第7話 お手をどうぞ、カメリア・プリンセス

「父さん、俺、欲しいものがある」

 夢だ。まだ小学生の頃。良いお兄ちゃんになろうと、我が侭をずっと言わなかった頃だった。扉に縋りつくように、でもまっすぐに父を見上げ、振り絞った喉咽の痛みは、まだ覚えている。

「ホワイトデーに、××××を、俺にちょうだい」

 

 そこで目が覚めた。喉咽が痛い。見た夢と直結しているみたいだった。

 待ち合わせの時間は午前十時なのに、既に目が覚めてしまった。仰向けになりながら机の壁掛け時計に目をやると、午前五時。まだ五時間もある。

 まだ外は薄暗い。部屋の窓を開けると、冬と春の中間みたいな、なんとも不思議な匂いの風が吹き込んできた。

 髪をワックスでセットして、いつもより少しだけ背伸びをした服を選ぶ。この時期は気温に左右されるから、いつも上に何か羽織っていくか迷う。クローゼットの少ない服の中からさんざん迷った挙げ句に、アイボリーのコーチジャケットに、ブルーグリーンのゆったりしたロングTシャツ、黒のスキニーに決めた。

「兄さん?」

 扉から愛衣がこそりと声をかけてきた。中学のセーラー服を着ている。今日は木曜日、平日だ。

「さっき、学校に風邪で休みますって連絡入れておいたからね」

「ありがとう」

「それじゃ、私行くから。デート楽しんできてね」

「デートじゃねぇよ」

 含み笑いで返した言葉は、閉じられた扉に当たって砕けた。

「……デートなんかじゃねーよ」

 今度は消え入る声が零れた。


  ◇  ◆  ◇


 待ち合わせの場所に向かうと、既に待ち人がそこにいた。

 臙脂色のワンピースに、白いレースの肩掛け。スカートの裾から伸びる足は茶色のブーツに包まれていて、艶やかな黒髪をゆったりとした三つ編みにしている。リボンは鮮やかな赤色だ。

椿姫つばきさん」

 名前を呼ぶと、その人が振り返った。

「あら、大樹くん!」

 からからと乗っていた車椅子を操りながら近づいてくる。真っ赤なうさぎみたいな愛らしい目が向けられる。それだけで、大樹の頬が紅潮してきた。

「こら、健全な男子高校生が学校サボっちゃダメでしょ」

「今日は特別です」

「もうっ、この子ったら毎年ホワイトデーはサボるんだから」

 ぷくっと子どもみたいに頬を膨らませる。彼女はそんな人なのだ。そして怒っているふりをころっと忘れたみたいに、春風みたいに「行きましょうか」と微笑んでみせる。ころころと変わっていく表情が愛らしい。

「では、お手をどうぞ。椿の姫君カメリア・プリンセス

 恭しく差し出した大樹の手のひらに、椿姫は嬉しそうに、柔らかい桜のような手のひらを重ねた。


  ◇  ◆  ◇


「あ、見て見て大樹くん! このアザラシかわいいわね~」

 アザラシの水槽の前に来る。椿姫は子どもみたいに声を上げた。ガラス越しではゴマフアザラシが、仰向けになってぶうぶうといびきをかいて寝ていた。

「ふふっ、どんな夢を見てるのかしら」

「少なくとも、シロクマに襲われるゆめじゃないことは間違いないですね」

「もうっ、大樹くんったら。そんなこと言わないのっ」

「もうそろそろイルカショーが始まりますよ」

「あら、もうそんな時間?」

 車椅子を華麗に操りながら、椿姫は人の間をすり抜けていく。それに置いて行かれないように大樹も後を追った。

 今日の天気は快晴で、うららかな日差しが降り注いでいた。屋外のメインプールもすっかり春の陽気だった。

「や! 大樹くん今の見た? あんな小さな子が大ジャンプしてるわ! きっといっぱい練習したのね! すごいわ!」

 昨年の夏に生まれた子どものイルカが、大技を繰り返し披露する度に、椿姫は頬を紅潮させて大樹の袖を引っ張ったり、手を叩いたりしてはしゃいでいた。

 水族館を早めに切り上げ、椿姫のお気に入りだというカフェに案内してもらった。彼女のお気に入りは多く、町中に点々と存在しているため、簡単な食事は椿姫の案内される店と決まっていた。

