第9話 熱をひとつ。

 ごろ、と寝返りを打ち、んー、大樹だいきがと唸る声でうとうとしかけてた意識が覚醒する。ベッドの隣に寄せた椅子の上で雪彦ゆきひこが眼を覚ます。見ると大樹の額に貼り付けた冷えピタがべろっと剥がれかけていた。

「体調はどう?」

 雪彦が聞くと「頭が痛い」と掠れた声が聞こえた。

 はぁ、とため息が漏れた。

 昨日の夜から熱を出した大樹は、薄いブランケットに包まっている。

「君はいったいどこからウイルスをもらってくるんだよ。筋力バカのくせに、免疫力はないんだな」

 額から冷えピタを剥がしながら毒づくと、彼は答えることもなくへへっと力なく笑っていた。

 笑い事じゃねーよ。何度それでデートをすっぽかされたことか。

 肉の薄い大樹の頬をつねって、新しい冷えピタを渡す。大樹は体調を崩して外出をキャンセルすることに関しては天才だった。

 梅雨の時期、蒸し暑くなってきた部屋の冷房を付けて温度調節をする。さぁっとカーテンのように降る雨粒が、窓に当たってつーっと滴る。

 すぅ、と寝息が聞こえる。こちらを向いたまま大樹は寝入っていた。熱で微かに赤くなった頬に、汗が浮いていた。

 部屋の電気を消して、カーテンを閉じる。

 大樹が体調を崩しやすくなったのには時期がある。大樹の妹、愛衣から聞いたところに寄ると、母の椿姫つばきが事故に遭った頃に被るのだ。

 椿姫の影響は、大樹を含め四兄妹に根深く彫り込まれていた。その中でも大樹が一番顕著に表れていた。その日を境にして大樹は泣かなくなった。悲しいと思っても涙が出なくなったという。

 体調が悪くなったのも、それが関係しているのかもしれない。椿姫に看病された記憶とか、椿姫に甘えたい気持ちとかを引っくるめて体調を崩しやすくなってしまったとも考えられる。

 我ながらおかしい。だって大樹は母親の愛に餓えているのに、それに嫉妬するなんて。

 家の中だけ掛けていたブルーライトカットの眼鏡を外す。眉間に手を当ててふーっと息を吐く。眼鏡を外すと一気に世界がぼやける。深海の底みたいな静かで暗い中で、夢が覚める直前みたいだ。


 んー、とまた唸る声で目が覚める。

 今度こそ眠っていた頭を覚醒させる。一方の大樹は半袖から伸びる健康そうな色の腕で、目元を擦っている。 

「体調はどうだい?」

 ぼんやりと開いた瞳が潤んでいた。その目がゆっくりと雪彦の方に向く。そっと大きな手が雪彦の頬に触れた。

「…………母さん」

 どくん、と心臓が鳴った。

 大樹の指がするりと雪彦の目元をなぞる。椿姫にはない泣き黒子に指先が触れる。微かに動揺したように瞳が見開かれて、悲しそうに震えた。

 なんだよ、その顔。

 そんなに残念そうな顔すること、ないだろう。

 あいにく雪彦には椿姫のまねをするほどの声色も、余裕も持ってない。

「ほんとにバカだな、君は」

「ごめん」

 謝罪がほしいわけじゃないよ。頬に触れる大樹の手に自分の手を重ねる。手の甲が熱くて、溶けてしまいそうだ。

「じゃあさ、椿姫さんがしないこと、しようか」

 頬に触れた手のひらにキスを落とす。

 テーブルの上にあったポカリを口に含んで、大樹に覆い被さる。重ねた唇から液体を流し込む。少しずつ流し込んだはずなのに、唇を話した瞬間、大樹が噎せて咳き込んだ。

「へたくそ」

「いきなりこんなことされたら噎せるわッ」

 咳き込みながら身体を起こす。頬がさっきよりも赤くなっているみたいに見えた。

「でも、椿姫さんはこんなふうに飲ませてくれなかったでしょ」

「当たり前だろ……母さんが、こんなッ、」

 そう、それでいい。大樹の頬にかかる髪をそっと指に絡ませ、耳に掛ける。

「思い出した?」

「なにを、」

 耳に口を寄せ、大樹の頭に直接語りかけるように囁く。

「今、君の隣にいるのは椿姫さんじゃない」

 吸い寄せられるように唇を重ねる。

「俺だ」

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未完成の最大幸福論 short story 青居月祈 @BlueMoonlapislazri

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