灰ノ街
【ねえ、どうして人は死んでしまうの?】
01
石畳の引かれた道を白い息を吐きながら、一人の女性が歩んでいく。
彼女の両側には石づくりの民家が多く立ち上り、街全体が灰色で統一されて美しい外観を湛えていた。
その色彩の中でひどく浮いている紫黒の髪を風になびかせ、紫色のすんだ瞳を持つその女性は『シノ』という。
シノはしばらく静寂に包まれた街道を進み、不意に道を外れて一つの大きな建物の中へ入って行った。
建物の正面には大きな十字が掲げられ、一目でその場所が病院であると分かるようになっていた。
彼女は静かな病院の中を迷いなくどんどん進んでいく。
そして一つの病室の前で突然足を止め、扉をゆっくりと開いた。
「ギィ」と木製の扉が軋む音が部屋の中に鳴り響く。
すると、その音に反応して病室の中から明るい女の子の声が聞こえてきた。
「シノさんやっときてくれたー」
その可愛らしい声に微笑みながら、シノは部屋の中に入り、ベットの上の女の子に言った。
「おまたせ、フィン」
それから、部屋の奥にあるベット脇の椅子まで歩いて行き、荷物を近くの棚へ置いた。
椅子に腰かけると、フィンと呼ばれた女の子は少しいじけた。
「もう、シノさん遅いからすっかりおなか空いちゃったよ」
シノは「遅くなってごめんね」と困ったように謝る。
するとフィンは「ううん」と頭を横に振り「シノさんが今日も来てくれたから良いの」と笑顔をシノに向けた。
心なしか少し無理をしている様な彼女のその笑顔に、シノは心を痛めた。
「何言ってるのフィン。これからも私はずっとここへ来るよ。だって私はこの病院の看護師なんだから」
しかしそれは嘘だった。シノはこの病院の看護師でも関係者でもない。
完全な部外者だった。
「うん。そうだよね」
フィンは明るい声で頷いた。
シノも頷く。
「ええ。じゃあさっそくだけどご飯にしよっか」
脇に置いておいた籠をシノはとった。
籠の中には二つの缶詰と水が入っている。
シノは缶詰のふたを開いて、水をコップに注ぎ、脇の机からフォークを取り出してフィンに渡した。
「ごめんね、フィン……今日も缶詰で……」
フィンはそれを嬉しそうに受け取り首を横に振る。
「ううん、私缶詰大好き。おいしいもん!」
シノはその様子に再び胸を締め付けられる思いがした。
暗い内心を覚られないように、無理やり明るい声を取り繕う。
「そっか……明日こそは絶対に違うものを持て来るね!」
「うん。楽しみにしてるねシノさん」
フィンが一缶目を食べ終えるのを横で見届けると、シノは次の缶のふたを開いてフィンに渡した。
「はい、フィン」
キョトンとフィンはその差し出された缶を見つめて、シノに尋ねた。
「シノさんは食べないの?」
その問いにシノは「私はもうさっき食べたから大丈夫」と答えた。
フィンは疑いの目を向ける。
「本当に?」
「うん。本当」
シノはそう言っているが、しかしフィンは見逃さなかった。
ここ最近徐々にシノがやせてきていることを。
「でも、最近シノさんやせてきたよ」
シノは「ううん。そんなことないよ」とはぐらかす。
「その缶詰はシノさんが食べて」
しかし、フィンは絶対に譲らないと有無をいわせない声で言った。
シノは強い意志のこもったフィンの目に見つめられ、彼女が絶対に引かないであろうことを覚った。
だから結局その後もさんざん渋ったが、シノはとうとう折れ「じゃあ……いただきます」とほんの少しだけ缶詰の中身をフォークの上に掬い、口へ運んだ。
それは、約2週間ぶりに口の中へ入れた食事だった。
2週間もの間何も口にしないで生きていられるような人間はふつういない。
しかし、彼女は少し特別な体を持っていた。
「おいしい……」
シノはぽつりと呟いた。
本当はそんなことを言うつもりはなかったが、それは無意識に漏れてしまっていた。
いくら彼女であったとしても空腹は感じるのだ。
だが、どんなに美味しくても、どんなにお腹が減っていようと、これはフィンに食べさせなくてはならないとシノは思う。
だから、そのまだほんの少ししか口をつけていない缶詰をシノはフィンに渡した。
「でも……これはフィンが食べて。私は大丈夫だから」
今度はシノがフィンに強い意志のこもった目を向けた。
フィンは「でも……」とためらったが、シノの眼差しに説得され、結局その缶を受け取った。