「こんにちは~」

 からんからんと扉についたベルを鳴らしながら椿姫が入り、その後に大樹も続いた。白と茶色で統一されたシックな内装で、壁の澄には黒猫のシルエットが貼ってある。

「あら、椿姫さんお久しぶり」

 ふわふわの髪を一つにまとめた店主らしき若い女性が、ぱたぱたと駆け寄ってきた。

「今日は二人でーす」

「どうぞ~ いつもの席、空いてますよ」

「わーい」と車椅子で進む椿姫の隣で、大樹は女性にお辞儀をしてから席に着いた。

 ちょうど庭が見渡せる位置のテーブル席。窓からは三分咲きの桜や、零れかけの白梅、今まさに開かんとしている大きな蕾の白木蓮が見渡せた。

「ここのお庭は、藤の花が咲く季節だけ、あそこのテラス席が使えるのよ」

 椿姫が指した方を見ると、藤棚の下に一つだけテーブルが置いてあった。まるで、そのスペースを守るように藤の木が生えている。

「秘密基地みたいですね」

「ふふっ、藤が咲いたら別格よ。今度来てみましょうね」

 今度、という椿姫の言葉に大樹は引っかかりを覚えた。きっ、と心をつねられたような痛みが走る。

 椿姫は紅茶とベリーパフェ、大樹はカプチーノとレモンタルトを注文した。フレッシュな苺をたっぷり使ったパフェを目の前に、椿姫は上手い具合にアイスと苺とクリームをすくい上げて、一口で頬張った。

「椿姫さん、口にクリーム、付いてますよ」

 思わずそっと唇から頬を拭い、慌てて手を引っ込めた。いつも結衣や嵐志にやっているせいで、つい癖になっていた。指先がかぁっと熱を持つ。

「うふふ、ありがと。お礼にひとくちっ、はい、あーん」

 アイスと苺がぐいっと目の前に差し出される。高校生男子には少し刺激が強いような気もして躊躇っていると「ほらほら、アイス溶けちゃう」と急かされた。

「じ、じゃ……」

 はくっと一口で平らげる。ラズベリーのアイスが口の中でほろりと溶けた。内側から頬の熱が冷めていく。甘酸っぱい。椿姫の笑みから思わず顔を背けた。


  ◇  ◆  ◇


 夕暮れに背を後押しされながら帰り道を歩く。

「今日は楽しかったわ。ありがとう大樹くん」

「いいんですよ。今日の俺は、椿姫さんのものです」

「あらあら。そういうことは、好きな子に言いなさい。気になることか、いるんじゃないの?」

 いないですよ。口には出さなかった。ある人物が脳裏を過ぎったからだ。人を小馬鹿にしたような態度で、でもまっすぐに弓道と向き合っていて、ずっと手を伸ばし続けている、雪の名を持つ少年。どうして彼が思い浮かんだのか、わからない。

「それじゃ、私はここで」

「病院まで送らないでいいんですか?」

「もうすぐそこだもの」

 本当に器用に車椅子でくるりと一回転してみせる。胸に垂らした三つ編みがゆらりと揺れる。

「椿姫さん」

 紙袋から小さな花束を出して、椿姫の前に差し出した。赤のラナンキュラスに薄紅色のストック、白のスイートピーとレースフラワー、そしてリナリア散らした小さなブーケ。

「一日早いですけど、お誕生日おめでとうございます」

「あら、覚えててくれたのね」

 頬を赤らめておずおずと受け取る。嬉しい、と小さく微笑む彼女の顔を、蜂蜜色の光がひらりと照らした。

「赤のラナンキュラスは『華やかな魅力』、ストックは『ふくよかな愛情』、白野スイートピーは『仄かな喜び』、レースフラワーは確か……『可憐』ね」

 さすが、元絵本作家。それだけ出なくても、彼女はたくさんの言葉を知っている。しかしリナリアの花言葉は何だったかしら、と首を傾げていた。

「『美しい人』です」

「そうそう、そんな感じだったわ。ありがとう大樹くん。本当はここで全部当てたかったんだけど……でも、友情っていいわね。私たちみたい」

 違う。リナリアの、本当の花言葉は……。言いかけて、やめた。

「それじゃ、今日はほんとにありがとう」

「こちらこそ」

 大きく手を振りながら分かれ道を行く椿姫の、その嬉しそうな表情は、末妹の結衣にそっくりだった。彼女の姿が見えなくなるまでその場に立ち続けた。指先を鼻に持って行くと残った花束の残り香がふっと薫った。エミを思い出して、喉咽が締め付けられる。

「リナリアの花言葉は……『この想いに気づいて』だよ。母さん」


  ◇  ◆  ◇


「ホワイトデーに、母さんを、俺にちょうだい」

 ずっと欲しいものがあった。欲しいものができた。父を見上げて振り絞った声が、震えていた。

 交通事故に遭った影響で、大樹のことだけ忘れてしまった母、椿姫。大樹にくれる笑みは、大樹が欲しいものじゃない。でも。

「抱きしめてもらわなくてもいい。名前を呼ばれなくてもい。だから……」

 ほろっと涙が零れる。今まで覚えていたぬくもりが、桜が散っていくみたいに、消えていきそうで怖い。涙と一緒に零れていかないように、身体を抱きしめた。

「一年に一度でいい、母さんの全部が欲しいっ!」

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