魔女集会で会いましょう。

玖柳龍華

魔女集会で会いましょう。


『この地への侵入を禁ずる』


「おい、小童。貴様この字が読めないのか」


神樹と呼ばれる大樹の茂る常磐の森の入り口に立つその看板を魔女は指で指した。

魔女は返事をしない子供の髪を乱雑に掴み、顔を確認した。


まるで安らかに眠ったような顔をするまだ幼い少年は、痛みに顔を歪めることすらなかった。どうやら意識がないらしい。


「さて、どうしたものか……」


魔女が森の方へ振り返ると、神樹達は道を譲り、一つの道を示した。


「……連れて帰れ、と?」


ざわざわと木々や葉が揺れる。

魔女は人間の住む世界――森の外に出ることは出来ない。

残された手段はこの小童をこの森でのたれ死にさせるか、連れて帰り看病した後に自力で外に出て貰うか。二つに一つだ。


「ここで死なれても処理をするのは私だしな。お前らやってはくれないだろう?」


しん、と森が静まりかえる。

やれやれと魔女は肩を竦めて少年の腕を片方つかみ、そのままずるずると引きずりながら木々が示した道を戻ることにした。



 ◇



少年は見ず知らずの空間で目を覚ました。

まるで野生動物の住処のような、家と言うよりも巣に近い場所だった。

その部屋でひときわ浮いているのは、今自分が寝転がっているベットだった。この内装ではどんなに質素なものであろうとベットがあること自体が浮いている。それほど人の住める場所ではない。けれど、人が住んでいると思われる痕跡はいくつか残っている。

例えば、部屋の中央に置かれている両手を伸ばしても端から端まで届きそうにないテーブルや、パチパチと燃え続けている薪とか。


「お? 目を覚ましたのか」


その女性は何もない壁から唐突に現れた。

そこにドアらしいものはない。

魔女だ――その事実は何の疑いもなく、すんなりと少年の中に取り込まれた。

その魔女は引きずるほど長く無造作に伸ばされた髪を持っていた。手入れをしていないのだろう、顔にかかった髪は彼女の目元を隠すように垂らしている。

服はまるで上から被っただけのような飾り気の無いものだった。服らしい物はそれだけで、靴も手袋も帽子もない。裸足だった。


魔女は抱えていた果物をテーブルの上に転がすと、一つだけ手にとって少年の近くに寄った。


「食え」


赤く熟れた果物から香ばしい香りがするわけでもないのに、少年の口の中は一気に湿った。

そのまま、自制せずにかぶりつく。毒が入っているとか、危機感を抱く間もなかった。そんなことより空腹だった。飢餓に見舞われていた。餓死するのなら毒で死ぬのも同じだ。一口かぶりついてからそう自分に言い聞かせ、更に大きく口を開け、果実に歯を突き立てた。

口の周りに果汁がべとりとつき、果実を持っていた手てもその果汁が滴った。


「それなりに腹も満たされ、喉の潤いも取り戻せる」


しゃり、と魔女も自分の分の果実に口をつけた。前歯だけでかじったため、果物の見た目に大きな変化はない。皮が少々捲れた程度だった。


魔女はその果物をまたテーブルに戻すと、無我夢中で食べていた少年の首元を鷲掴かんだ。

振りほどこうとしたが、手には果物を持っており振り払うことは出来ない。かといって手にある物を手放す気もなかった。それに、もし両手の自由が利いたとしても引き剥がすことはできなかっただろう。さして背丈の高くないその魔女は少年が今まであった誰よりも強力だった。


魔女は少年を引きずったまま、壁へ直進する。だが激突することなく、2人はするりと壁を通り抜けた。


体験したのは初めてだが、見たのは二度目だ。だからなのか、少年は少し驚いただけだった。


「その果実はやる。だからさっさと去れ」


部屋の外に出ると、魔女は少年を解放した。


見下すようにそびえ立つ大樹の葉がこすれ、ざわざわとざわめく。

その音と風の音しかしない。

ここが見ず知らずの地なのだと、少年の身が竦んだ。ようやく今の状況が身に染みるほど分かった。


ここは未知の土地で、自分の傍に立つのは人を食らうと噂される森の魔女。

助けて貰った言葉すら投げ出して逃げ出したい気持ちに駆られるが、足が言うことを聞かない。その理由は魔女に対する畏怖の念だけではない。

人が立ち入らないこの森に道らしい道もなければ、頼りになる光もない。木漏れ日が照らすのは自身の周りがせいぜいで、数歩先、数十歩先はよく見えない。この中を一人で歩くのか。それは、魔女に食われるぐらい恐ろしい。