*
あれから食事を終えた二人はしばらく他愛のない話をした。
そして会話が一区切りした時、ふとシノは窓の外を見て、すっかり辺りが暗くなっていることに気がついた。
シノは椅子から立ち上がって言った。
「じゃあ、そろそろ体を拭こっか、フィン」
「はーい」
フィンは素直にこの毎日の日課に従った。
シノは先ほど持ってきておいたタオルを綺麗な水で濡らし、絞った。
「じゃあ服ぬごっか」
「うん」
フィンはシノに背中を向ける形で、ベットの上で上着を脱ぐ。
彼女の背中を見て「ッ」とシノは小さく息をのんだ。
それは、彼女の背中を覆う大きな灰色のシミが目に入ったからだ。
(また……大きくなっている……)
いつまでも動かないシノにフィンは催促した。
「どうしたの、シノさん。体拭いてー」
そのフィンの一言でシノは気を取り戻し「うん。今拭くね」と相槌を打った。
それからは身体を丁寧に隅々まで拭いていった。
フィンの体には背中の他にも様々な場所に灰色のシミがみられた。
また、それは昨日よりもさらに大きく広がっていた。
(どうしてこんなに進行が早く……このままじゃ……)
シノは「気持ちぃー」と無邪気な声を出すフィンとは反対に、内心では全く穏やかではなかった。
しかし、自分が動揺していることを覚られるわけにはいかないと、内心を押し殺す。
(私が動揺していてはだめだ……)
「終わったよ。フィン」
シノはフィンの身体がきれいになったのを確認するとそう伝えた。
「シノさん、ありがと。さっぱりした」
「ええ。じゃあ、そろそろ寝ましょうか」
フィンは駄々をこねる。
「えー もう?」
「身体を治すには早く寝ないとだめよフィン」
「うーん。じゃあ今日も絵本読み聞かせて」
「ええ、分かったわ」
そして、シノは部屋の端にある本棚へ向かいその中から一冊、まだ読んでいない絵本を取り出した。
その本の題名は『不死の旅』
不死身になった主人公が旅をするという内容だった。
シノが戻ると、フィンはすっかり枕に頭を乗せ、掛け布団を顎下まで上げてモノガタリを聞く準備をしていた。
椅子の腰かけてシノは本を開いた。
「じゃあ、読み始めるね。とあるところに…………」
02
それから幾日かの平穏な日々が流れた。
その日もシノは食糧の調達に街へ出て、それから病院へ戻った。
シノはいつもより良い食料が手に入ったので、フィンの喜ぶ顔を想像しながら病室の扉を開く。
「フィン、今日はいつもより……」
そこまで言いかけて、突然言葉を止めた。
それは、ベットから布団と共に落ちているフィンの姿が目に入ったからだった
「フィン!」
病室中にシノの悲痛な声が響く。
彼女の元へ、手に持っていた食糧が下に落ちたのも気にせずシノは駆け寄った。
ぐったりとしたフィンのことをその腕で抱き起す。
「シノさん……」
いつもの明るい声とは比べ物にならないほどに衰弱した声がフィンの口から漏れた。
「ど、どうしたの……」
ひどく動揺してシノはフィンにそう聞いた。
「体に力が入らないの……」
今にも消えてしまいそうなフィン顔を見て、シノは恐る恐る彼女の服をめくる。
「ッ」
そこには正常な人間の肌の色とはかけ離れた色が広がっていた。
まるで石像のような肌の色が広がっていた……
(もう……こんなに……)
「フィン少し動かすね」
シノは一度断りを入れ、フィン体を持ち上げてベットへ戻した。
その後、掛け布団をフィンの体へかけ直す。
「シノさん……私、死んじゃうのかな」
フィンは訥々とシノにそう尋ねた。
シノは優しい微笑をフィンに向け首を横に振った。
「ううん、大丈夫。今は悪くてもすぐに良くなるから」
しかしその言葉もまた嘘だった。
シノには――今の人類には、目の前にいるフィンという女の子が罹っている『灰化症候群』という病を治す方法はなかった。
(私は彼女に嘘ばかりついてしまっている……)
フィンはシノのついた嘘を全く疑う様子もなく頷く。
「そうだよね……シノさんがそう言うんだからきっとよくなるよね」
「ええ、絶対に良くなるわ。だから、今日は安静にしていましょう。私もずっとそばにいるわ……」
「うん……」
それからしばらくの間その会話を最後に二人は無言になり、静寂の時が流れた。
シノはどんどんと部屋の空気が暗くなっていくのを感じた。
