8話 レイン・ディ
少しだけ大きな傘を差して、保育園の門をくぐる。ここを最後にくぐったのは、卒園式の時。
「こんにちは! 愛衣を迎えに来ました!」
「えっ! 大樹くん! 久しぶりね~」
「あや子先生!」
ひまわり組の入り口で大声で告げると、見慣れた顔が出迎えてくれた。大樹が年長の時、担当だったあや子先生だ。
「大きくなったのね。先生うれしい」
耳の下で二つ結びになった髪が胸元で揺れた。その胸に「あやこ」と名前が刺繍されたひまわりのバッチは、変わっていなくて頬が熱くなった。
「愛衣ちゃ~ん、お兄ちゃんが来てくれたよ~」
あや子先生の後ろから、愛衣が水色のカッパに苦戦しながらとことことやってきた「おにぃ~カッパ~」と泣きそうな顔で見上げてくる。
「はいはい、それ上下逆になってるから。ほれ、貸してみ」
カッパを引っぺがして、もう一度着せてやっていると、しゃがんで見ていたあや子先生が「大樹くん、ほんとにしっかりしてるわね」と頭を撫でてくれた。
「あ~あやこせんせっ、あいも~」
「は~い、愛衣ちゃんもお兄ちゃん大好きだもんね~」
見たとおり愛衣はあや子先生が大好きで、髪を二つ結びにして、先生とお揃いの花の髪飾りを付けている。
大きな傘を差して愛衣と二人で中に入る。
「せんせ、また明日~」
「は~い、また明日ね~ 大樹くんも気をつけるのよ?」
「はい、ありがとうございます」
お辞儀をして、懐かしい門をくぐった。
「あのね、おにぃ。あいがかんがえたお話、あやこせんせ、すっごい気にいってくれたの」
「そっか~よかったなぁ」
「うん! あ、おにぃ! 水たまり水たまり!」
愛衣はぱっと手を離して、道ばたの水たまりに長靴に包まれた足を突っ込む。こういうときの愛衣は、青い目をきらきらさせて頬を林檎みたいに赤くするものだから、厳しく注意できない。
「見て見て! ほら、きらきら~」
ぱしゃっ、と爪先で蹴って水滴を散らす。
「ほら、そんなにはしゃぐなって」
それでも愛衣は「や~」と駆けだしていく。気づけば雨はさらさらとした霧雨に変わり、雲の隙間から陽の光が差していた。
「愛衣、お日さまが出てきたぞ」
「お日さま~ きのうぶり~」
カッパのフードをばさりと外し、愛衣の二つ結びした髪が外に零れた。
「愛衣、公園よっていこうか」
大樹の提案に、愛衣は破顔して大きく頷いた。
いつも遊んでいる公園は、いつもと変わって見えた。しっとりと濡れた景色は空色をした光に当たり、きらきらしているようで、盆やりもして見えた。それは愛衣も同じようで、雨に濡れた芝生に、さくっと足を踏み出していた。
「わぁ! お日さまと緑のにおいがする!」
「ほら、愛衣。あじさいが咲いてる」
「ほんとだーっ!」
片隅に咲いているあじさいに駆け寄り「あいのお顔よりおっき~」と顔を近づけてる。
「これはな、小さな花がたくさん集まってるんだぞ」
「そうなの?」
「ほら、一つ一つは小さいだろ? でも集まると、こんなに大きく見えるんだ。すごいよな」
「レオ=レオニの『スイミー』みたい!」
突飛もなく愛衣の口から出たカタカナは、まるで呪文みたいに聞こえた。
「あのね、黒いおさかなのスイミーは、いつも一匹だったの。それでね、赤いおさかなは、たくさんだったけど、おっきなおさかなに食べられちゃいそうになるの。そこで、スイミーが、みんなであつまって、大きなおさかなのまねっこをするの!」
つらつらとお話を語る愛衣に、大樹は思わず圧倒されてしまった。この話し方は、母の椿姫に似ていた。
「こないだ、おかあさんに読んでもらったのよ」
得意げに胸を張る愛衣が、少しだけ頼もしく見えた。自分が教えるだけじゃないんだと、少し寂しくも感じた。
「お、愛衣! 虹だ、虹!」
公園の真ん中に小さな虹が出ていた。水滴と、まだ降り続いているカーテンのような霧雨に光が反射して、それこそ遊具のアーチのように虹ができたのだ。
「にじーっ!」
ぱっと振り向いて虹を目がけて走り出すも、すぐに立ち止まって「あれー?」と辺りをきょろきょろ見渡した。
「おにぃ~ にじいなくなっちゃったぁ」
「愛衣が飛びつこうとするからだよ。こっち来てみな」
愛衣を呼び寄せて、もう一度広場を見渡させる。
「虹はな、恥ずかしがり屋なんだよ。だから見つかると、消えちゃうんだ。そっと遠くから見てるくらいが、ちょうどいいんだ」
「そーなの? にじさん、恥ずかしがり屋なの?」
「うん。虹って、七色だけじゃないんだ。もっと、もーっとたくさんの色が集まって、あんなに綺麗なんだ。でも、そんなに綺麗だと、たくさんの人に見られるだろう? それが恥ずかしいんだってさ」
「虹、七色ってあやこせんせに教えてもらった。違うの?」
「そうだよ。愛衣の組には、いろんな子がいるだろう? それと同じさ」
愛衣はこてんと首を傾げていた。まだ五歳には難しすぎたか。色にはたくさんの色があることを、どう説明したものか。帰ったら、色鉛筆を見てみよう。お母さんが持っている、五百色の色鉛筆。
「おにぃ~」
愛衣の声がふいに眠気を帯びてきた。
「眠い?」と聞くと、こくん、と頷き両の手で目をくしくしと擦り始める。
おんぶを促して、虹にさよならをする。
「おにぃ、」
「なぁに?」
「いまね、虹さんさよならしてくれた」
「そっか。よかったなぁ」
◆ ◇ ◆
「おかーさーん、ただいまー」
玄関で声を上げる。リビングから出てきた母は、大樹の姿を見て「あらまっ」と目を見開いた。全身をどろんこに染めた大樹と、その背中で頬にひとはねだけ泥を付けて眠る愛衣がそこにいたのだ。
「あらあら、どうしたの大樹?」
「そこで転んだ」
家の前のぬかるみに足を取られたのだという。最初、後ろにひっくり返りそうになったのを、慌てて重心を前に移して、前のめりに倒れたらしい。
「だって、そのまま後ろに行ったら、愛衣がどろんこになっちゃうでしょ?」
愛衣を抱っこしながら、大樹の話を聞く。頬の泥を擦り、へへっ、と笑う長男が、椿姫にはたくましく見えた。
「あらまぁ。頼もしいわ。愛衣ちゃんを守ってくれたのね。ありがとう、大樹」
きゅっと抱きしめられて、大樹は母がどろんこになると思ったが、あったかさにどうでもよくなって、母を抱きしめ返した。
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