少年がだんまりになっていると、魔女が「おい」と少し声を荒げた。

びくり、と肩が跳ね、魔女の方に顔だけを向ける。

髪の隙間から覗くその目は少年ではなく周囲の木々を鋭く睨み付けていた。


「何のつもりだ」


魔女が低い声でそう言った。

しゅるる、と近くの大樹から蔦のようなものが伸び、少年の片腕に絡みついた。

それだけでなく、別の大樹からも同じように伸びてきて、今度は少年の足に絡みつく。

あっという間に両手両腕だけでなく、首元や腹回りにも蔦が絡みついた。だが、締め付けるようなものではない。現に、首回りに絡みついているといっても、触れている程度であって息苦しさは皆無だ。

くすぐったさに少し身を捩ると、蔦は絡みつく位置を僅かにずらした。


「よそ者だぞ」


そう言った魔女の声に、先ほどの怒気は含まれていなかった。呆れたような、少し気の抜けた声を出す。

蔦は引くこともせず、更に絡むこともなかった。

気づけば風すらなく、何の音もしない無音の中。けれど、何者かが睨み合っているかのような緊張感が少年の肌をぴりりと刺激する。


「あぁ、もう。分かった、お前らの好きにせい」


再びざわざわと森が動き出す。

先ほどまでなかったはずの花が足下でいくつも咲いていた。どこからか描かれたような綺麗な蝶が現れ、少年の周りを舞う。

撫でるような優しい風が少年を撫で、花の甘い香りが鼻孔をかすめる。


まるで迷宮のように感じていたはずの森が、その瞬間庭のように思えた。ずっと前から知っているような。ほかでもない、それこそ家のような既知感。


少年は魔女の顔を見つめた。

魔女は風に煽られる長い髪を耳に掛けた。初めて彼女の顔を目の当たりにする。


「小童。念のため聞いておくが、貴様、魔の物ではないだろうな?」


少年は首を横に振る。口を利くのは上手くない。


「人の子か?」


少年は頷く。

ふむ、と魔女は少年の頬を包むようにして少年の顔をまじまじと見つめた。


「どうやら、そのようだな」


魔の物が嫌いなのだろうか。少年がふと疑問に思うと、声に出していないはずなのに「大嫌いだ」と魔女は顔を歪めた。


「私は強くはないからな。魔の物には殺されかねない。その分人の子は好きよ。いくら私が脆弱でも、流石に人には殺されないからな」


そう言いながら魔女は少年の頭を撫でた。

少年が少し上に目を向けると、髪の奥に隠れていた魔女の宝石のような目を拝めた。魔女の背は自分が背伸びしたときと大して変わらないと気づいたのはこのときだった。




 ◇



「ねぇ、魔女」


床に伏せ、嗄れた声で男は呼びかける。

もう目も良くない。それが分かっている魔女は男の手に自分の手を重ねた。だが、重ねてくれただけで、魔女は空いた手で本を読み続けている。


「何だ」

「俺に、不老不死の魔法、かけてよ」

「生意気め。死ぬのが怖くなったか」

「そりゃ、ね」


男は魔女の手に指を絡めた。

小さく頼りなかった手は、あっという間に魔女の大きさを超し、しわしわになり、力がなくなった。

魔女の手は出会った時のまま変わらない。大きさも色も柔らかさも、温かさも。


「それに、貴方を一人にするのは、寂しい」

「……うん? その言い方だと、小童が寂しいということにならないか?」

「そうだよ、あってる」


分からんなぁ、と魔女は首を捻る。


「俺は、まだ貴方と居たいってことですよ。だから――」

「忘れたか? 私は魔の物が大嫌いだぞ」

「……、」

「時の流れで死に至る、それが人よ」

「……、」

「なんだ、不満そうだな」


魔女はぱたんと本を閉じ、男の方に向き直った。

顔つきも体つきも声も髪の長さも、魔女はあの日から何も変わっていない。時の流れが止まっているかのように、何も。


「小童、この森の入り口の立て札の文字、覚えているな?」


男は寝転がったまま頷いた。

あの日は何が書かれているのか読めなかったが、今はそうではない。


「……『この地への侵入を禁ずる』」

「そうだ。だが、お前はその禁を破った。その罰だと思って大人しく眠れ」

「貴方が引き留めておいて、よく言う……」

「私ではない。この森だ」

「……この森は、貴方そのものだって、言ってませんでした?」

「そんな法螺を吹いた記憶はないな」


魔女はそう言いながら、男の枕元に頬杖をついてにんまりと笑った。

それが男が最後に見た彼女らしい彼女の笑みだった。


その日から連日森には雨が降り続いている。

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