だから、その立ち込めた暗い空気を断つようにシノは突然席から立ち上がり、先ほどから投げ出したままになっていた食糧を拾い集め、フィンに見せた。
「見てフィン。今日はこんなにおいしそうなものがたくさん手に入ったの」
フィンは色とりどりの食べものが入った籠を見て「おいしそうだね、シノさん」と目を細めた。
「ええ、だから後で食べましょう」
「うん……楽しみ」
だが、結局その約束が果たされることはなかった。
それから容態が回復することは叶わず、その日からフィンは殆ど食べ物を口に運ぶことができなくなった。
03
「フィンおはよう。今日はいい天気よ」
シノはフィンが目を覚ましたのに気が付くと、笑顔でそう話しかけた。
「おはよ う、シノ さん」
フィンはどこかぎこちなく、少し途切れ途切れに返事をする。
病室の窓から入る暖かな日に照らされたフィンの髪は、以前のような黒ではなく、すっかり灰色に変色してしまっていた。
その灰色はとても美しかったが、それは確実にフィンの命を病がむしばんでいる証拠だった。
シノはその美しくも残酷なフィンの髪を見て、ほんの一瞬だけフィンに覚られないように表情を曇らせたが、すぐに明るい顔に戻り聞いた。
「フィン、朝食は?」
彼女は頭を横に弱弱しく振る。
「うう ん。おなか減 ってないから大丈夫」
その返事が返ってくることをシノは分かっていたが、そう問わずにいられなかった。
何故なら、もう2日もフィンが口に食べ物を運んでいないからだった。
「そっか。じゃあ、顔拭こっかフィン」
シノはそう言って、タオルを絞った。
フィンは「う ん」と頭を縦に一度だけ振る。
シノはフィンのすっかりやせてしまった顔を濡れたタオルで拭いていった。
「冷たい よ、シノさん」
すると、フィンはそくすぐったそうな声をあげた。
「我慢してね。もうちょっとできれいになるから」
「うん」
そして、フィンの顔を綺麗に拭き終えると「よし、綺麗になった」とシノは笑顔を向けた。
「何かしてほしいことはある、フィン?」
彼女は「うう ん」と断り、短く続けた。
「そばにい て、シノさ ん」
その彼女の短い願いを聞いて、そのフィンの今にも壊れてしまいそうな表情を眼にして、シノは己はなんて無力なのだろうかと絶望した。
(私はなんて無力なんだ……
私のこの不死身の体なんて何の役にもたたない。
弱っていく小さな命一つを救うことさえできない……
ただそばにいることしかできない……)
「大丈夫。ずっとそばにいるよフィン」
シノの言葉を聞くと、フィンは精一杯の笑顔を向けた。
それは本当に久し振りの彼女の笑顔だった。
フィンは言った。
「あ りがとう。シノさん 大好き」
シノは頷く。
「私も大好きよフィン」
それからしばらくフィンからの次の言葉を待ったが、もうそれが帰ってくることはなかった。
それどころか、フィンはピクリとも動かなかった。
「フィン?」
シノはその様子に違和感を覚え彼女の名を呼んだ。
しかし、いくら時間が経っても返事が返ってくることはなかった。
フィンは静かに息絶えていた。
「あぁ ああ」
シノはそのことに気が付くと、押し殺した嗚咽を漏らし、フィンのベットの傍らで小さくうずくまった。
(彼女を助けてあげることがでいなかった……また、私は……)
「ごめん。ごめんねフィン」
シノは静かな病室で一人、いつまでも目の前の女の子に謝り続けた。
こうして、この街の最後の一人が息絶えた。
*
「フィン。この街は本当にきれいだね」
シノはもう動かなくなったフィンの亡骸を腕に抱えて、話しかけた。
大きな通りだというのに道を歩く者は彼女以外誰一人としていない。
また、彼女の両側にある石づくりの民家や商店からも物音一つしなかった。
それどころか、この灰色の街からは音というもの一切が死んでいた。
「また……街が死んでしまった……」
先ほどまで晴れていたはずだったのに、今ではすっかり曇ってしまった灰色の空を見上げながら、シノは一人呟いた。
その儚い声は、それ以外の音がしない街によく響いた。
シノは灰色の女の子の亡骸を抱きながら、静かな街を歩いて行く。
彼女の両親と街の人々が眠る場所へ向かって……
- 終 -
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