆるく笑う。どんな笑みだったか、はっきりと思い出せない。カーテンの揺れる音、あ、という彼の声。はっきりと見えた瞳に映る、私の青ざめた顔。本当は知っていたことに気づかないふりをして、あの日全てから逃げ出したのは私か、彼の方か。

 そっと引きだしを締めて鍵をかけた。きっと二度と開けてはいけない。どこにでも行ける素敵なドアなど、私の元にはないのだから。

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